第2話 引き継ぎませんでした
翌朝、アニエスはいつもどおり暗いうちに起きて、いつもどおり蔵へ降りた。
違ったのは、腕に帳面を三冊抱えていたことだ。
「おはようございます」
「……おはようございます、奥様」
蔵頭のロランが、石の台の前で頭を下げた。この人は六十八になる。アニエスが嫁いできた日にはもう蔵頭で、そのときすでに腰が曲がっていた。十二年たって、曲がり方はほとんど変わっていない。
若い蔵人が二人、桶の陰から様子をうかがっている。話はもう屋敷じゅうに回っているのだろう。
「引き継ぎをいたします」
アニエスは帳面を台に並べた。
「仕込み帳。樽帳。畑の帳。この三冊で、この蔵は回ります」
「奥様」
「聞いてください」
「仕込み帳には、その年の温度と、泡が立った日と、止まった日が書いてあります。十二年ぶんあります。今年の判断に迷ったら、似た年を探してください。一昨年が近いはずです」
「……はい」
「樽帳。左の列が樽の齢、右が中身です。齢五年を超えた樽には、若い酒を入れないでください。木が枯れています」
「はい」
「畑の帳。南の段から摘みます。北の段は最後です。北は日が短いので酸が落ちません」
ロランは一言も口を挟まずに書き取っていた。書き取りながら、途中で二度、手を止めた。
止めたところは、たぶん彼が知らなかったところだ。
「あの、奥様」
若い蔵人のほうが、おそるおそる手を挙げた。ピエールという。去年入った子だ。
「泡が立った日、って、どうやって数えるんですか」
「音です」
「音」
アニエスは奥の桶へ歩いていって、蓋に耳を寄せた。ピエールが真似をする。
「聞こえますか」
「……ぱち、ぱち、って」
「それが立っている音です。一日に何度か、間隔が変わります。詰まってきたら止まりかけです」
「数えるんですか。ずっと」
「朝と、昼と、夜に。三回で足ります」
ピエールが黙った。それから、ずいぶん困った顔をした。
「三回、毎日ですか」
「毎日です」
「……仕込みのあいだ、ずっと」
「仕込みのあいだ、ずっとです」
ロランが小さく咳払いをして、ピエールの背中を叩いた。叩かれたピエールは謝ったが、何を謝ったのかは分かっていない顔だった。
「鍵は三本です」アニエスは腰の輪から外して、台に置いた。「柄の丸いのが道具蔵、四角いのが樽蔵。この、柄に傷が入っているのが」
「発酵蔵で」
「ご存じでしたか」
「……傷は、私が付けました」ロランが少しだけ笑った。「奥様が嫁いでこられた年に。何度も間違えられるので」
そんなことがあったろうか。十二年前だ。覚えていない。
覚えていないまま、その傷を毎朝握ってきたことになる。
「ありがとうございました」
アニエスは頭を下げた。ロランが慌てて、それ以上に深く下げ返した。帳面は三冊とも渡した。鍵も三本とも渡した。畑の割りも、樽の齢も、桶を洗う順番も、全部渡した。
渡していないものは、一つしかない。ロランはそれに気づいていた。気づいていて、最後まで聞かずにいた。
「……奥様」
アニエスが石段に足をかけたとき、後ろから声がした。
「母は」
蔵の空気が動かなくなった。若い蔵人の一人が、意味が分からないという顔で顔を上げる。
アニエスは振り返らずに答えた。
「持ってまいります。わたくしの持参財ですので」
「……左様で」
「目録に書いてございます。旦那様のご承諾もいただきました」
「はい」
「壺一つ、と」
「……はい」
それきり、ロランは何も言わなかった。
言わないので、アニエスも言わなかった。この人は、十二年のあいだ、蔵でいちばん近くにいた人だ。近くにいたから、意味が分かってしまう。
分かってしまう人に説明するのは、残酷なだけだった。
いちばん奥の台から壺を下ろすとき、ロランが黙って手を貸した。
二人がかりで持つほどの大きさではない。それでも彼は木箱を押さえ、藁を寄せ、布の端を折り込んだ。手つきが丁寧すぎて、アニエスは途中で目をそらした。
「それ、何なんですか」
ピエールが箱をのぞき込んだ。
「壺です」
「いや、中身が」
「古いものです」
「古いって、どのくらい」
「わたくしの祖母より、古いものです」
ピエールは「へえ」と言った。それで納得したらしかった。
納得できる答えではないのに納得してしまうのは、この屋敷では珍しいことではない。十二年、誰もこの台の前で立ち止まらなかった。掃除の者は台の脚を拭いて、壺には触れずに帰っていった。触るなと言われていたからではない。触るほどのものに見えなかったからだ。
ロランが木箱の蓋を閉めた。
「……南の段から、でしたな」
「はい」
「北は、最後」
「はい」
「奥様」
「なんでしょう」
ロランは何か言いかけて、口を閉じた。それから、蓋の上を一度だけ手で払った。埃などついていなかった。
◇
昼前に、荷は積み終わった。
鞄が一つと、木箱が一つ。木箱の中には藁を敷いて、布でくるんだ壺が入れてある。婚礼衣装は置いてきた。書物十七冊も置いてきた。持って歩ける重さではないし、どのみち中身はもう覚えている。
「奥方さま」御者が帽子を取った。「どちらまで」
「クレール谷まで」
御者の手が止まった。
「……クレールの、どのあたりで」
「ラヴォーという村です」
「あそこは」御者は言いかけて、言い直した。「……道が悪うございます。途中でお泊まりいただくことになりますが」
「かまいません」
「石ころばかりの土地でして。葡萄も、ろくに」
「存じております」
祖母のマルグリットがそこで生まれた。母が嫁いだのはもっと西の土地で、アニエス自身は一度も行ったことがない。行ったことはないが、話は聞いている。
痩せていて、寒くて、風が強い。
葡萄には向かない土地だと、祖母は笑っていた。
『あそこの葡萄はね、小さくて、皮が厚くて、粒がそろわないの』
『おいしくないの』
『そのままだと、渋いだけ』
『じゃあ、どうするの』
『待つのよ』
祖母のマルグリットは、そう言って壺の蓋を叩いてみせた。アニエスは五つか六つだった。
『この子が働いてくれるまで、こっちは何もしない。手を出したくなるけどね、出したら負け』
『ずるいね』
『ずるいわね』
祖母は笑った。歯が二本欠けていて、笑うと隙間から息が抜けた。
葡萄に向かない土地から、祖母はその壺を一つだけ持って出てきた。母がそれを受け取り、母がアニエスに渡した。渡すとき、母は目録に「壺一つ」と書いた。値打ちのないものとして書けば、嫁ぎ先が興味を持たないと知っていたからだ。
そのとおりになった。十二年、誰も興味を持たなかった。
おかげで、今日、何の揉め事もなく持ち出せている。
◇
ジェラールは見送りに出てこなかった。
出てこないだろうと思っていたので、腹も立たなかった。応接間の窓に人影があったような気もするが、確かめる理由もない。
馬車が動き出す。
膝の上の木箱が、車輪の揺れで少しずれた。アニエスは両手で押さえた。
門をくぐる直前、誰かが走ってくる音がした。
「奥様——」
ロランだった。息を切らして、片手を上げて、それから、上げた手のやり場に困ったように下ろした。
「なんでしょう」
「……いえ」
「ロラン」
「いえ。……お気をつけて」
年寄りが走ると危ないですよ、と言おうとして、やめた。この人はたぶん、走らずにいられなかったのだ。
アニエスは窓から少しだけ身を乗り出した。
「摘みは、南の段からです。忘れないでください」
「……はい」
「それだけです」
馬車が門を出た。
振り返ると、ロランはまだ同じところに立っていた。手を振るでもなく、頭を下げるでもなく、ただ立っていた。
その顔が、なぜか、葬式の顔に見えた。
「母」は、この物語のなかで葡萄酒の造り手が使う言い方です。何のことかは、そのうち勝手に分かります。ロランだけが先に分かっている、というのが今日の話でした。
クレール谷に着いた初日、村は婚礼の最中でした。ただし、誰も笑っていません。振る舞い酒が飲めたものではなかったからです。——「酸っぱい婚礼」へ続きます。
※本日は第5話まで連続で公開します。以降は毎日十九時の更新です。




