第35話 三つ足りません
ルーセル商会の倉は、宿場の裏通りにあった。
板張りの大きな小屋で、中は暗く、天窓が二つしかない。樽が壁沿いに並べてあって、真ん中は通路になっている。数えると、三十ばかりあった。
倉というのは、預ける者と預かる者のあいだにあるものだ。預けた者は毎日は見に来られないし、預かった者は毎日そこにいる。ここに置いたきり半年見ない樽が、この谷にはいくつもある。
ティボーの樽は、いちばん奥だった。
一つある。
「四つ、ここに置いた」ティボーが言った。「並べて置いた。俺が自分で並べた」
「腹は、ご覧になりましたか」
「見たさ。〈H・レナール〉が四つ並んでたよ」
いま並んでいるのは一つだ。あとの三つがあったはずの場所には、別の樽が寄せてある。腹に何も彫っていない樽だった。
寄せた跡が床に残っていた。板の埃が、樽の輪の形に薄く払われている。動かしてから、そう日が経っていない。
ジャコブが来たのは、それからしばらくしてからだった。
呼びに行った小僧が戻ってくるまでに、日が傾いた。倉の中では、天窓の光が動くのがよく分かる。床の上を、光の四角が少しずつ横へずれていく。ずれきると、その日はもう暗い。
「これは、奥さん。王都はいかがでした」
「樽が三つ、足りません」
「三つ」
「ヴェルヌのティボーさんが、四つ預けられました。一つしかございません」
ジャコブは、奥まで歩いていって、樽の並びを見た。見て、指を折った。折ってから、こちらへ戻ってきた。
歩き方が速い。倉の中の物の位置を、全部知っている者の歩き方だった。どこに何があるか知っている者は、何がないかも知っている。
「売れましたよ」
「いつでございますか」
「先月です」
◇
「帳面を、拝見してもよろしゅうございますか」
「帳面ですか」
「預かった日と、出した日が書いてございましょう」
ジャコブは、少し笑った。困った笑い方ではない。面倒だという笑い方でもない。この人はよく笑う。よく笑う者は、話をこちらの都合のいいところで切りやすい。
「うちの帳面は、お見せできません」
「なぜでございますか」
「商会のものですので」
「では、ティボーさんに書いてお渡しになったものは」
「預かり証ですね。お持ちでしょう」
ティボーが、懐から紙を出した。折り目が四つついている。開くと、三行だけ書いてあった。
——樽 四。ヴェルヌ ティボー。預かり。
日付がない。
三行のうち、二行は品と名だ。最後の一行は「預かり」の二文字だけだった。返す日も、値も、書いていない。書いていないものは、あとから何とでも言える。
◇
「日付が、ございません」
「入れ忘れましたね」
「入れ忘れ、でございますか」
「よくあるんですよ。いちいち書いていたら、荷が動きませんので」
「では、いつ預かって、いつ出したかは」
「うちの帳面にございます」
「その帳面は、お見せいただけません」
「はい」
輪になっている。輪の中を二度回って、同じところへ戻った。
三度目は回らなかった。回っても、同じところへ戻る。組合の帳面のときと同じだ。相手の言うことが一つも間違っていなくて、こちらの言うことが一つも通らない。
「売れた先を、伺ってもよろしゅうございますか」
「王都です」
「どちらの店でございましょう」
「そこまでは。うちは仲買に渡すだけですので」
「値は」
「一つ、銀貨四枚で」
ティボーが、はじめて声を出した。
「四枚?」
「今年は安いんですよ。〈クレールの白〉が、王都で三枚になってますからね」
そう言われて、ティボーが黙った。
四つで銀貨十六枚。屋根の梁が二本と、板の張り替え。ぎりぎり届くかどうかだ。
この人は、七枚か八枚で売れると思って預けた。宿場まで降りてきて、預けて、帰ってから、雪を待っていた。待っているあいだに値が半分になった。半分になったことを、いま聞いた。
◇
「では、その四枚の代金は」
「春にお払いします。仲買からの入りが春ですので」
「預かり証には、そう書いてございません」
「口で申し上げました」
ティボーは、こちらを見た。何と言えばいいのか分からない顔だった。この人は借財のかたに樽を押さえられたことがある。押さえたのはルーセル商会だ。同じ商会に、いま樽を預けている。
「ジャコブさん」
「はい」
「一つだけ、お尋ねいたします」
「どうぞ」
「腹に彫りのある樽と、彫りのない樽では、値が違いますか」
ジャコブは、はじめて笑うのをやめた。やめている時間が、息を一つ吸うぶんだけあった。
それから、また笑った。
「同じですよ。中身は同じでしょう」
倉を出て、アニエスは荷車の上で帳面を開いた。
三冊目だ。王都で買ったばかりで、まだ二枚しか使っていない。表紙にはまだ何も書いていない。日付を書いて、その下に書けるだけ書いた。
——樽 四。ヴェルヌ ティボー。腹に〈H・レナール〉。
——ルーセル商会 宿場の倉。預けたのは、雪の前。
——本日、倉に一つ。三つなし。
——ジャコブ。先月売れたと申す。王都、仲買へ。一つ 銀貨四枚。代金は春。
——預かり証に日付なし。
「なに書いてんの」
マノンが覗きこんだ。
「見たことを、書いております」
「見たことって、なんもなかったじゃん」
「なかったことも、見たことでございます」
書いておけば、日付が残る。日付が残っていれば、あとから並べられる。並べられるものは、突き合わせられる。
十二年、蔵の帳面をそのために書いてきた。去年どうだったかを今年知るために書く。今年どうだったかを来年知るために書く。誰かを問い詰めるために書いたことは、一度もなかった。
「奥さん」ティボーが荷車の横に来た。「どうする」
「春まで待ちます」
「春に来なかったら」
「来なかったことが、また一つ書けます」
「書いて、どうなる」
「一つでは、どうにもなりません」
「じゃあ」
「三つ揃いますと、人は答えます」
ティボーは、荷車の柄に手をかけた。かけて、離した。
「三つも、揃うのかい」
「揃えます」
峠を越えたところで、雪が来た。
その年の最初の雪だった。谷では、初雪の日を覚えている者が多い。覚えていると、次の年に早いか遅いかが分かるからだ。帳面の隅にも、毎年それだけは書いてある。
荷車の上に、白いものがまばらに落ちてきた。落ちて、すぐ消えた。積もる雪ではない。ただ、これが降りはじめると、あとは日ごとに増える。
「今年は、早いね」ティボーが言った。
「去年は、いつでございましたか」
「もう十日あとだった」
「では、道が塞がるのも早うございますね」
「早い。ヴェルヌは、たぶん半月で入れなくなる」
半月あれば、宿場までは往復できる。往復できるが、それを何度もやるだけの用が、この冬にあるかどうか。
◇
村に戻って、荷を下ろした。
工房に灯りがついていた。ユーグが中にいて、板を削っていた。削っているのは樽の材ではなく、細かい細工の木だ。何を作っているのかは訊かなかった。訊けば答えるだろうが、答えると長くなる。
砥石を渡した。
「王都のものだそうです」
彼は受け取って、指の腹で表面を撫でた。撫でて、それから、灯りに近づけた。
「細かい」
「彫りの仕上げに使うと、店の者が申しておりました」
「使う」
それだけだった。礼は言わない人だ。去年もそうだった。礼を言わないかわりに、翌朝に樽が一つ置いてある。
言おうかどうか迷って、言った。
「マノンが、買えと申しました」
ユーグは、砥石を布の上に置いた。置いてから、しばらく動かなかった。
「……そうか」
◇
その夜、マノンが北の部屋へ降りてきた。
三年の樽の前にしゃがんで、腹を見ている。〈アニエス〉の彫りと、炭で書いた「三」と、その下の〈引き手 マノン〉。炭の字は、少し掠れてきていた。
「まだ、消えてないね」
樽に向かって言っていた。
「消えたら、書き直してください」
「まだ書かない。掠れてるだけだから」
娘は、余白のほうへ指を伸ばした。指三本ぶん残っているところだ。そこには触らずに、手を引っこめた。
「奥さん」
「はい」
「三つ、どこ行ったんだろうね」
「分かりません」
「探すの?」
「探します」
「どうやって」
「書いたものを、突き合わせます」
預かり証というのは、預かったことを書いた紙です。日付が入っていないものは、預かり証としては役に立ちません。いつ預けたかが分からなければ、いつ出したかも言えないからです。
書き忘れは、よくあることだそうです。
——その年の初雪は、去年より十日早く来ました。ヴェルヌは半月で道が塞がります。次は、雪の合間に立つ市の話です。冬の市は、月に二度だけ立ちます。




