第4話 壺を起こす
翌朝、アニエスは屋根に登っていた。
正しくは、屋根の残っている側の梁に馬乗りになって、落ちた側の瓦を一枚ずつ拾い上げていた。使えるものと割れているものを分ける。使えるものが三割ほどある。三割あれば、北の部屋の上だけは塞げる。
「ねえ」
下から声がした。
「あんた、公爵夫人だったんでしょ。なんで屋根なんか登ってんの」
戸口に、娘が一人立っていた。十五くらいだろうか。腕を組んで、ひどく不機嫌な顔をしている。
「屋根が落ちているからです」
「そういうことじゃなくて」
「では、どういうことでしょう」
娘は答えなかった。答える代わりに、家の裏へ回って、しばらくして箒を二本持って戻ってきた。一本を土間に投げて、もう一本で枯れ草を掃きはじめる。
「……ありがとうございます」
「べつに。暇だっただけだから」
娘はマノンといった。昨日の白髪の村長、ギヨームの娘だという。
「昨日のあれ、あんたでしょ。鍋のやつ」
「はい」
「セラフィーヌ姉さん、泣いてたよ」
「まあ」
「嬉しくて泣いてたの。あんた、婚礼ぶち壊すところだったんだから、あの酒」
「わたくしが壊したわけではございませんが」
「そういうことじゃなくて」
マノンは二度目の「そういうことじゃなくて」を言った。この娘は、言いたいことの半分を口に出さない癖があるらしい。半分しか出さないのに、態度で全部出しているので、結果として分かりやすい。
「お礼を言いたいのですか」
「言ってない」
「はい」
「言ってないから」
「はい」
マノンは箒を振り回すようにして土間を掃いた。埃が舞い上がって、二人とも咳き込んだ。
「ねえ」
しばらくして、また声がした。
「その箱、何」
北の部屋の隅に置いた木箱を、マノンが顎で示していた。
「壺です」
「見ていい?」
「いけません」
「なんで」
「開けると、空気が入りますので」
「入るとどうなるの」
「起きます」
マノンが箒を止めた。
「……何が」
「中身がです」
「生きてんの?」
「はい」
娘は明らかに気味の悪いものを見る顔をした。それから、その顔のまま、もう一度木箱を見た。好奇心のほうが勝ったらしい。
「気持ち悪い」
「そうかもしれません」
「なんでそんなもの持ってきたの」
「わたくしの持参財です」
「持参財って、宝石とかじゃないの」
「ヴァルネの家には、ございませんでしたので」
マノンはしばらく黙って、それから、ひどく分かりやすく話題を変えた。
「王都って、どんな感じ」
「人が多いです」
「それだけ?」
「あとは、石畳が広うございます」
「……行ったことないんだ、わたし」
「クレールから出たことが」
「ない。一度も」マノンは箒の柄を握り直した。「だから、外の話されると、黙るしかないの」
言ってしまってから、しまった、という顔をした。
アニエスは屋根の上から瓦を一枚落とした。割れているほうの山へ、正確に。
「わたくしは、この谷の話を何も存じません」
「……そりゃそうでしょ」
「教えていただけますか」
マノンは返事をしなかった。
けれど、その日の夕方まで、彼女は帰らなかった。
◇
昼過ぎ、アニエスはユーグの工房へ行った。
村の下の、川に近いところにある。着く前から音で分かった。金槌が木の輪を叩く音が、規則正しく続いている。
工房の中は、樽と、樽になる前の板と、板になる前の丸太で埋まっていた。天井から鉋屑が下がっている。
「昨日の樽ですが」
「返しにきたのか」
「いいえ。中身の相談です」
ユーグは金槌を置いた。それから、少し考えて、いちばん手前の樽を掌で叩いた。
「これは去年の木だ。山の北側で伐った。北側は目が詰まる。詰まると香りが逃げにくい。逃げにくいってことは、焼きを弱くしていい。弱く焼くと木の甘さが残る。残ると白には合う。合うが赤には軽い。だから赤に使うなら南側の木で、南は目が粗いから焼きを強くする。強く焼くと香ばしさが出るが、出しすぎると木の味しかしなくなるから、そこは年による。去年は夏が長かったから木が太った。太った年の木は——」
「ユーグさん」
「なんだ」
「長うございます」
ユーグは金槌を持ち直した。
「……そうか」
「はい」
「長いか」
「たいへん長うございます」
彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、こちらへ背を向けて、また輪を叩きはじめた。怒ったのかと思ったが、しばらくして手元を見ると、いちばん焼きの弱い樽を一つ、脇へよけていた。
白に合う、と自分で言ったほうの樽だった。
「白を作るのか」
「まだ決めておりません。葡萄を見てからです」
「山の畑を見たのか」
「明日、参ります」
ユーグの手が止まった。
「あそこは二十年、誰も入っていない」
「はい」
「木が暴れてる。実は小さい。皮は厚い」
「では、白でしょうね」
「今、決めてないと言った」
「決めておりません」アニエスはうなずいた。「ただ、皮の厚い実で赤を作ると、渋くて飲めません」
ユーグはこちらを見た。それから、脇へよけた樽をもう少しだけ、こちらの側へ寄せた。
「名を彫っておく」
「わたくしの名を?」
「そうだ」
「なぜでしょう」
「名を彫っておけば、どこへ行っても戻ってくる」
言い方が、少しだけ固かった。理由を聞ける空気ではなかったので、アニエスは聞かなかった。
◇
日が傾いてから、アニエスは家へ戻った。
北の部屋の屋根は、どうにか塞がった。窓はない。床の四角い窪みに土を入れて均し、その上に板を渡して台にした。
木箱を開ける。藁をどける。布を外す。
壺は無事だった。馬車で二日揺られても、素焼きは欠けもしていない。
台の上に据えて、アニエスはしばらくその前に座っていた。十二日ぶりだ。
ドレニエ家を出る前の日から数えて、十二日。そのあいだ、蓋は一度も開けていない。開ければ空気が入る。入れば、そのぶん働く。移動のあいだに働かせるわけにはいかなかった。
けれど、十二日は長い。長すぎたかもしれない。
アニエスは掌を膝で拭いて、蓋に手をかけた。蓋が、かすかに吸い付いた。
内側から押している、ということだ。外して、中をのぞく。
暗い。何も見えない。素焼きの壁面が濡れていて、そこに指を這わせると、ぬめりがある。耳を近づけた。
ぱち。ずいぶん間があって、もう一度。
ぱち。
「……おはようございます」
自分の声が、思ったより掠れていた。
「遅くなりました」
返事はない。返事のかわりに、また、ぱち、と鳴った。さっきより間が短い。空気が入ったので、起きたのだ。
アニエスは蓋を膝に載せたまま、そのままの姿勢で、しばらく動かなかった。
十二年、一日も欠かさず声をかけてきた。欠かせば死ぬからだ。十二日欠けても死ななかったのは、この子が強いからで、アニエスの手柄ではない。
祖母のマルグリットは、こう言っていた。
『この子が働いてくれるまで、こっちは何もしない』
——では、こちらも働かねばならない。
◇
戸を叩く音がしたのは、日が完全に落ちてからだった。
村長のギヨームが、提灯を持って立っていた。手にもう一つ、白いものを持っている。
「アニエスさん。……これが、下の宿場に届いておりました」
封筒だった。
裏返す。蝋に、見覚えのある紋が押してある。葡萄の枝を三本組んだ紋。ドレニエ公爵家のものだ。
「早うございますね」
「え?」
「いえ。こちらの話です」
アニエスは封を切らずに、宛名の字を見た。
きれいな字だった。丸みがあって、行の間隔がそろっている。貴族の令嬢の字ではない。貴族の字はもっと崩れる。崩したほうが品がいいとされているからだ。
これは、帳面を書き慣れた手の字だった。
差出人の名は、リゼット・マルソーとあった。
酵母は生きているので、蓋を閉めきると働きが鈍り、空気を入れると起きます。移動のあいだ「起こさない」ようにするのは、道中で働かせても餌がないからでした。十二日は、ぎりぎりです。
二十年、誰も摘まなかった山の畑があるそうです。次はそこへ登って、この谷で最初の一樽を仕込みます。第1章はそこで終わりです。(三年後に開く樽)
※本日は第5話まで連続で公開します。以降は毎日十九時の更新です。




