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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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第40話 二年目

いちばん寒い時期の北の部屋は、息が白くなる。


石の床が冷えるので、朝は敷いた藁が凍っている。踏むと音がする。この音がしはじめたら、樽に毛布を掛ける日が近い。


去年の冬は、掛けるのが一日遅れて、樽が凍りかけた。あの夜のことは、村ではもう誰も話さない。話さないまま、毛布だけが去年より二枚増えている。


母の壺は棚の上だ。棚は床から高く取ってある。床に置けば冷えるからだ。


蓋を開けると、泡が細く上がっていた。泡の粒が去年より小さい。小さいぶん、数が多い。粒が小さくて数が多いのは、寒いときの上がり方だ。三代のあいだ、この壺はそうやって冬を越してきた。


「今日は、上がってる」


マノンが横から覗きこんだ。この娘は、朝いちばんに壺を見る。去年の秋からずっとだ。


「上がっております」


「寒いのに、なんで上がるの」


「上がらない朝もございます。三日続けて上がらなければ、死んでおります」


「死ぬの?」


「死にます」


樽は二つある。


一つは今年の酒だ。春に澱を引く。もう一つが、三年の樽だった。


腹に〈アニエス〉の彫りがある。その下に炭で「三」と書いてある。さらに下に〈引き手 マノン〉。炭の字は、冬のあいだにさらに掠れた。


アニエスは、腹に手のひらを当てた。


しばらく当てて、耳を当て直した。頬が木に触れる。木は石より冷たくない。冬の蔵で、いちばん温かいのは樽の腹だ。


音がある。ごく小さい。二年目の樽は、こういう鳴り方をする。一年目のような、はっきりした間隔ではない。間隔を数えようとすると、数える前に次が来る。


「動いております」


「動いてるの?」


「動いております」


マノンも耳を当てた。当てて、少し待って、首をかしげた。


「聞こえない」


「聞こえません」


「聞こえないのに、動いてるの?」


「聞こえないくらいに動いております」


娘は、腹の炭の字を指で押さえた。


押さえて、すぐ離した。擦れないようにする手つきだ。去年の秋から変わっていない。


変わったのは、押さえる指の位置だった。去年は〈引き手 マノン〉の字の真ん中を押さえた。いまは、字の下の余白のほうへ指が寄っている。


「開けたくならないの」


「なりません」


「一回だけ、ちょっと」


「なりません」


「なんで」


アニエスは、樽の栓のところを見た。


「開けると、そこで終わりだからでございます」


「終わる?」


「この樽は、三年かけて味が決まります。一年目は酒になりません。二年目に動きます。三年目に決まります。いま開ければ、二年目の酒が出てくるだけでございます」


「二年目のは、まずいの」


「まずくはありません。ただ、三年目にはなりません」


マノンは、しばらく樽の前にしゃがんでいた。


「あと一年か」


「あと一年でございます」


「一年って、どれくらい」


「摘みが、一度参ります」


「一回か」


「一回でございます」


「長いね」


「長うございます」


娘は立ち上がって、腰の後ろを叩いた。しゃがんでいると腰が痛くなるらしい。十六の腰が痛くなるはずはないのだが、大人の真似をしている。


「奥さん」


「はい」


「余白、まだ書かないの」


指三本ぶんの余白だ。去年の秋から、そこには何も書いていない。


「書きません」


「まだ二年あるって言ってたじゃん。もう一年だよ」


「まだ一年ございます」


その日の午後、ユーグが工房から樽を出した。


六つ目だった。桶が四つでいいところに五つ作り、五つ目をトゥールへ置いてきた。今度は樽だ。


樽は桶より手間がかかる。板を曲げて、箍で締めて、内側を焼く。冬のあいだ、この人はずっとこれを作っていたことになる。作っているとは言わなかった。訊きもしなかった。


「どちらへ」


「トゥールだ」


「桶を置いてこられました」


「桶は洗うだけだ」


荷車に積んで、二人で引いた。雪の締まった道は歩きやすい。轍が凍っているので、車輪がそこに嵌まって進む。


トゥールまでは一刻半だが、荷車があるぶん二刻近くかかった。上りの途中で二度止まった。止まったときも、どちらも何も言わなかった。


村へ入ると、道の脇に人が出ていた。


出ていたというより、待っていた。二十軒の村だ。話は先に着く。


家の壁は石を積んである。屋根も平たい石だ。そこへ、木でできたものを一つ運びこむ。


    ◇


ロズリーヌが、村の入口に立っていた。


「なんだい、それは」


「樽でございます」


「見りゃ分かるよ」


「置いていきます」


老女は、荷台の樽を見た。見て、腕を組んだ。腕を組んだまま、しばらく動かなかった。


「うちには、樽がないよ」


「はい」


「樽がないってのはね、何も貯まらないってことだ」


「伺いました」


「そのかわり、借金も貯まらない」


「伺いました」


ロズリーヌは、荷車のところまで来て、樽の腹に手を置いた。腹には〈H・レナール〉の彫りがある。焼き印は押していない。中身がまだ入っていないからだ。


「……一つかい」


「一つでございます」


「一つじゃ、何も貯まらないよ」


「一つから始まります」


    ◇


村の者が、順に樽を見に来た。


雪の上に足あとが増えていく。二十軒から、たぶん全部の家が出てきた。


子どもが来て、腹の彫りを指でなぞった。年寄りが来て、箍を指で弾いた。弾いてから、二本目の箍を弾いて、それから、何も言わずに帰っていった。


「じいさん、樽の音を覚えてるんだよ」ロズリーヌが言った。「親の代の樽だ。五十年前だね」


「音は、覚えているものでございますか」


「覚えてるさ。忘れるのは味のほうだよ」


「奥さん。中身は、いつ入るんだい」


「秋でございます」


「秋まで空かい」


「空でございます」


「空の樽を置いてくのかい」


「空のうちに、村の方に触っていただきます」


「なんでだい」


「触った樽は、覚えます」


ロズリーヌは、しばらく黙っていた。


「……じいさんが、五十年前の音を覚えてたね」


「はい」


ユーグは、荷車の脇に立っていた。何も言わない。置いて帰るときの、いつもの立ち方だ。


「樽師さん」


ロズリーヌが呼んだ。


「いくらだい」


「置いていく」


「いくらだって聞いてるんだよ」


「六つ目だ」


「答えになってないね」


「なっている」


戻り道、日が落ちるのが早かった。


峠の手前で、ユーグが荷車を止めた。空の荷車だから、止める必要はない。止めたのは、こちらが遅れていたからだ。


遅れたのは、村を出るときにロズリーヌが長く話したせいだった。話の中身は樽のことではなく、去年の干し葡萄の値のことだった。あの人は、樽の礼を言わない言い方を選んだのだと思う。


「奥さん」


「はい」


「春に、王都から人が来るそうだな」


「参ります。帳面を書く人だそうでございます」


「見るのは何だ」


「畑と、蔵と、帳面の三つでございます」


ユーグは、荷車の柄を持ち直した。


「蔵は、あれか」


「北の部屋でございます」


「石の床に、桶が二つと樽が二つだ」


「そうでございます」


「あれを、蔵と呼ぶのか」


「呼びます」


彼は、それきり何も言わなかった。


しばらく歩いてから、一度だけ言った。


「戸を、直しておく」


「北の部屋の戸でございますか」


「立て付けが落ちてる。開けるときに音がする」


「音は、いたします」


「客が来るなら、鳴らんほうがいい」


    ◇


家へ戻ると、宿場からの荷が届いていた。


ピエールの手紙が入っている。字は相変わらず下手で、行が右へ下がっていく。


——奥様。ご無沙汰しております。


——三年目に入りました。今年で、覚書の十四枚目から先が読めるようになりました。読めるようになったというより、書いてあったことが、蔵で起きたということでございます。


——南の段は、売っておりません。旦那様は、もうお尋ねになりません。


——今年の黒は二十九樽になります。去年より三樽増えました。


——ロランさんが、二十六年で四十樽まで持っていったと聞きました。私は三年で二十九樽です。遅うございます。


——遅うございますが、減らしてはおりません。


読み終えて、灯りを消す前に、もう一度だけ最後の行を読んだ。


遅うございますが、減らしてはおりません。


二十六年で四十樽まで持っていった人の覚書を、三年目の蔵頭が読んでいる。読んで、そのとおりにはやっていない。やっていないと自分で書いてよこした。


この子は、いずれ自分の書き方を覚える。覚えたころに、南の段の話がもう一度出る。そのとき、こちらは何もしない。

樽の中で酒が動く音は、年が進むほど小さくなります。一年目は間隔が数えられます。二年目は、耳を当てても聞こえないくらいになります。聞こえないというのは、止まったということではありません。


一年目は酒になりません。二年目に動きます。三年目に決まります。


——トゥールに樽が一つ置かれました。二十軒の村に、樽が一つです。次は、雪が解けます。王都から人が来る春の話です。

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