第38話 帳面
冬の市は、雪のあいだに二度立つ。
二度目のほうへ、マノンが行くと言った。言い出したのは前の晩で、こちらが誘ったわけではない。
「帳面、持ってく」
「三冊とも、でございますか」
「三冊とも。どれが要るか、分かんないから」
「なぜ、持っていかれます」
「ティボーさんちのジュールが書いたやつと、突き合わせるから」
ジュールの控えは、ヴェルヌが雪で塞がる前に届いていた。数は書ける、字は半分だと父親が言っていた子の字だ。日付と、樽の数と、腹の彫りだけが並んでいる。
字は半分でも、数は正しかった。数だけ正しい紙は、字の揃った紙よりよほど役に立つ。
「よろしゅうございます」
「奥さんも来る?」
「参ります」
「じゃあ、黙っててよ」
市は、前より台が減っていた。
雪が深くなると、峠を越えてくる荷が減る。酒の板は三つしか出ていない。そのうちの一つが、ルーセル商会の板だった。
板の上に器が並べてあって、杯で量り売りをしている。冬の市はそういう売り方が多い。
板の上に、札が立っている。
〈クレールの白〉
マノンが立ち止まった。立ち止まって、こちらを見ずに、板のほうへ歩いていった。
歩き方が、いつもと違った。速くもなく遅くもなく、ただ、まっすぐだった。
「これ、いくら」
「一杯、銅貨で八枚」
売り子は若い男だった。ジャコブではない。手代のもとで使われている者だろう。
「飲む」
娘は銅貨を出した。腰の袋から出した。市で自分の金を使うのを、はじめて見た。
去年の冬、この娘は袋の中の銅貨を四度数え直した。数えるだけで、一枚も使わなかった。
◇
飲んで、器を持ったまま、しばらく黙っていた。
それから、器を板に置いた。置き方が静かだった。この娘は、腹が立つと物を静かに置く。
こちらまで匂いが届いていた。若い酒だ。角が立っていて、澱を引いていない。
「これ、どこの」
「クレール谷のだよ」
「谷の、どこ」
「そりゃ、谷は谷だろ」
「五つあるよ」
売り子が黙った。谷に村が五つあることを、この男は知らない。
「樽、見せて」
「見せる?」
「腹。見せて」
板の下に、樽が三つ置いてあった。
売り子は、面倒くさそうに一つを引き出した。板の下は狭く、肩を入れなければ届かない。
引き出して、横に倒した。倒したところで、マノンが動かなくなった。
腹に、彫りがある。
〈H・レナール〉
その脇に、焼き印があった。〈クレール〉の四文字だ。
「……これ」
マノンは、袋から二冊目の帳面を出した。宿場で買った紙の帳面だ。この秋の、摘みのぶんが書いてある。
指でめくって、途中で止めた。止めたところに、こちらが書いた行がある。
——ヴェルヌ ティボー 樽六。書付の外。印を押さず。
「押してないんだよ、これ」
「なにが」
「この樽。印、押してない」
「押してあるだろうが」
「押してあるから、おかしいんだって」
◇
アニエスは、二歩ばかり離れたところに立っていた。
何も言わなかった。言えば、この娘の言葉が、こちらの言葉になる。谷から来た醸造家が言ったのと、十六の娘が帳面を指して言ったのとでは、聞く側の顔つきが違う。
前のほうが強い。ただし、後のほうは忘れられない。
売り子は困った顔をした。困った顔をして、それから、笑おうとした。
「嬢ちゃん、何の話だよ」
「嬢ちゃんじゃない」
マノンは帳面を板に置いた。置いて、指で行を押さえた。
「ヴェルヌの六つは、印を押してないの。押さないって決めて、書いてあるの。書いてあるのに、この樽には押してあるの」
「だから、どうした」
「あとから押したんでしょ」
「知らねえよ、そんなの」
娘は、樽の腹に顔を近づけた。近づけて、焼き印の四文字を、端から順に見ていった。
それから、こちらを振り返らずに言った。
「これ、あたしの字じゃない」
売り子が、口を開けた。
「〈ク〉の頭が、閉じてる。あたしの〈ク〉は閉じない。閉じないように書いたの。水に映して、逆から書いたから、閉じると分かんなくなるの」
「……」
「〈ル〉の足も短い。あたしのは、罫からはみ出るの。はみ出るからって、樽師さんが言ったの。太いほうがいいって」
こちらからも、樽の腹が見えた。
四文字がある。焦げの滲み方が浅い。押した鉄が、少しぬるかったのだと思う。麦の色になる前に押せば、こうなる。宿場の鍛冶が言っていた。
「誰が押したの」
売り子は答えなかった。答えるかわりに、板の下の樽を戻そうとした。
「戻さないで」
「もう終いだよ。今日は店じまいだ」
「まだ日、高いよ」
「終いだって言ってるだろ」
「じゃあ、あんたの上の人、呼んで」
「呼ばねえよ」
「呼ばないなら、あたしが行く。ルーセル商会の倉、そこでしょ」
◇
その日の午後、ルーセル商会の倉で、主人が出てきた。
ジャコブではない。五十がらみの、白いものの混じった髪の男だ。宿場に商会を構えて二十年になるという。
帳面が卓の上に出された。今度は見せてもらえた。
——ヴェルヌ ティボー 樽四 預かり。
その下に、出した日の行がある。日付が入っている。ひと月前ではない。預かった十日後だった。
十日というのは、雪の前に預けて、市が一度立つあいだだ。ティボーは、そのころまだ屋根の梁の相談をしていた。
「売り先は」
「……ここには、仲買としか」
「仲買の名は」
主人は、しばらく帳面を見ていた。それから、奥へ声をかけた。ジャコブは来なかった。三度呼んで、来なかった。
「奥さん」
「はい」
「うちの手代が、勝手をいたしました」
「勝手、でございますか」
「勝手でございます。商会として指図した覚えはございません」
「指図がなければ、倉から樽は出ませんでしょう」
主人は答えなかった。答えないというのは、認めるということだ。
「三樽ぶんを、お返しいたします」
「樽をでございますか。中身をでございますか」
「……値をでございます」
「値では、樽は戻りません」
「腹の彫りは、どうにもなりませんので」
「はい。どうにもなりません」
夕方までに、話は揃った。
三樽は、預かった十日後に倉を出た。中身は宿場で抜かれて、南の安酒が詰め直された。焼き印は、宿場の別の鍛冶に打たせた鉄で押された。
その鉄を注文したのは、フォンテーヌ商会の手代ではない。ジャコブ自身だった。
同じ宿場に鍛冶が二軒あることを、こちらは知らなかった。
「印のある樽が、王都で高く売れると聞いたそうです」主人が言った。「秋のうちに、そういう話が回っておりまして」
「では、フォンテーヌ商会は」
「関わっておりません。あちらは、名を買う商いでございます。樽は買いません」
「では、あの三樽を買ったのは」
「仲買でございます。仲買が王都の店へ入れました」
「店の名は」
「サンドル通りの、いちばん間口の広い店だそうで」
聞き覚えがあった。腕を組んだまま戸口に立って、二年置いていたと言った男の店だ。
そのとおりだろうと思った。あの人は、樽の腹に一度も手を伸ばさなかった。
◇
話を聞き終えて、いちばん先に思い出したのは、去年の秋の応接間ではなかった。この秋、村の広場で、二十樽に順に印を押したときのことだった。
ロズリーヌが最後の一樽を押して、鉄を持ったまましばらく立っていた。持ってない村の婆が、樽に字を焼いた、と言った。
あの鉄と、同じ形をした別の鉄がある。同じ形で、字が違う。
◇
帰り道、マノンは荷車の縁に座っていた。
帳面を三冊とも膝に載せている。一冊目の粗い紙が、いちばん下だ。三冊重ねると、思っていたより厚い。
字を教えてくれと言ったのは帳面をつけるためだと、この娘は言っていた。順番が逆だったのだと、いまは思う。
「奥さん」
「はい」
「あたし、字、下手だよ」
「下手でございます」
「うん」
「ですが、下手な字は、真似ができません」
娘は、しばらく黙っていた。
「そういうことじゃなくて」
そう言って、それきり何も言わなかった。峠を越えるまで、袖で顔を拭いていた。拭いているところは見なかったことにした。
◇
村へ着くと、北の部屋の前に荷車が止まっていた。
ミオの荷車だ。ベルナールが、荷台の脇に立っている。荷台には、樽が一つ載っていた。
腹に〈クレール〉の焼き印と、〈H・レナール〉の彫りがある。二日前に、この人が持っていった樽だった。
「返しに来た」
「お預かりいたします」
「話は、聞いた」
「どちらで」
「宿場で。うちの若いのが、市にいた」
老人は、荷台の縁に手をついた。
「奥さん。二日、王都の人と話した」
「はい」
「聞いてくれるか」
焼き印は、押すときの鉄の温度で焦げ方が変わります。熱すぎれば太り、ぬるければ滲みが浅くなります。同じ形の鉄でも、押した人が違えば、焦げ方が違います。
字そのものは、写せます。写した字は、書いた本人がいちばん先に気づきます。
——ミオの樽が戻ってきました。二日前に、王都の人に見せると言って出ていった樽です。次は、その二日間に何があったかという話です。




