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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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35/42

第35話 三つ足りません

ルーセル商会の倉は、宿場の裏通りにあった。


板張りの大きな小屋で、中は暗く、天窓が二つしかない。樽が壁沿いに並べてあって、真ん中は通路になっている。数えると、三十ばかりあった。


倉というのは、預ける者と預かる者のあいだにあるものだ。預けた者は毎日は見に来られないし、預かった者は毎日そこにいる。ここに置いたきり半年見ない樽が、この谷にはいくつもある。


ティボーの樽は、いちばん奥だった。


一つある。


「四つ、ここに置いた」ティボーが言った。「並べて置いた。俺が自分で並べた」


「腹は、ご覧になりましたか」


「見たさ。〈H・レナール〉が四つ並んでたよ」


いま並んでいるのは一つだ。あとの三つがあったはずの場所には、別の樽が寄せてある。腹に何も彫っていない樽だった。


寄せた跡が床に残っていた。板の埃が、樽の輪の形に薄く払われている。動かしてから、そう日が経っていない。


ジャコブが来たのは、それからしばらくしてからだった。


呼びに行った小僧が戻ってくるまでに、日が傾いた。倉の中では、天窓の光が動くのがよく分かる。床の上を、光の四角が少しずつ横へずれていく。ずれきると、その日はもう暗い。


「これは、奥さん。王都はいかがでした」


「樽が三つ、足りません」


「三つ」


「ヴェルヌのティボーさんが、四つ預けられました。一つしかございません」


ジャコブは、奥まで歩いていって、樽の並びを見た。見て、指を折った。折ってから、こちらへ戻ってきた。


歩き方が速い。倉の中の物の位置を、全部知っている者の歩き方だった。どこに何があるか知っている者は、何がないかも知っている。


「売れましたよ」


「いつでございますか」


「先月です」


    ◇


「帳面を、拝見してもよろしゅうございますか」


「帳面ですか」


「預かった日と、出した日が書いてございましょう」


ジャコブは、少し笑った。困った笑い方ではない。面倒だという笑い方でもない。この人はよく笑う。よく笑う者は、話をこちらの都合のいいところで切りやすい。


「うちの帳面は、お見せできません」


「なぜでございますか」


「商会のものですので」


「では、ティボーさんに書いてお渡しになったものは」


「預かり証ですね。お持ちでしょう」


ティボーが、懐から紙を出した。折り目が四つついている。開くと、三行だけ書いてあった。


——樽 四。ヴェルヌ ティボー。預かり。


日付がない。


三行のうち、二行は品と名だ。最後の一行は「預かり」の二文字だけだった。返す日も、値も、書いていない。書いていないものは、あとから何とでも言える。


    ◇


「日付が、ございません」


「入れ忘れましたね」


「入れ忘れ、でございますか」


「よくあるんですよ。いちいち書いていたら、荷が動きませんので」


「では、いつ預かって、いつ出したかは」


「うちの帳面にございます」


「その帳面は、お見せいただけません」


「はい」


輪になっている。輪の中を二度回って、同じところへ戻った。


三度目は回らなかった。回っても、同じところへ戻る。組合の帳面のときと同じだ。相手の言うことが一つも間違っていなくて、こちらの言うことが一つも通らない。


「売れた先を、伺ってもよろしゅうございますか」


「王都です」


「どちらの店でございましょう」


「そこまでは。うちは仲買に渡すだけですので」


「値は」


「一つ、銀貨四枚で」


ティボーが、はじめて声を出した。


「四枚?」


「今年は安いんですよ。〈クレールの白〉が、王都で三枚になってますからね」


そう言われて、ティボーが黙った。


四つで銀貨十六枚。屋根の梁が二本と、板の張り替え。ぎりぎり届くかどうかだ。


この人は、七枚か八枚で売れると思って預けた。宿場まで降りてきて、預けて、帰ってから、雪を待っていた。待っているあいだに値が半分になった。半分になったことを、いま聞いた。


    ◇


「では、その四枚の代金は」


「春にお払いします。仲買からの入りが春ですので」


「預かり証には、そう書いてございません」


「口で申し上げました」


ティボーは、こちらを見た。何と言えばいいのか分からない顔だった。この人は借財のかたに樽を押さえられたことがある。押さえたのはルーセル商会だ。同じ商会に、いま樽を預けている。


「ジャコブさん」


「はい」


「一つだけ、お尋ねいたします」


「どうぞ」


「腹に彫りのある樽と、彫りのない樽では、値が違いますか」


ジャコブは、はじめて笑うのをやめた。やめている時間が、息を一つ吸うぶんだけあった。


それから、また笑った。


「同じですよ。中身は同じでしょう」


倉を出て、アニエスは荷車の上で帳面を開いた。


三冊目だ。王都で買ったばかりで、まだ二枚しか使っていない。表紙にはまだ何も書いていない。日付を書いて、その下に書けるだけ書いた。


——樽 四。ヴェルヌ ティボー。腹に〈H・レナール〉。


——ルーセル商会 宿場の倉。預けたのは、雪の前。


——本日、倉に一つ。三つなし。


——ジャコブ。先月売れたと申す。王都、仲買へ。一つ 銀貨四枚。代金は春。


——預かり証に日付なし。


「なに書いてんの」


マノンが覗きこんだ。


「見たことを、書いております」


「見たことって、なんもなかったじゃん」


「なかったことも、見たことでございます」


書いておけば、日付が残る。日付が残っていれば、あとから並べられる。並べられるものは、突き合わせられる。


十二年、蔵の帳面をそのために書いてきた。去年どうだったかを今年知るために書く。今年どうだったかを来年知るために書く。誰かを問い詰めるために書いたことは、一度もなかった。


「奥さん」ティボーが荷車の横に来た。「どうする」


「春まで待ちます」


「春に来なかったら」


「来なかったことが、また一つ書けます」


「書いて、どうなる」


「一つでは、どうにもなりません」


「じゃあ」


「三つ揃いますと、人は答えます」


ティボーは、荷車の柄に手をかけた。かけて、離した。


「三つも、揃うのかい」


「揃えます」


峠を越えたところで、雪が来た。


その年の最初の雪だった。谷では、初雪の日を覚えている者が多い。覚えていると、次の年に早いか遅いかが分かるからだ。帳面の隅にも、毎年それだけは書いてある。


荷車の上に、白いものがまばらに落ちてきた。落ちて、すぐ消えた。積もる雪ではない。ただ、これが降りはじめると、あとは日ごとに増える。


「今年は、早いね」ティボーが言った。


「去年は、いつでございましたか」


「もう十日あとだった」


「では、道が塞がるのも早うございますね」


「早い。ヴェルヌは、たぶん半月で入れなくなる」


半月あれば、宿場までは往復できる。往復できるが、それを何度もやるだけの用が、この冬にあるかどうか。


    ◇


村に戻って、荷を下ろした。


工房に灯りがついていた。ユーグが中にいて、板を削っていた。削っているのは樽の材ではなく、細かい細工の木だ。何を作っているのかは訊かなかった。訊けば答えるだろうが、答えると長くなる。


砥石を渡した。


「王都のものだそうです」


彼は受け取って、指の腹で表面を撫でた。撫でて、それから、灯りに近づけた。


「細かい」


「彫りの仕上げに使うと、店の者が申しておりました」


「使う」


それだけだった。礼は言わない人だ。去年もそうだった。礼を言わないかわりに、翌朝に樽が一つ置いてある。


言おうかどうか迷って、言った。


「マノンが、買えと申しました」


ユーグは、砥石を布の上に置いた。置いてから、しばらく動かなかった。


「……そうか」


    ◇


その夜、マノンが北の部屋へ降りてきた。


三年の樽の前にしゃがんで、腹を見ている。〈アニエス〉の彫りと、炭で書いた「三」と、その下の〈引き手 マノン〉。炭の字は、少し掠れてきていた。


「まだ、消えてないね」


樽に向かって言っていた。


「消えたら、書き直してください」


「まだ書かない。掠れてるだけだから」


娘は、余白のほうへ指を伸ばした。指三本ぶん残っているところだ。そこには触らずに、手を引っこめた。


「奥さん」


「はい」


「三つ、どこ行ったんだろうね」


「分かりません」


「探すの?」


「探します」


「どうやって」


「書いたものを、突き合わせます」

預かり証というのは、預かったことを書いた紙です。日付が入っていないものは、預かり証としては役に立ちません。いつ預けたかが分からなければ、いつ出したかも言えないからです。


書き忘れは、よくあることだそうです。


——その年の初雪は、去年より十日早く来ました。ヴェルヌは半月で道が塞がります。次は、雪の合間に立つ市の話です。冬の市は、月に二度だけ立ちます。

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