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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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第3話 酸っぱい婚礼

クレール谷は、聞いていたとおりの土地だった。


道の両側に石がごろごろしている。畑らしきものはあるが、畝の形が崩れていて、どこまでが誰の土地か分からない。


風が強い。馬車を降りたとたん、髪が全部片側へ持っていかれた。


祖母の生家は、村のはずれにあった。


屋根が半分落ちていた。


「……なるほど」


アニエスは木箱を抱えたまま、しばらくそれを眺めた。


半分は落ちている。逆に言えば、半分は残っている。落ちているのは寝間のあたりで、残っているのは北側の、窓のない部屋だ。都合がいい、と思った。壺を置くなら、日の当たらない部屋のほうがいい。


戸を押すと、蝶番がひとつ外れて、板ごと内側へ傾いた。土間には枯れ草が吹き溜まっていて、その下から石の床が覗いている。祖母はここで生まれて、ここから出ていった。出ていく日に何を持って出たかは聞いているが、何を置いていったかは聞いていない。


石の床を靴の先で払ってみると、四角い窪みがあった。桶を据えていた跡だ。そこだけ、土が黒い。


——ここは、酒を造る家だった。


アニエスは木箱を胸に抱え直した。それから、外へ出た。屋根を直す前に、まず村へ挨拶に行かねばならない。この土地で暮らすつもりなら、順番は間違えないほうがいい。



村の広場から、太鼓の音がしていた。


行ってみると、人が三十人ばかり集まっていた。花輪がかかっている。長い卓が出ていて、その真ん中に白い服の娘が立っていた。


婚礼だ。


ただし、誰も笑っていない。


「だから、樽が悪いんだって言ってるだろう!」


赤ら顔の男が、卓を叩いた。


「去年まではこんなことなかった。今年から樽を変えた。それだけだ」


「……変えてない」


低い声が答えた。卓の端に、背の高い男が立っている。腕が太い。手の甲に木屑がついたままだ。


「同じ山の、同じ木で作った」


「じゃあなんで酸っぱいんだ、ユーグ!」


白い服の娘が、うつむいた。肩が震えている。花嫁だ。アニエスは人の輪の外から、卓の上の杯を見ていた。


——匂いが、ここまで来ている。


「失礼いたします」


自分でも驚くほど自然に、口が動いた。


人が振り返った。三十人ぶんの視線が一度に来る。よそ者だ。それも、埃だらけとはいえ都の仕立ての服を着ている。


「なんだ、あんた」


「通りすがりの者です。——その酒を、少し見せていただけますか」


「見せてどうする」


「匂いだけ、かがせてください」


赤ら顔の男は面食らった顔をしたが、それより早く、花嫁の隣にいた白髪の男が杯を差し出した。この人が村長なのだろう。


アニエスは杯を受け取り、鼻に近づけた。


酢の匂い。その下に、うっすら、糊のような甘さ。


「樽ではありません」


「は?」


「これは、樽のせいではありません」


赤ら顔の男が眉を上げた。背の高い男——ユーグと呼ばれた男が、初めてこちらを見た。


「仕込みのときの、温度です」


「この酒を仕込んだのはどなたですか」


「……俺だ」赤ら顔の男が手を挙げた。「俺と、うちの息子で」


「桶はどこに置かれましたか」


「納屋の外だ。中は狭いんでな」


「今年の夏は、暑うございましたね」


男が黙った。


「外に置くと、昼のあいだ桶が焼けます。焼けると、酒になる前に別のものが先に働きます。——酢になるほうが、先に走るのです」


「そんな、たかが置き場所で」


「たかが置き場所です」アニエスはうなずいた。「わたくしの実家では、それで三年ぶんを捨てました」


三十人が、ほとんど同時に納屋のほうを向いた。赤ら顔の男だけが最後に振り返り、その姿勢のまま動かなくなった。納屋の壁は、まっすぐ南を向いている。


「……日向だ」


「はい」


「日向に、置いた」


「はい」


男の顔から赤みが引いた。それを見て、アニエスは少しだけ言い足した。


「来年は、床下に埋めるか、北側へ回してください。それで直ります」


「……来年」


「来年です」


問題は、今年だった。


花嫁が立ったままだ。卓には料理が並んでいる。振る舞う酒だけがない。


「捨てましょうか」村長が力なく言った。「他に出すものがありません」


「捨てないでください」


アニエスは袖をまくった。


「鍋はございますか。いちばん大きいものを」


「鍋?」


「それから、蜂蜜。あれば、月桂の葉と、胡椒。林檎があれば四つに割って。——どなたか、火を熾していただけますか」


村人が顔を見合わせた。


「あの、お嬢さん、その酒はもう」


「酒には戻りません」アニエスはうなずいた。「けれど、温めれば別のものになります。冷たいまま飲むから酸が立つのです。熱を入れて、甘みと香りを足せば、酸は骨になります」


「骨」


「背骨です。まっすぐな味になります」


村長がしばらく彼女を見て、それから、大声で言った。


「鍋を持ってこい! 大きいやつだ!」



火が入ると、村は勝手に動きはじめた。


誰かが蜂蜜の壺を抱えてきた。誰かが林檎を割った。子どもが月桂の枝を持って走ってきて、母親に頭を叩かれた。枝ごと持ってきたからだ。


アニエスは鍋の縁に手をかざして温度を見た。煮立たせてはいけない。煮立たせると香りが飛ぶ。


湯気が立ちはじめる。酢の匂いが、蜜と胡椒の匂いに巻かれて、少しずつ形を変えていく。


十二年、これと同じことを毎年していた。もっと大きな鍋で、もっと高い天井の下で、もっと立派な葡萄を相手に。けれど手のやることは変わらない。温度を見て、匙で一口すくって、足りないものを足す。それだけだ。


違うのは、ここでは全員が鍋のまわりに立っていることだった。ドレニエ家の蔵には、誰も降りてこなかった。


木の匙で一口すくって、冷ましてから舐めた。


「——もう少し、蜜を」


「どのくらい」


「ひとすくい半」


隣に、いつのまにか背の高い男が立っていた。ユーグだ。彼が黙って蜜をひとすくい半、鍋に落とした。目分量が正確だった。


「あなた、量りましたね」


「樽師だ」


それが答えになっている、と本人は思っているらしかった。



最初の一杯は、花嫁に渡した。


セラフィーヌという名前だと、そのとき知った。娘は両手で器を受け取って、湯気に顔を近づけて、それから、ようやく笑った。


「……あったかい」


「今日は風が強うございますから」


「おいしい」


「よかった」


二杯目からは村の者が勝手に注ぎはじめた。誰かが太鼓を叩いた。誰かが歌い出して、音程が外れていて、それでまた笑いが起きた。


赤ら顔の男が器を持ってきて、アニエスの前で立ち止まった。


「……すまん。あんた、名前は」


「アニエスと申します」


「アニエス」


「ヴァルネのアニエスです」


ヴァルネ、と男が繰り返した。ドレニエとは言わなかった。言う理由がなかった。



日が落ちるころ、ユーグが樽を一つ、転がしてきた。


小さい。片手で抱えられるくらいのものだ。


「なんでしょうか」


「やる」


「いただく理由がございません」


「今日の礼だ」ユーグは樽の腹を掌で叩いた。乾いた、いい音がした。「俺の樽が悪いんじゃないと、あんたが言った」


「事実を申し上げただけです」


「事実を言うやつが、この谷には一人もいなかった」


アニエスは樽を見た。それから、少し困った。


「……中身がございません」


「作れ」


「葡萄がございません」


そこへ、村長が割って入った。手に器を持ったまま、少し赤い顔で。


「あの、アニエスさん。……お住まいは、あの、上の古い家だとうかがいましたが」


「はい」


「あそこの持ち主のご縁の方でしたら、山の畑も、たしか一緒に」


「山の畑」


「誰も摘まないので、二十年ばかり、そのままです」

温めた葡萄酒は、寒い土地では珍しくない飲み方です。酸が立った酒を「捨てる」以外の道へ持っていくとき、いちばん手が届きやすいのが熱と蜜でした。ちなみに煮立たせると香りが飛びます。アニエスが鍋の縁で手をかざしていたのは、そのためです。


明日は、あの木箱の蓋をようやく開けます。十二日も閉めきったままでしたので、中身が生きているかどうかは、開けてみるまで分かりません。(次話・壺を起こす)


※本日は第5話まで連続で公開します。以降は毎日十九時の更新です。

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