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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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第41話 帳面に載る

セヴラン・ドラエは、雪解けから十日目に谷へ入った。


馬車ではなく、宿場から荷車に乗ってきた。荷車で来る王都の人を見るのは、これで二人目だ。六十二だと自分から言った。背が高く、痩せていて、片方の肩が少し落ちている。長く机に向かってきた者の肩だった。


「産地帳方のドラエでございます」


「アニエス・ヴァルネと申します」


「三つ、拝見いたします。畑と、蔵と、帳面。よろしゅうございますか」


「どうぞ」


余計なことを一つも言わない人だった。手紙と同じだ。


畑から見た。


まず山の畑へ登った。去年の秋に摘んだ木は芽をつけている。段の下のほうには、まだ起こしていない列が残っていた。十列あったうちの、六列を冬のあいだに起こした。残りは四列だ。


ドラエは、段を数えた。声に出さずに、指も使わずに数えた。数え終わってから、蔓の一本を手に取った。


「二十年ほど、放ってございましたね」


「二十年でございます」


「起こして、二年目でございますか」


「はい」


「残りは、いつ」


「秋までに」


彼はうなずいた。うなずいただけで、よいとも悪いとも言わなかった。


山を下りるとき、この人は一度も足を滑らせなかった。土の柔らかいところを踏まずに歩く者は、畑を歩き慣れている。


それから、五つの村へ回った。


ラヴォー、サンス、ミオ、ヴェルヌ、トゥール。荷車で二日かかった。どの村でも、段を数えて、土に手を入れて、木を一本ずつ見た。


ミオではベルナールが出てきて、七つの段を端から案内した。案内しながら、去年の値の話も、名前の話もしなかった。段の切り方と、水の抜き方の話だけをした。


トゥールでは、ロズリーヌが北向きの段の下に立って何も言わなかった。ドラエは、その段をいちばん長く見ていた。日の当たらない段を長く見る客は、初めてだった。


    ◇


三日目に、蔵を見た。


北の部屋の戸は、音がしなくなっていた。冬のあいだにユーグが直した。直したとは言わなかった。ある朝から、鳴らなくなっていた。


石段を降りる。二十三段ある。ここの段は全部同じ高さだ。


ドラエは手すりに触れずに降りた。降りながら、足の裏で段の高さを測っているように見えた。


「これが、蔵でございますか」


「北の部屋と呼んでおります」


「桶が二つ、樽が二つ」


「はい」


「棚に、壺が一つ」


「はい」


彼は、壺の前で足を止めた。止めて、蓋には触れなかった。触れずに、しばらく見ていた。


「これは、三代でございますね」


答えるのに、少し間があいた。


「なぜ、お分かりになりますか」


「壺の口の焼き色が、三度変わっております。継ぎ足した年に、こうなります」


「継ぎ足しは、書いてございません」


「書いてなくとも、器に残ります」


四十年、帳面を書いてきた人だった。帳面を書く人は紙しか見ないのだと思っていた。


紙しか見ない人が四十年で二度しか土地を見に来ないのではない。土地を見られる人が、四十年で二度しか来られなかったのだ。


「ヴァルネという家は、三代前に傾いております」


「はい」


「産地帳にも、それは残っております。四十年前に、当方が名を消しております」


「……消されたのは、どなたでございますか」


「わたくしでございます」


    ◇


石の床が冷えていた。


春といっても、雪解けの水が地面の下を通っている時期だ。ここは井戸のそばだから、いちばん冷える。


「二十二のときでございました」ドラエが言った。「入って三年目で、はじめて名を一つ消しました。ヴァルネでございます」


「祖母から、その話は」


「お聞きになっておられませんか」


「聞いておりません」


「消すときは、書付を送ります。届いたはずでございますが」


届いたのだろう。届いて、誰かが読んで、それきりになった。


祖母は五十年、母を担いだ人だ。担いだまま、名を取り戻す話はしなかった。話したところで、王都まで二日の道を、誰が誰に頼みに行くのかという話になる。


「その名を、今度は載せに参りました」


    ◇


帳面は、卓の上に三冊並べた。


一冊目は麦の勘定用の粗い紙だ。二冊目と三冊目が紙の帳面で、三冊目はまだ半分残っている。


ドラエは、一冊目から開いた。


去年の秋の日付がある。音の間隔と、寒いか寒くないか。字が細い。途中から、太くて罫からはみ出す字が混じる。


「二人でございますね」


「はい」


「途中から、二人になっております」


「冬から、でございます」


「こちらの字の方は」


「マノンと申します。この谷の者でございます」


娘は、卓の端に立っていた。呼んでもいないのに、朝から工房の前で待っていた。


手は後ろで組んでいる。組んだ手が、ときどき動いている。


ドラエは、三冊目を開いた。


宿場の倉のことを書いた行がある。日付と、樽の数と、腹の彫り。あとから書き足した行もある。市の板の樽の、焼き印の焦げのことも書いてある。


書いたときには、何の役に立つのか分かっていなかった。分からないまま書いたものが、いま卓の上で開かれている。


「これは、どちらが」


「わたくしでございます」


「その次の行は」


「マノンでございます」


ドラエは、その行を指で押さえた。押さえたまま、しばらく読んでいた。


——〈ク〉のあたま、しまってる。あたしのはしまらない。


字が太い。罫からはみ出している。


「産地帳を四十年やっております」ドラエが言った。「名を騙る者は、たいてい、器と紙のどちらかで足がつきます。器で足がついたのは十二度、紙で足がついたのは三度でございます」


「三度でございますか」


「三度目が、この行でございます」


    ◇


その日の午後、広場に村の者が集まった。


集まれと言ったのではない。荷車が三日も谷にいれば、誰でも見に来る。五つの村から人が出ていた。雪解けの畑は、まだ仕事にならない。手の空く時期だ。


同じ井戸の板の前だった。夏と冬に次いで、三度目になる。


ドラエは、井戸の板の上に帳面を置いた。産地帳ではない。写しを取るための白い帳面だ。


「申し上げます」


彼の声は、大きくなかった。それでも、広場の端まで届いた。


「〈クレールの白〉の名は、フォンテーヌ商会のものでございます。先に名乗り出た者のものとする扱いは、変えられません」


村の者のうち、何人かがはっきり声を出した。「なんだそりゃ」と言った者がいる。


「ただし」


ドラエは続けた。


「クレール谷を、産地帳に記します」


「産地とは、土地でございます。土地の名を帳面に記しますと、その土地のものでない酒に、その土地の名を付けることができなくなります」


しばらく、誰も動かなかった。


言葉が難しかったのではない。難しくないぶん、意味が届くのに時間がかかった。届くと、次に、それが自分の村に何をするのかを一人ずつ考えはじめる。


意味を先に取ったのはロズリーヌだった。


「じゃあ、あっちの札は」


「〈クレールの白〉と名乗ることはできます。ただし、クレール谷の酒でなければ、名乗った時点で当方が消します」


「南の酒じゃ、名乗れないってことかい」


「名乗れません」


広場が、いちどに鳴った。


    ◇


アニエスは、板の前に立っていた。


「ドラエ様」


「はい」


「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」


「どうぞ」


「四十年、そのお力をお持ちでいらっしゃいました」


「持っておりました」


「二度しか、お使いになっておられません」


ドラエは、こちらを見た。目のまわりの皺が深い。


「使いますと、土地を見に参らねばなりません。見に参るには、日数が要ります。日数を使えば、そのあいだ帳面が止まります」


「では、見に来られない土地の名は」


「先に名乗り出た者のものになります」


「区別がつかないと、いちばん安いものの値で買われますので」


言ってから、少し息を入れた。


「わたくしの祖母の名は、四十年前に消えました。消えたときも、どなたも見に来ておられません」


    ◇


ドラエは、長いあいだ黙っていた。井戸の板の木目を見ていた。


四十年で二度。三度目を決めるのに、この人は谷を三日歩いた。三日で決められるものなら、四十年で二度ということにはならない。決められないから、来なかったのだ。


それから、白い帳面を開いて、一行書いた。


〈クレール谷 五村 ヴァルネ〉


書いてから、筆を置いた。


「条件がございます」


「伺います」


「毎年、同じ味を出していただきます」


「はい」


「二年続けて違えば、当方は名を消します。四十年、そのようにいたしております」


「はい」


「〈同じ味〉の判じ方は、当方が決めます。当方が持ち帰りますのは、今年の一樽でございます。来年、そこへ並べます」


村の者が、また鳴った。今度は、さっきより低い音だった。


「明朝までに、お答えください」ドラエが言った。「引き受けられぬ土地もございます。断られたことも、四十年で一度ございました」

産地帳に記されるのは土地の名です。土地の名が載ると、その土地のものでない酒は、その名を名乗れなくなります。名乗った時点で消されます。


四十年で、二度だけ行われたことだそうです。三度目に、この谷が入りました。


——条件が一つ付きました。毎年、同じ味を出すこと。二年続けて違えば消すこと。答えは明朝までだそうです。次は、その答えの話です。

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