第37話 名を貸す
銀貨八十枚は、ミオの一年ぶんに近い。
畑は谷でいちばん広い。段が七つあって、まともに葡萄で食べている村はここだけだ。それでも、二十年、いちばん安い値で売ってきた。広いのに安いというのは、広いぶんだけ量が出て、量が出るぶんだけ買い叩かれるということだった。
「今年、いくらになりましたか」
「あんたのところへ出したぶんが、五樽だ」ベルナールが言った。「あとは、自分のところで飲むぶんと、宿場へ持っていったぶんが少し」
「宿場は、いかほどで」
「一樽、六枚と少し」
「では、村の実入りは」
「六十枚あるかどうかだな」
八十枚は、それより多い。村が一年かけて畑を回して、摘んで、運んで、頭を下げて手に入れる金より多い。しかも、畑は減らない。葡萄も減らない。減るのは名前だけだ。
名前が減るというのが、どういうことなのか。この老人は、たぶん半分は分かっている。半分しか分からないのは、減ってみたことがないからだ。
「お受けになりますか」
「分からん」
「畑は、そのままだと申されました」
「そう言われた。畑はうちのまま、葡萄もうちが作る。名前だけを貸してくれと」
「その名前で、何を売られるのでしょう」
「そこまでは聞いてない」
雪が、荷車の幌から落ちた。塊で落ちて、足元で崩れた。峠の上は風が通る。通るぶん、雪は積もりきらずに落ちる。
「奥さん。止めるかね」
「止めません」
老人が、こちらを見た。目の下が落ちくぼんでいる。去年、雹に打たれた畑の前で一言も文句を言わなかったときと同じ顔だった。
「止めんのか」
「ミオの畑は、ミオのものでございます」
「あんたが困るだろう」
「困ります」
「困るのに、止めんのか」
「困るから止めろというのは、こちらの都合でございます」
◇
村へ戻ってから、寄り合いを開いた。
開いたのはギヨームだ。こちらが呼んだのではない。ミオから話が漏れて、その日のうちに谷じゅうに回った。谷の中では、言葉は水より速い。
漏れたのはミオの若い衆のところからだった。八十枚という数だけが先に走って、条件は誰も知らない。数だけが走ると、話はいつも悪いほうへ転がる。
広場に、五つの村の者が集まった。夏の寄り合いのときより人が多い。雪の日に、これだけ出てくるというのは、それだけの話だということだ。
夏は立ったまま話した。今日も立ったままだ。雪の上で座る者はいない。
「貸すのか」
いちばん先に言ったのは、ロズリーヌだった。トゥールの村長は、雪の中を一刻半歩いてきている。
「まだ決めておらん」ベルナールが答えた。
「八十枚だってね」
「八十枚だ」
「うちの村の三年ぶんだよ」
「そうだろうな」
アニエスは、卓の端に立っていた。
夏に汁の器を六つ並べた、あの井戸の板だ。今日は何も載っていない。載せるものがない。あの日は、味を並べれば話が済んだ。今日は、並べるものが金と名前で、どちらも器には入らない。
「奥さんは、なんて言ってんだ」ミオの若い衆が言った。
「止めないと申しました」
「止めない?」
「はい」
「なんでだよ。あんたが名前で困ってんだろ」
「困っております」
「なら、止めろよ」
「止める筋がございません」
若い衆が、口を開けた。開けたまま、言葉を探しているように見えた。
ベルナールは何も言わなかった。若い者に言わせて、自分は最後に一度だけ口を開く人だ。夏のときもそうだった。夏は、最後に「二十年、そうだったな」と言った。
「わたくしは、去年の秋にこの谷へ参りました」
言い方を決めていたわけではない。ただ、事実から始めるしかなかった。
「クレールの白という名は、去年の春につけました。つけたのは、澱を引いた日でございます。ミオの葡萄が、その中に入っております」
「入ってるよ。五樽ぶんな」
「はい。ですが、名前をつけたのはわたくしです。皆さんに相談しておりません」
誰も何も言わなかった。雪が降る音というものはない。それでも、こういうときには何かが聞こえている気がする。
「相談せずにつけた名前が、盗まれました。盗まれて、値が下がって、皆さんの樽が六枚になりました。それは、わたくしの落ち度でございます」
「そんな言い方は」
「落ち度でございます。ですから、ミオが名前を貸すと決められても、わたくしは止めません」
ロズリーヌが、雪を踏んだ。
「じゃあ、なんで話してるんだい。止めないなら、黙ってりゃいい」
「一つだけ、申し上げます」
「なんだよ」
アニエスは、ベルナールのほうを見た。
「ミオの名前で、うちの畑の葡萄ではない酒が売られます。おそらく、南の安い酒でございます」
「そう聞いた」
「一年目は、八十枚が入ります。二年目も入るかもしれません」
「三年目は」
「そのころには、ミオの赤という名は、王都で銀貨三枚の酒の名になっております」
老人は、動かなかった。
「そのとき、ミオの葡萄で作った本当の酒を、いくらで売られますか」
◇
答えは返らなかった。
返らないまま、しばらく雪が降った。広場の端で、子どもが二人、走っていった。話の中身は分かっていない。分かっていないのに、大人が黙っているのは分かっている。
「奥さん」ベルナールが言った。「あんたの言うことは分かる」
「はい」
「だが、うちには六十枚しかない」
「はい」
「先の話をされても、うちの村は、来年の種を買わにゃならん」
そのとおりだった。
先で困ることが分かっていても、来年の種が買えなければ、その先は来ない。谷で二十年安く買われてきた村の勘定は、そういう順番でできている。
去年の秋、こちらは壺ひとつを持って門を出た。出られたのは、翌年の種を買う心配がなかったからではない。心配する前に、壺のことしか考えていなかったからだ。
この人は、村を四十年やっている。村を四十年やった者は、まず種のことを考える。
「はい」
「止めんと言ったな」
「止めません」
老人は立ち上がった。
◇
その日、寄り合いは何も決めずに終わった。
決めずに終わったというのは、割れたということだ。夏の寄り合いは、決まったから短かった。今日は、決まらないまま長かった。
ミオの者が先に帰り、サンスがそのあとに帰った。帰るとき、誰も挨拶をしなかった。挨拶をしないというのが、この谷でのいちばん静かな怒り方だった。
トゥールのロズリーヌは、しばらく井戸の縁に座っていた。
「あんた、あれでいいのかい」
「よろしゅうございます」
「よかないだろ。谷が割れるよ」
「割れます」
「それが分かってて」
「分かっております」
ロズリーヌは、立ち上がって、外套の雪を払った。
「あたしゃ、貸さないよ。貸すも何も、うちには名前がないからね」
夜、工房へ寄った。
ユーグは砥石を使っていた。王都の砥石だ。小刀の刃を当てて、水を引いて、また当てている。音が、谷の砥石より高い。目が細かいと音が高くなるらしい。
「止めなかったのか」
「止めませんでした」
「そうか」
彼は刃を灯りにかざした。かざして、指の腹で軽く触れて、それからまた砥石に当てた。
「止めれば、いまは収まります」
「収まるな」
「収まりますが、ミオは、来年もう一度言われます。そのとき、わたくしは、また止めることになります」
「止め続けるのは、無理だ」
「無理でございます」
しばらく、水の音だけがしていた。刃を研ぐ音は、樽を削る音より小さい。小さいので、間が長く感じる。
「奥さん」
呼び方が変わった。この人がそう呼ぶのは、めったにない。
「はい」
「ミオの樽は、俺が作った」
「存じております」
「名前を貸した村の酒が、俺の樽に入ることになる」
「……なるかもしれません」
「それでも作る」
彼は刃を布で拭いた。拭いてから、灯りのほうへ向けずに、そのまま鞘へ収めた。
「彫ってあるからな」
「はい」
「どこへ行っても、俺のところへ戻ってくる」
理由の説明は、それだけだった。それだけで足りていた。
◇
翌朝、ベルナールが村へ来た。
荷車を引いてきて、北の部屋の前で止まった。雪の上に轍が二本ついた。荷台には、樽が一つ載っている。
「持っていく」
「どちらのでございますか」
「ミオの五樽のうちの一つだ。あんたのところで預かってもらってた」
「はい」
「王都の人に、見せる」
老人は、樽の腹を手のひらで一度撫でた。腹には〈クレール〉の焼き印と、その脇に〈H・レナール〉の彫りがある。
それだけ言って、荷車を引いて帰っていった。
谷でいちばん広い畑を持つ村が、いちばん安く買われてきました。広いぶん量が出て、量が出るぶん買い叩かれるからです。
先で困ると分かっていても、来年の種が買えなければ、その先は来ません。
——ミオの樽が一つ、村を出ていきました。腹には印が押してあります。次は、その印がどこで読まれるかという話です。冬のあいだに、宿場でもう一度、帳面を開きます。




