第3話 酸っぱい婚礼
クレール谷は、聞いていたとおりの土地だった。
道の両側に石がごろごろしている。畑らしきものはあるが、畝の形が崩れていて、どこまでが誰の土地か分からない。
風が強い。馬車を降りたとたん、髪が全部片側へ持っていかれた。
祖母の生家は、村のはずれにあった。
屋根が半分落ちていた。
「……なるほど」
アニエスは木箱を抱えたまま、しばらくそれを眺めた。
半分は落ちている。逆に言えば、半分は残っている。落ちているのは寝間のあたりで、残っているのは北側の、窓のない部屋だ。都合がいい、と思った。壺を置くなら、日の当たらない部屋のほうがいい。
戸を押すと、蝶番がひとつ外れて、板ごと内側へ傾いた。土間には枯れ草が吹き溜まっていて、その下から石の床が覗いている。祖母はここで生まれて、ここから出ていった。出ていく日に何を持って出たかは聞いているが、何を置いていったかは聞いていない。
石の床を靴の先で払ってみると、四角い窪みがあった。桶を据えていた跡だ。そこだけ、土が黒い。
——ここは、酒を造る家だった。
アニエスは木箱を胸に抱え直した。それから、外へ出た。屋根を直す前に、まず村へ挨拶に行かねばならない。この土地で暮らすつもりなら、順番は間違えないほうがいい。
◇
村の広場から、太鼓の音がしていた。
行ってみると、人が三十人ばかり集まっていた。花輪がかかっている。長い卓が出ていて、その真ん中に白い服の娘が立っていた。
婚礼だ。
ただし、誰も笑っていない。
「だから、樽が悪いんだって言ってるだろう!」
赤ら顔の男が、卓を叩いた。
「去年まではこんなことなかった。今年から樽を変えた。それだけだ」
「……変えてない」
低い声が答えた。卓の端に、背の高い男が立っている。腕が太い。手の甲に木屑がついたままだ。
「同じ山の、同じ木で作った」
「じゃあなんで酸っぱいんだ、ユーグ!」
白い服の娘が、うつむいた。肩が震えている。花嫁だ。アニエスは人の輪の外から、卓の上の杯を見ていた。
——匂いが、ここまで来ている。
「失礼いたします」
自分でも驚くほど自然に、口が動いた。
人が振り返った。三十人ぶんの視線が一度に来る。よそ者だ。それも、埃だらけとはいえ都の仕立ての服を着ている。
「なんだ、あんた」
「通りすがりの者です。——その酒を、少し見せていただけますか」
「見せてどうする」
「匂いだけ、かがせてください」
赤ら顔の男は面食らった顔をしたが、それより早く、花嫁の隣にいた白髪の男が杯を差し出した。この人が村長なのだろう。
アニエスは杯を受け取り、鼻に近づけた。
酢の匂い。その下に、うっすら、糊のような甘さ。
「樽ではありません」
「は?」
「これは、樽のせいではありません」
赤ら顔の男が眉を上げた。背の高い男——ユーグと呼ばれた男が、初めてこちらを見た。
「仕込みのときの、温度です」
「この酒を仕込んだのはどなたですか」
「……俺だ」赤ら顔の男が手を挙げた。「俺と、うちの息子で」
「桶はどこに置かれましたか」
「納屋の外だ。中は狭いんでな」
「今年の夏は、暑うございましたね」
男が黙った。
「外に置くと、昼のあいだ桶が焼けます。焼けると、酒になる前に別のものが先に働きます。——酢になるほうが、先に走るのです」
「そんな、たかが置き場所で」
「たかが置き場所です」アニエスはうなずいた。「わたくしの実家では、それで三年ぶんを捨てました」
三十人が、ほとんど同時に納屋のほうを向いた。赤ら顔の男だけが最後に振り返り、その姿勢のまま動かなくなった。納屋の壁は、まっすぐ南を向いている。
「……日向だ」
「はい」
「日向に、置いた」
「はい」
男の顔から赤みが引いた。それを見て、アニエスは少しだけ言い足した。
「来年は、床下に埋めるか、北側へ回してください。それで直ります」
「……来年」
「来年です」
問題は、今年だった。
花嫁が立ったままだ。卓には料理が並んでいる。振る舞う酒だけがない。
「捨てましょうか」村長が力なく言った。「他に出すものがありません」
「捨てないでください」
アニエスは袖をまくった。
「鍋はございますか。いちばん大きいものを」
「鍋?」
「それから、蜂蜜。あれば、月桂の葉と、胡椒。林檎があれば四つに割って。——どなたか、火を熾していただけますか」
村人が顔を見合わせた。
「あの、お嬢さん、その酒はもう」
「酒には戻りません」アニエスはうなずいた。「けれど、温めれば別のものになります。冷たいまま飲むから酸が立つのです。熱を入れて、甘みと香りを足せば、酸は骨になります」
「骨」
「背骨です。まっすぐな味になります」
村長がしばらく彼女を見て、それから、大声で言った。
「鍋を持ってこい! 大きいやつだ!」
◇
火が入ると、村は勝手に動きはじめた。
誰かが蜂蜜の壺を抱えてきた。誰かが林檎を割った。子どもが月桂の枝を持って走ってきて、母親に頭を叩かれた。枝ごと持ってきたからだ。
アニエスは鍋の縁に手をかざして温度を見た。煮立たせてはいけない。煮立たせると香りが飛ぶ。
湯気が立ちはじめる。酢の匂いが、蜜と胡椒の匂いに巻かれて、少しずつ形を変えていく。
十二年、これと同じことを毎年していた。もっと大きな鍋で、もっと高い天井の下で、もっと立派な葡萄を相手に。けれど手のやることは変わらない。温度を見て、匙で一口すくって、足りないものを足す。それだけだ。
違うのは、ここでは全員が鍋のまわりに立っていることだった。ドレニエ家の蔵には、誰も降りてこなかった。
木の匙で一口すくって、冷ましてから舐めた。
「——もう少し、蜜を」
「どのくらい」
「ひとすくい半」
隣に、いつのまにか背の高い男が立っていた。ユーグだ。彼が黙って蜜をひとすくい半、鍋に落とした。目分量が正確だった。
「あなた、量りましたね」
「樽師だ」
それが答えになっている、と本人は思っているらしかった。
◇
最初の一杯は、花嫁に渡した。
セラフィーヌという名前だと、そのとき知った。娘は両手で器を受け取って、湯気に顔を近づけて、それから、ようやく笑った。
「……あったかい」
「今日は風が強うございますから」
「おいしい」
「よかった」
二杯目からは村の者が勝手に注ぎはじめた。誰かが太鼓を叩いた。誰かが歌い出して、音程が外れていて、それでまた笑いが起きた。
赤ら顔の男が器を持ってきて、アニエスの前で立ち止まった。
「……すまん。あんた、名前は」
「アニエスと申します」
「アニエス」
「ヴァルネのアニエスです」
ヴァルネ、と男が繰り返した。ドレニエとは言わなかった。言う理由がなかった。
◇
日が落ちるころ、ユーグが樽を一つ、転がしてきた。
小さい。片手で抱えられるくらいのものだ。
「なんでしょうか」
「やる」
「いただく理由がございません」
「今日の礼だ」ユーグは樽の腹を掌で叩いた。乾いた、いい音がした。「俺の樽が悪いんじゃないと、あんたが言った」
「事実を申し上げただけです」
「事実を言うやつが、この谷には一人もいなかった」
アニエスは樽を見た。それから、少し困った。
「……中身がございません」
「作れ」
「葡萄がございません」
そこへ、村長が割って入った。手に器を持ったまま、少し赤い顔で。
「あの、アニエスさん。……お住まいは、あの、上の古い家だとうかがいましたが」
「はい」
「あそこの持ち主のご縁の方でしたら、山の畑も、たしか一緒に」
「山の畑」
「誰も摘まないので、二十年ばかり、そのままです」
温めた葡萄酒は、寒い土地では珍しくない飲み方です。酸が立った酒を「捨てる」以外の道へ持っていくとき、いちばん手が届きやすいのが熱と蜜でした。ちなみに煮立たせると香りが飛びます。アニエスが鍋の縁で手をかざしていたのは、そのためです。
明日は、あの木箱の蓋をようやく開けます。十二日も閉めきったままでしたので、中身が生きているかどうかは、開けてみるまで分かりません。(次話・壺を起こす)
※本日は第5話まで連続で公開します。以降は毎日十九時の更新です。




