第1話 離縁いたします
「離縁したい」
十二年連れ添った夫がそう言ったとき、アニエスは応接間の卓に置かれた小さな樽を見ていた。
見覚えがある。というより、自分で樽詰めした。四日前だ。
「聞いているのか」
「はい」と、アニエスはうなずいた。「それで、その樽はどちらへ」
「マルソー嬢に贈る。私の最上の一樽だと、そう言ってな」
——澱を引くのは、あと十日先だ。
いま開ければ濁って、渋くて、飲めたものではない。この人は十二年、一度も蔵に降りてこなかったのだから、知らないのも道理ではある。
けれど、贈るのなら、せめて十日待てばよかったのに。
「アニエス。君も、そろそろ趣味から離れたらどうだ」
趣味、と胸のうちで繰り返す。
——十二年ぶんの仕込みを、いま、そう呼ばれた。
ドレニエ公爵ジェラールは、卓の向こうで足を組み替えた。窓から入る秋の光が、靴の先で細く光る。よく磨かれている。誰が磨いたのかは、たぶん知らない。
「理由をうかがってもよろしいですか」
「言わせるのか」
「いいえ。ですが、離縁状には書かねばなりません」
ジェラールの眉が動いた。不機嫌になったのではない。面倒になったのだ。十二年も見ていれば分かる。
「跡継ぎがない」
「はい」
「十二年だ。十二年、この家には子がない」
「はい」
「マルソー嬢は若い」
「はい」
アニエスは三度うなずいた。言い返す材料ならいくつもあったが、どれを出しても話が長くなる。長くなれば、今日の澱の下見に行けなくなる。
……いや。もう、行かなくてよいのか。
そう思ってから、指の先が少しだけ冷たくなった。
「式はいつでございますか」
「なぜそれを聞く」
「参列いたしませんので、日取りだけ存じておければと」
ジェラールは一瞬、口を開けたまま止まった。それから、咳払いをした。
「……収穫祭の翌週だ」
収穫祭の翌週。摘みの真っ最中である。
葡萄は待たない。熟しすぎれば酸が落ちる。落ちれば、その年の酒は最後まで締まらない。この屋敷の人間が全員、三日も四日も王都で祝杯をあげているあいだ、南の段の葡萄は勝手に熟れていく。
「よい季節でございますね」
「そうだろう」
「はい。たいへんよい季節でございます」
アニエスは目を伏せた。伏せなければ、たぶん顔に出た。
「君は」ジェラールが指で卓を叩いた。「そうやって、いつも何か別のことを考えている」
「申し訳ございません」
「謝るな。責めているのではない。……ただ、そういうところだ。君は蔵にばかりいた。夜会に出ても、途中で帰る」
「はい」
「客が来ても、手が汚れているからと出てこない」
「はい」
そのとおりだった。反論はない。ただ、その夜会の卓に並んでいた酒は誰が仕込んだのかとは、この人は一度も考えたことがないのだろう。
「承知いたしました」
「……ずいぶんあっさりしているな」
「あっさりして差し上げたほうが、旦那様のご都合がよろしいかと存じます」
ジェラールが黙った。アニエスは膝の上で手を重ねて、次の言葉を待った。
「持参財は返す。当然だ」
「金子は結構でございます」
「受け取れ。噂になる」
「では、いただきます」
これは強がりではない。ヴァルネ家は三代前に傾いた醸造家で、アニエスが持ってきた金はほとんどなかった。だからこそ、この縁談は成立した。父は娘に持たせる金の代わりに、娘の腕を差し出したのだ。
十二年前、ドレニエ家の葡萄酒は薄かった。いまは王室御用達の「ドレニエの黒」と呼ばれている。
その十二年が、たったいま「趣味」になった。
「目録を」
執事が銀の盆に一枚だけ載せて運んでくる。持参財の目録は、本当に一枚きりだ。
「一、婚礼衣装一式。一、書物十七冊。一、壺一つ」
読み上げる声が、最後で少し詰まった。執事も、この一行を不思議に思ったのだろう。
「壺」ジェラールが眉を寄せた。「そんなものが、あったか」
「蔵の、いちばん奥にございます」
「何が入っている」
アニエスは一度だけ、まばたきをした。
「……古いものです」
嘘ではない。ただ、全部でもない。
「値打ちは」
「ございません」
「では書くな。目録が貧相に見える」
「書かねばなりません。持ち出すものですので」
ジェラールは呆れた顔をした。呆れられるのは慣れている。
「持っていけ」手の甲を振る。「がらくたのひとつやふたつ、惜しくもない」
「ありがとうございます」
「礼を言われることか」
「はい」アニエスは頭を下げた。「たいへんな、ものですので」
「……何がだ」
「古いものが、でございます」
執事が目録を差し出した。受け取るとき、指がわずかに触れた。この人は震えている、とアニエスは思った。十二年この屋敷にいて、震えているところを見たのは初めてだった。
アニエスは目録の端を指でなぞった。「壺一つ」と書いた筆跡は、母のものだった。
「もう一つだけ、うかがってもよろしいですか」
「まだあるのか」
「蔵の鍵は、どなたにお渡しすればよろしいでしょう」
「執事に渡せ」
「かしこまりました。——執事殿は、三本のうちどれが発酵蔵の鍵か、ご存じでいらっしゃいますか」
執事の肩が、わずかに動いた。
「……そのくらい、開けてみれば分かる」
「開けてみると分かりません。発酵蔵は、開けてはいけない時期がございます」
「では札でも下げておけ」
「札は湿気で落ちます」
「アニエス」
「はい」
「君は、私を試しているのか」
「いいえ」アニエスは首を振った。「引き継ぎをしております」
ジェラールは何か言いかけて、やめた。彼が答えられない問いだったからではない。答える必要のない問いだと思ったからだ。それも、十二年見ていれば分かる。
「好きにしろ」
「かしこまりました」
◇
立ち上がり、扉の前で振り返る。
「旦那様」
「まだ何かあるのか」
「今年の仕込みは、来週から始まります。葡萄は、南の段から摘んでください。北の段から先に摘むと、酸が立ちます」
ジェラールが笑った。今日はじめて笑った。
「そんなことは、蔵の者がやる」
「はい。そうですね」
そうだ。蔵の者がやる。十二年、蔵の者と一緒に、朝の暗いうちから桶を洗い、葡萄の房を指で潰し、泡の立ち方で温度を決めてきたのは、たしかに蔵の者だ。
そのなかに自分が数えられていたことは、この人には一度もなかった。
アニエスは腰を折って、深く頭を下げた。
「離縁いたします。——今年の葡萄酒は、どうぞご自分で」
扉を閉めるとき、卓の上の小さな樽がまだ視界の端に見えた。
あと十日。誰も澱を引かないのなら、あれは十日後も濁ったままだ。
◇
廊下は暗い。突き当たりの階段の下から、冷えた石と、酸っぱい木の匂いが上がってくる。
蔵だ。
アニエスは灯りを持たずに降りた。十二年、朝も夜も降りた段だから、足が数を覚えている。二十三段。最後の一段だけ、ほんの少し高い。
いちばん奥、石の台の上に、その壺はある。
高さは肘まで届かない。素焼きで、模様もない。二十年前、母がこの家へ送ってよこしたときには、もう古かった。祖母のマルグリットが、そのまた祖母から受け取ったものだと聞いている。
アニエスは布をめくり、蓋に手を置いた。
「……おはようございます」
返事はない。当たり前だ。
けれど明日も、明後日も、朝にはこうして声をかけねばならない。十二年、一日も欠かしたことがない。欠かせば、死ぬ。
——それを知っている人間は、この屋敷にもう、ひとりだけいる。
葡萄酒の「澱引き」は、樽の底にたまった澱を残して、澄んだところだけを別の樽へ移す作業です。早すぎれば濁り、遅すぎれば匂いが出ます。十日の差は、けっこう大きい。
第2話「引き継ぎませんでした」。アニエスは帳面も鍵も、全部置いていきます。ひとつだけ、置いていけないものを除いて。
※第1話から第6話までは本日連続で公開します。以降は毎日十九時の更新です。




