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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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第39話 返しに来た樽

北の部屋の入口で、ベルナールは荷車の縁に腰を下ろした。


腰を下ろしてから、しばらく話しはじめなかった。雪が薄く積もった荷台の上を手のひらでならしている。ならすと板が出る。板が出ると、また少し積もる。


「宿場で、会ってきた」


「王都の方でございますか」


「モーリスとかいう手代だ。冬のあいだは宿場に部屋を取ってるらしい」


「はい」


「樽を見せた。この樽だ」


老人は荷台の樽を指した。〈クレール〉の焼き印と、〈H・レナール〉の彫りがある樽だ。


「見なかった」


「腹をでございますか」


「腹も、中身も」


そのひとことで、こちらは黙った。


「腹をこっちへ向けて、見てくれと言った。そしたらな、あの男は、わしの顔のほうを見て言うんだ。畑の広さはいかほどでと」


「畑の広さを」


「段が七つあると言った。そしたら、けっこうですと。それきり樽の話はしなかった」


「樽の中身は」


「飲むかと訊いた。要りませんと言われた」


「要らぬと」


「宿の者に頼めば器が出る。器も出したんだ。それでも要らんと言われた」


「なんと申されました」


「味の分かる人間ではございませんので、と」


同じことを、王都で聞いた。あの人は、自分でそう言う。隠していない。隠していないから、聞いた側は聞き流す。


雪が荷台にまた薄く積もりはじめていた。


「わしはな、奥さん。五十年、葡萄をやってる」


「はい」


「五十年やってる男の樽を、見もしない相手に、名前だけくれと言われた」


雪が落ちて荷台の縁で崩れた。老人は崩れたところを見ていた。


「腹が立ったんじゃない」


「はい」


「怖くなった」


「怖い、と申されますと」


「うちの畑が、どこの畑でもいいということだ。五十年やって、どこの畑でもいい」


老人は、手のひらの雪を払った。


「そのときに分かった。あれは、うちの畑の名前が要るんじゃない。〈ミオの赤〉と書ける札が要るんだ」


「はい」


「うちの畑が、南のどこかの畑でも、あの男は同じことを言う」


「同じことを申されると思います」


「八十枚は、うちの畑の値じゃなかった。札の値だ」


「はい」


「札は、うちが作ったもんじゃない。うちの村の名前を、あっちが札にしただけだ」


「そうでございます」


「じゃあ、八十枚は、あっちが作ったものの値か」


「そうなります」


言い終わってから、ベルナールは荷車の柄を握った。握って、また離した。


「奥さん」


「はい」


「悪かった」


    ◇


アニエスは、すぐには答えなかった。


答え方を選ぶ必要があった。この人は村を四十年やっている。四十年やった者が谷の真ん中で頭を下げれば、それは村の話になる。村の話になれば、次にミオが何かを言うときに、この日が邪魔をする。


受け取ってしまえば、こちらが上に立つ。上に立った者は、次に間違えたときに謝れない。


「お受けできません」


「なんだと」


「謝っていただくことが、ございません」


「わしは、貸すと言いかけた」


「言いかけただけでございます。貸しておられません」


「言いかけたのが、まずいだろう」


「まずくございません。八十枚は、ミオの一年より多うございます。迷わないほうが、おかしゅうございます」


老人はしばらくこちらを見ていた。


「あんたは、迷わなかったのか」


「迷いました」


「金貨十枚だったな」


「十枚でございました」


その日、寄り合いは開かれなかった。


ベルナールが自分の荷車でミオへ帰った。帰って、村の者に自分の口で話したのだと、あとで聞いた。誰も広場へは来なかった。


谷では、決まったことを広場で言い直さない。決まったところで済ませて、次の日から、何もなかったように動く。


翌朝、ミオから若い衆が一人だけ来た。夏の寄り合いで最初に口を開いた男だ。名前は、まだ知らない。


「あの」


「はい」


「うちの村長が、来年の摘みの順を先に決めておけって」


「順でございますか」


「今年はトゥールが先だった。来年もそれでいいのかって」


「年によって変わります。春に、房の付き方を見てからでございます」


「じゃあ、春に来る」


「お待ちしております」


若い衆は帰りかけて、一度だけ振り返った。


「あんた」


「はい」


「うちの村長、あんたに謝ったって言ってた」


「お受けしておりません」


「知ってる。そう言ってた」


「はい」


「うちの村長、そういうのは初めてだ。謝って、受け取ってもらえなかったのが」


それだけ言って、帰っていった。


用件は、それだけではなかったのだと思う。ただ、それ以上のことは言わずに済ませたのだろう。谷では、そういう来方をする。


    ◇


雪が締まって、峠の道が固くなった。


固くなると荷が通る。谷の冬でいちばん物が動くのは、雪の降りはじめでも解けはじめでもない。真ん中の、いちばん寒い時期だ。


年が明けて十日ばかりして、宿場から荷が上がってきた。中に、王都からの封書が二通まぎれていた。


一通目は、アルヌーだった。


——サンドル通りの店より、〈クレールの白〉の札が下りました。下ろしたのは店ではなく、フォンテーヌ商会でございます。


——先月より、四軒のうち二軒が引き取りを断っております。断りの理由は、いずれも「客が二杯目を頼まない」でございました。


——残る二軒も、値を下げるよう申し入れております。二枚の札は、いま一枚半でございます。


——商会は、南の谷の名のほうへ荷を寄せております。こちらの札は、しばらく戻らぬかと存じます。


紙を膝に置いて、しばらく座っていた。


こちらは何もしていない。組合へ出した手紙は一枚の返事で終わった。あの人には会って、飲み比べを断られた。谷では、名前を貸すのを止めもしなかった。


止めなかった村が、自分で戻ってきた。断らなかった店が、自分で断った。


人は、言われて変えたことを覚えていない。自分で決めたことだけを覚えている。谷でも、王都でも、そこは同じらしい。


飲まない人は、飲む人には勝てない。時間はかかりますけれど、とリゼットが言った。かかった時間は、ふた月と少しだった。


もっとも、ふた月で終わったのではない。毛織の家の父親が仕立屋を回るのに二年かかっていて、その二年ぶんの話を、こちらは手紙一通で受け取った。


    ◇


二通目は、封が厚かった。


——王都酒商組合 産地帳方 セヴラン・ドラエ


同じ署名だ。前は四行だった。今度は八行あった。


——先年、貴殿より〈クレールの白〉の名につき照会がございました。


——当方は、産地帳に記す名を、先に名乗り出た者のものといたしております。この扱いは変えられません。


——ただし、産地帳には「産地」を記します。産地とは土地の名でございます。土地の名を記すにあたり、当方はその土地を見ることができます。


——見たうえで記した名は、以後、当方の目で守ります。


——春、雪が解けましたら、クレール谷へ参ります。


——見るのは三つでございます。畑と、蔵と、帳面。


——四十年、これをいたしたことは二度きりでございます。


——セヴラン・ドラエ


    ◇


読み終えて、もう一度はじめから読んだ。灯りを近づけて、行を指でたどった。


二度きり、と書いてある。四十年で二度。


意味を取り違えていないかを確かめるために三度読んだ。三度目でも同じだった。この人はこちらの手紙に返事を書いたときから、ずっとこの話を持っていたのだと思う。持っていて、書かなかった。


書かなかったのは、まだ見るに値しなかったからだ。


いまは値がついた。ついたのは、王都の店の一段と、返しに来た樽と、市の板で帳面を開いた娘のせいだ。


「奥さん」


戸口でマノンが言った。手に雪の塊を持っている。溶ける前に見せたいものがあるときの持ち方だ。


「なに読んでんの」


「春に、人が来るそうでございます」


「誰」


「帳面を書く人でございます」

産地帳に記されるのは、人の名ではなく土地の名です。土地の名を記す役の人は、土地を見に行くことができます。行かなくてもよいので、たいていは行きません。


四十年で、二度あったそうです。


——春に、谷へ参ります、と書いてありました。見るのは畑と蔵と帳面の三つだそうです。次は、そこまでの冬をどう越すかという話です。三年の樽は、二年目に入っております。

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