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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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2/24

第2話 引き継ぎませんでした

翌朝、アニエスはいつもどおり暗いうちに起きて、いつもどおり蔵へ降りた。


違ったのは、腕に帳面を三冊抱えていたことだ。


「おはようございます」


「……おはようございます、奥様」


蔵頭のロランが、石の台の前で頭を下げた。この人は六十八になる。アニエスが嫁いできた日にはもう蔵頭で、そのときすでに腰が曲がっていた。十二年たって、曲がり方はほとんど変わっていない。


若い蔵人が二人、桶の陰から様子をうかがっている。話はもう屋敷じゅうに回っているのだろう。


「引き継ぎをいたします」


アニエスは帳面を台に並べた。


「仕込み帳。樽帳。畑の帳。この三冊で、この蔵は回ります」


「奥様」


「聞いてください」


「仕込み帳には、その年の温度と、泡が立った日と、止まった日が書いてあります。十二年ぶんあります。今年の判断に迷ったら、似た年を探してください。一昨年が近いはずです」


「……はい」


「樽帳。左の列が樽の齢、右が中身です。齢五年を超えた樽には、若い酒を入れないでください。木が枯れています」


「はい」


「畑の帳。南の段から摘みます。北の段は最後です。北は日が短いので酸が落ちません」


ロランは一言も口を挟まずに書き取っていた。書き取りながら、途中で二度、手を止めた。


止めたところは、たぶん彼が知らなかったところだ。


「あの、奥様」


若い蔵人のほうが、おそるおそる手を挙げた。ピエールという。去年入った子だ。


「泡が立った日、って、どうやって数えるんですか」


「音です」


「音」


アニエスは奥の桶へ歩いていって、蓋に耳を寄せた。ピエールが真似をする。


「聞こえますか」


「……ぱち、ぱち、って」


「それが立っている音です。一日に何度か、間隔が変わります。詰まってきたら止まりかけです」


「数えるんですか。ずっと」


「朝と、昼と、夜に。三回で足ります」


ピエールが黙った。それから、ずいぶん困った顔をした。


「三回、毎日ですか」


「毎日です」


「……仕込みのあいだ、ずっと」


「仕込みのあいだ、ずっとです」


ロランが小さく咳払いをして、ピエールの背中を叩いた。叩かれたピエールは謝ったが、何を謝ったのかは分かっていない顔だった。


「鍵は三本です」アニエスは腰の輪から外して、台に置いた。「柄の丸いのが道具蔵、四角いのが樽蔵。この、柄に傷が入っているのが」


「発酵蔵で」


「ご存じでしたか」


「……傷は、私が付けました」ロランが少しだけ笑った。「奥様が嫁いでこられた年に。何度も間違えられるので」


そんなことがあったろうか。十二年前だ。覚えていない。


覚えていないまま、その傷を毎朝握ってきたことになる。


「ありがとうございました」


アニエスは頭を下げた。ロランが慌てて、それ以上に深く下げ返した。帳面は三冊とも渡した。鍵も三本とも渡した。畑の割りも、樽の齢も、桶を洗う順番も、全部渡した。


渡していないものは、一つしかない。ロランはそれに気づいていた。気づいていて、最後まで聞かずにいた。


「……奥様」


アニエスが石段に足をかけたとき、後ろから声がした。


ラ・メールは」


蔵の空気が動かなくなった。若い蔵人の一人が、意味が分からないという顔で顔を上げる。


アニエスは振り返らずに答えた。


「持ってまいります。わたくしの持参財ですので」


「……左様で」


「目録に書いてございます。旦那様のご承諾もいただきました」


「はい」


「壺一つ、と」


「……はい」


それきり、ロランは何も言わなかった。


言わないので、アニエスも言わなかった。この人は、十二年のあいだ、蔵でいちばん近くにいた人だ。近くにいたから、意味が分かってしまう。


分かってしまう人に説明するのは、残酷なだけだった。


いちばん奥の台から壺を下ろすとき、ロランが黙って手を貸した。


二人がかりで持つほどの大きさではない。それでも彼は木箱を押さえ、藁を寄せ、布の端を折り込んだ。手つきが丁寧すぎて、アニエスは途中で目をそらした。


「それ、何なんですか」


ピエールが箱をのぞき込んだ。


「壺です」


「いや、中身が」


「古いものです」


「古いって、どのくらい」


「わたくしの祖母より、古いものです」


ピエールは「へえ」と言った。それで納得したらしかった。


納得できる答えではないのに納得してしまうのは、この屋敷では珍しいことではない。十二年、誰もこの台の前で立ち止まらなかった。掃除の者は台の脚を拭いて、壺には触れずに帰っていった。触るなと言われていたからではない。触るほどのものに見えなかったからだ。


ロランが木箱の蓋を閉めた。


「……南の段から、でしたな」


「はい」


「北は、最後」


「はい」


「奥様」


「なんでしょう」


ロランは何か言いかけて、口を閉じた。それから、蓋の上を一度だけ手で払った。埃などついていなかった。



昼前に、荷は積み終わった。


鞄が一つと、木箱が一つ。木箱の中には藁を敷いて、布でくるんだ壺が入れてある。婚礼衣装は置いてきた。書物十七冊も置いてきた。持って歩ける重さではないし、どのみち中身はもう覚えている。


「奥方さま」御者が帽子を取った。「どちらまで」


「クレール谷まで」


御者の手が止まった。


「……クレールの、どのあたりで」


「ラヴォーという村です」


「あそこは」御者は言いかけて、言い直した。「……道が悪うございます。途中でお泊まりいただくことになりますが」


「かまいません」


「石ころばかりの土地でして。葡萄も、ろくに」


「存じております」


祖母のマルグリットがそこで生まれた。母が嫁いだのはもっと西の土地で、アニエス自身は一度も行ったことがない。行ったことはないが、話は聞いている。


痩せていて、寒くて、風が強い。


葡萄には向かない土地だと、祖母は笑っていた。


『あそこの葡萄はね、小さくて、皮が厚くて、粒がそろわないの』


『おいしくないの』


『そのままだと、渋いだけ』


『じゃあ、どうするの』


『待つのよ』


祖母のマルグリットは、そう言って壺の蓋を叩いてみせた。アニエスは五つか六つだった。


『この子が働いてくれるまで、こっちは何もしない。手を出したくなるけどね、出したら負け』


『ずるいね』


『ずるいわね』


祖母は笑った。歯が二本欠けていて、笑うと隙間から息が抜けた。


葡萄に向かない土地から、祖母はその壺を一つだけ持って出てきた。母がそれを受け取り、母がアニエスに渡した。渡すとき、母は目録に「壺一つ」と書いた。値打ちのないものとして書けば、嫁ぎ先が興味を持たないと知っていたからだ。


そのとおりになった。十二年、誰も興味を持たなかった。


おかげで、今日、何の揉め事もなく持ち出せている。



ジェラールは見送りに出てこなかった。


出てこないだろうと思っていたので、腹も立たなかった。応接間の窓に人影があったような気もするが、確かめる理由もない。


馬車が動き出す。


膝の上の木箱が、車輪の揺れで少しずれた。アニエスは両手で押さえた。


門をくぐる直前、誰かが走ってくる音がした。


「奥様——」


ロランだった。息を切らして、片手を上げて、それから、上げた手のやり場に困ったように下ろした。


「なんでしょう」


「……いえ」


「ロラン」


「いえ。……お気をつけて」


年寄りが走ると危ないですよ、と言おうとして、やめた。この人はたぶん、走らずにいられなかったのだ。


アニエスは窓から少しだけ身を乗り出した。


「摘みは、南の段からです。忘れないでください」


「……はい」


「それだけです」


馬車が門を出た。


振り返ると、ロランはまだ同じところに立っていた。手を振るでもなく、頭を下げるでもなく、ただ立っていた。


その顔が、なぜか、葬式の顔に見えた。

ラ・メール」は、この物語のなかで葡萄酒の造り手が使う言い方です。何のことかは、そのうち勝手に分かります。ロランだけが先に分かっている、というのが今日の話でした。


クレール谷に着いた初日、村は婚礼の最中でした。ただし、誰も笑っていません。振る舞い酒が飲めたものではなかったからです。——「酸っぱい婚礼」へ続きます。


※本日は第5話まで連続で公開します。以降は毎日十九時の更新です。

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