第34話 棚が一段空く
四軒目の女主人は、オノリーヌといった。
名を聞いたのは、樽を売る話が済んでからだった。名乗るより先に値を訊く人だ。谷では、名乗ってから値の話に入る。どちらが正しいというものでもないが、王都では名乗るのが後らしい。
店の壁に、樽の腹だけが十ばかり並べて掛けてあった。抜いた鏡板を飾ってあるのだと、あとで分かった。どれにも彫りがある。買った樽の腹を取っておく店だった。
「あんた、あと何日いるんだい」
「明後日の朝に発ちます」
「じゃあ、明日の朝、うちへおいで」
「なにか」
「人を呼んどく」
それだけ言って、彼女は樽を店の奥へ運ばせた。運ばせるとき、腹を客のほうへ向けて置かせた。鏡板ではなく腹をこちらへ向ける置き方は、場所を取る。場所を取っても腹を見せる店が、この通りに一軒だけあった。
翌朝、店に三人いた。
一人は昨日の男で、奥で樽を洗っていた人だ。もう二人は知らない顔だった。片方は若く、片方は肥っていて、どちらも腕まくりをしている。手の甲まで日に焼けていない。屋根の下で働く者の腕だった。
「宿の者だよ」オノリーヌが言った。「二人とも、うちから樽を買ってる」
「宿でございますか」
「川向こうの宿場町だ。王都の宿は、うちみたいな店から買うんだよ」
酒屋の客が、酒を飲ませる店だとは考えていなかった。棚の札を読むのは客ひとりだと思っていた。実際には、そのあいだにもう一段ある。
谷では、作った者が売って、買った者が飲む。あいだに人が入らない。王都では、作る、卸す、売る、飲ませる、飲む、と手が五つある。五つのうち、味を見るのはどこか。それを昨日から考えていた。
卓の上に、器が四つ並んだ。
「言わないでおくれよ。どっちがどっちか」
「申しません」
◇
四人が飲んだ。
飲み方が四人とも違った。若い男は少しずつ含む。肥ったほうは一息に流しこむ。洗い場の男は鼻から入る。オノリーヌは、いきなり口へ運ぶ。
若い男が、二つ目を飲んでから、器を持ったまま止まった。肥ったほうは二つとも飲んで、それから一つ目に戻った。
「こっちだね」
「どちらでございますか」
「右だ。うちの客は、右のほうを二杯飲む」
「なぜ、そうお思いになりますか」
「一杯目で終わらないからだ。左は一杯で終わる。終わる酒は、うちじゃ困るんだよ」
オノリーヌが笑った。
「あんた、いいこと言うね」
「宿は、二杯目で儲けるんだよ」
「左の樽を、いくつお持ちでいらっしゃいますか」
「うちかい。四つだね」
「お客様は、なんと申されます」
「なにも言わないよ。安いからね。安い酒に文句を言う客はいない」
「文句が出ないのは、よいことでございますか」
若い男が、器を置いた。
「よかないね。文句も出ないってのは、覚えられてないってことだ」
昼前に、もう一人来た。
サンドル通りの、いちばん間口の広い店の主人だった。腕を組んだまま戸口に立って、こちらを見て、それからオノリーヌを見た。
「昨日の樽を、もう一度見せろ」
「見せてもいいけどね。あんた、昨日は忙しかったんだろう」
「今日は暇だ」
彼は卓についた。ついて、二つの器を並べさせて、両方飲んだ。飲む前に、どちらがどちらかを訊かなかった。訊けば分かることを訊かないのは、答えを先に知りたくないからだ。
飲んで、しばらく何も言わなかった。腕を組んで、卓の木目を見ていた。
それから、店の者を呼んで、自分の店の樽を持ってこさせた。三枚の札が立っているほうの樽だ。腹を上に向けて、指でなぞった。
何もない。
「……うちの棚に、二年置いてた」
「はい」
「二年、客に出してた」
「ご存じなかったのでございますね」
「知らんよ。札を読んで、値を見て、仕入れた」
「札は、どなたが立てられました」
「フォンテーヌのところが持ってくる。札ごと持ってくるんだ。うちは棚に立てるだけだ」
「立てるだけで、よろしいのでございますか」
主人は、答えなかった。答えるかわりに、自分の店の樽の腹を、もう一度手のひらで撫でた。
◇
その日の午後、棚が一段空いた。
空いたというより、空けた。上から三段目の、白の棚だ。そこにあった札が下へずらされて、いちばん左に隙間ができた。
札を一枚動かすのに、店の者が三人がかりで棚の前に立った。動かした先の札も動く。六枚のうち四枚が場所を変えた。棚というのは、一つ入れると全部が動くものらしい。
「札は、なんて書く」
主人が、墨の入った器を持って言った。
そこで、こちらが答えられなかった。
〈クレールの白〉とは書けない。その名は帳面の上ではフォンテーヌ商会のものだ。書けば、あちらと同じ札が二枚並ぶ。
「谷の名は、お使いになれません」
「なんでだい」
「組合の帳面に、先に載っております」
主人は、墨の器を卓に置いた。置いて、腕を組んだ。組んで、しばらく黙っていた。
それから、札を一枚取って、自分で書いた。
〈クレールの白 樽に印のあるもの〉
◇
読んで、しばらく声が出なかった。
墨がまだ乾いていない。字は太くもなく細くもなく、商売人が値を書くときの字だった。
こちらが立てた札ではない。売る側が、自分の都合で立てた札だ。組合に届けたものでもないし、誰かに認められたものでもない。ただ、この店の棚に立っている。
名を取り返したのではなかった。名の隣に、但し書きがついただけだ。ついただけだが、その但し書きは、うちの樽にしか当てはまらない。
「これでいいのかい」
「……よろしいのでしょうか」
「うちの棚だ。うちが書く」
「印のない樽が、あとから印を押しに来るかもしれません」
「そのときはそのときだ。押しに来た樽は、押しに来たって顔をしてるもんだよ」
マノンが、札を下から見上げていた。見上げて、口の中で一度読んだ。読んでから、こちらを見た。
目が赤くなかった。泣きそうな顔でもなかった。ただ、口を結んだまま札を見ていた。
何も言わなかったので、こちらも何も言わなかった。言えば、この娘は自分の書いた四文字がそこにあると気づく。気づくのは、自分で気づくほうがいい。
◇
クロヴィス商会へ寄って、バルテルに報せた。
彼は帳面から顔を上げなかった。
「一段か」
「一段でございます」
「四軒のうち二軒だ。あと二軒は動かん」
「はい」
「一段では、四十枚の棚には遠い」
「遠うございます」
「二年ある」
「二年ございます」
彼は帳面を閉じて、そこではじめてこちらを見た。
「あんた、今年の二十樽で、いくら残った」
「九枚で引き取っていただきましたので、百八十枚でございます」
「差額の六十枚は、うちが持った」
「ありがとうございます」
「来年は持たん」
三度目だった。この人は、大事なことを三度言う。
◇
帰りの馬車で、マノンが窓の外を見ていた。
行きと同じ景色が、逆の向きに流れていく。平らな畑が続いて、麦が続いて、また畑になる。行きは三日かかると思っていた道が、帰りは短く感じた。
「奥さん」
「はい」
「あの札、消される?」
「消されるかもしれません」
「消されたら?」
「また、書いていただきます」
「何回でも?」
「何回でも」
「それ、樽師さんが言ってたやつだね」
「そうでございますね」
娘は、膝の上の袋を抱え直した。中に、王都で買ったものが二つ入っている。一つは紙の帳面で、三冊目だ。もう一つは砥石だった。
砥石は、マノンが買えと言った。
「樽師さんに、なんも買わないの」
「入用のものが、分かりません」
「刃物のやつ、買っときなよ。あの人、いつも小刀いじってる」
言われて、店を探した。谷にも砥石はある。王都のものは目が細かかった。細かい砥石は、彫りの仕上げに使うのだと、店の者が言っていた。
買ってから、渡すときに何と言えばいいのかを考えた。考えて、まだ決まっていない。土産というものを、十二年、誰にも渡したことがない。
◇
宿場に着いたのは、三日目の夕方だった。
荷を降ろしていると、ルーセル商会の倉のほうから声がした。ティボーだった。ヴェルヌから降りてきていたらしい。顔色がよくない。
「奥さん」
「どうなさいました」
「樽が、ない」
「ない、と申されますと」
「四つ預けた。倉に四つあるはずだ。三つない」
王都の酒屋は、宿へ卸します。棚の札を読む客のほかに、もう一段、飲ませる商売の人たちがいます。その人たちは、二杯目が出るかどうかで酒を見ます。
一杯で終わる酒は、宿では困るのだそうです。
——棚が一段空きました。札は、こちらが書いたものではありません。次は、宿場の倉の話です。四つ預けて、三つありませんでした。




