第36話 冬の市
冬の市は、雪の合間に立つ。
月に二度、街道の交わるところに板の台が並ぶ。夏より台の数が少ない。半分ほどだ。雪で荷が動かないから、遠くから来る者がいない。
風下の端が酒と酢の場所だ。冬は風が北から来るので、夏とは向きが逆になる。台の並びも逆になって、酒の板は街道に近い側へ寄る。近いぶん人は通るが、通る人は足を止めない。寒い日に立ち止まって酒を選ぶ者は少ない。
谷からは二樽持っていった。荷車を引いたのはギヨームで、朝の暗いうちに村を出た。峠の道は雪が固まっていて、轍が凍っている。凍った轍は轍として残るので、かえって進みやすい。
売れたのは一樽と少しで、銀貨に直すと六枚に届かなかった。
「六枚」
マノンが袋の口を閉じながら言った。数えるのが速くなっている。
「六枚でございます」
「去年の冬は、一樽半で二百三十だったよ」
「銅貨で、でございます」
「……ああ、そうか。銅貨か」
娘は袋を持ち直した。持ち直してから、少し笑った。笑ったのを見たのは、王都から帰ってきて初めてだった。
布の台のほうへ回ったのは、帰りぎわだった。
マノンが手袋を見たいと言った。谷の手袋は麻を編んだもので、濡れると使えない。澱を引く仕事は水を使うから、冬は手が割れる。去年の冬、この娘の指の付け根は三か所裂けていた。
市の台には、獣の皮を裏に張ったものが並んでいた。値を見ると、銀貨一枚と少しだった。今日の売上の五分の一になる。
台の向こう側に、絹の外套の女が立っていた。
見覚えがあった。見覚えがあるどころではない。
谷でその人を見たのは去年の冬で、峠が塞がる前の日に来て、塞がる日に発った。蔵の入口に絹の靴で立っていた。あのとき、こちらは杯を一つ出した。それきりだ。
「あら」
リゼット・マルソーは、こちらを見て、少しだけ眉を上げた。驚いた顔ではなかった。会うかもしれないと思っていた顔だ。
「宿場にいらっしゃるとは、存じませんでした」
「ここは商いの道ですもの。うちは布ですから」
「毛織でございましたね」
「毛織です。冬は、いちばん忙しいの」
◇
台の上の布を、彼女は指で撫でた。
撫でて、端をつまんで、裏返した。指の使い方が速い。触ってから見るのではなく、触りながら見ている。ユーグが樽の箍を弾くときと、同じ手の速さだった。
布の端に、筋が二本入っている。
「これ、うちのじゃないわ」
「お分かりになりますか」
「うちのは三本。これは二本」
「真似でございますか」
「真似。二本にしておけば、うちから文句を言われないと思ってるのね」
彼女は布を戻した。戻し方が丁寧だった。人の売り物を粗末に扱わない人だ。台の主人は、この人が誰か知らないらしい。知らないまま、触られるにまかせている。
「文句は、おっしゃらないのですか」
「言わないわ。二本と三本は、違うものですもの」
宿の階下の卓で、少し話をした。
こちらの前には湯があって、向こうの前には何も置かれていない。この人は、外では飲まないのだと言った。
去年、谷では飲んだ。一杯だけ飲んで、それきり何も言わずに器を置いた。飲まない人と、外では飲まない人は違う。
「手紙、読んでくださった?」
「読みました」
「お返事は要らないと書いたら、本当に書いてこないんですもの」
「要らないと書いてございましたので」
リゼットは笑った。去年、蔵の入口で「あなた、悔しくないの」と訊いた人と、同じ人だとは思えない笑い方だった。
「変わっていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」
「ええ。少しも」
◇
「一つ、お伝えしておくことがあるの」
「はい」
「フォンテーヌ商会は、産地の名を三つ持っています」
「三つ」
「〈クレールの白〉のほかに、南の谷の名が二つ。どちらも、こちらから名乗り出て、帳面に載せて、それから安い酒を詰めているの」
「その谷の方々は」
「知らないでしょうね。うちの布の話をしたときと同じ。作っている人は、自分の名前がどこで売られているか知らないのよ」
湯の器を、両手で持った。ぬるくなっている。
三つ。同じことを、三か所でやっている。一つの谷を潰すのに、あの人は一枚の紙と、一人の手代と、金貨十枚を用意した。三つならその三倍だ。三倍払っても引き合う勘定になる。
「なぜ、そこまでご存じなのですか」
「毛織の寄り合いで、聞くんです。あの人、布のほうでも同じことをやろうとしたから」
「布でも」
「三年前に。うちの父が止めました」
「どのように」
「仕立屋を回ったのよ。耳を見せて」
◇
同じ話だった。手紙に書いてあったのと、同じ話だ。
書いてあったものを口から聞くと、少し違って聞こえる。手紙には「二年かかったそうです」と書いてあった。いま、この人は「うちの父が止めました」と言った。
書くときには年数を書き、話すときには人を言う。どちらが本当かではなく、どちらも本当なのだと思う。
「お父様は、いまも」
「去年、亡くなりました」
「……失礼を申しました」
「いいのよ。父の商いは、わたしが継いでいます」
そう言って、彼女は自分の外套の裾を指で示した。裾の内側に、細い筋が三本入っている。自分の店の布を着て歩いている。歩く看板のようなものだ。
去年、この人は「名前が要っただけ」と言った。買われた名前の話だった。いまは、自分の名前を売っている。
「これ、うちのです。いまは、わたしの名前で売っているの」
「マルソー、でございますか」
「リゼット・マルソーです」
◇
外へ出るとき、彼女は一度だけ足を止めた。
「あなた、王都へ行ったんですって?」
「参りました」
「棚を、取ったと聞きました」
「一段でございます」
「一段でも、取ったのは取ったのよ」
雪が降りはじめていた。細かい雪で、風がないので、まっすぐ落ちてくる。絹の外套の肩に落ちて、すぐには溶けなかった。
「あの人ね、飲まないでしょう」
「飲まれませんでした」
「飲まない人は、飲む人には勝てないの。時間はかかりますけれど」
「二年ございます」
「じゃあ、間に合うわね」
彼女は馬車へ乗った。乗る前に振り返らなかった。去年、峠が塞がる日に発ったときも、振り返らなかった人だ。
谷へ戻る峠道で、荷車が一台、止まっていた。
ミオのベルナールだった。痩せた老人が、荷車の轅に腰かけて、こちらを待っている。待っていたのだと、顔を見て分かった。
峠道で人を待つというのは、村で待てない話があるということだ。村で話せば、村の者が聞く。
「奥さん」
「ベルナールさん」
「話がある」
マノンが荷車から降りて、少し離れたところへ行った。この娘は、こういうときの気配が分かる。
「なんでございましょう」
老人は、膝の上で手を組んだ。組んだ手の甲に、皺と傷が同じくらいある。
「うちの畑に、王都の人が来た」
「……」
「うちの葡萄を、うちの名前で買いたいと言うんだ」
「ミオの名で、でございますか」
「そうだ。〈ミオの赤〉と札を立てて、王都で売る。畑はうちのまま、名前だけ貸してくれと」
雪が、荷車の幌の上に薄く積もっていた。積もるほうの雪になっている。今日のうちに峠を越えないと、明日は轍が消える。
「いくらと、申されました」
「銀貨八十枚だ」
冬の市は月に二度だけ立ちます。台の数は夏の半分で、遠くから来る者がいません。それでも布の商いだけは冬に動きます。寒いときにいちばん要るものだからです。
布の端を「耳」と申します。三本の筋を二本にすれば、真似だと言われずに済むそうです。
——ミオは、谷でいちばん広い畑を持っています。いちばん長く、いちばん安く買われてきた村でもあります。次は、その村の名前がいくらになるかという話です。




