↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/33

第33話 飲まない人

宿へ戻る道で、マノンは一言も喋らなかった。


石の道は歩きにくい。谷の土の道と違って、足の裏に固いものが当たり続ける。夕方の通りは行きよりも人が多く、二人並んで歩けない場所が何度かあった。


娘は帳面を胸に抱えていた。抱え方が、行きより固い。落とさないように抱えているのではなく、腕をどこへ置けばいいのか分からなくて抱えている抱え方だった。


宿の部屋に入って、荷を下ろしてから、アニエスは言った。


「明日は、朝から店を回ります」


「うん」


「四軒ございます。断られると思います」


「うん」


「マノン」


「なに」


「帳面を、卓に出したのは、よい手でございました」


娘は、帳面を寝床の脇に置いた。置いてから、こちらに背を向けて座った。


「……字、書けるとは思わなかったって、言われた」


「言われました」


「あたし、書けるのに」


「書けます」


「書けるのに、思わなかったって言われるんだね」


答えなかった。答える言葉はいくつか浮かんだ。どれも、この娘が明日から使えるものではなかった。


慰めれば、いま楽になる。楽になったぶん、次に同じことを言われたときに効く。効かせないためには、いま何も言わないほうがいい。


去年の秋、応接間で十二年ぶんの仕込みを一言で片づけられたとき、誰も慰めなかった。慰められなかったから、翌朝に壺を抱えて門を出られた。


    ◇


翌朝、クロヴィス商会へ寄った。


バルテルは店の奥にいた。王都では、あの毛皮の襟の外套を着ていない。着ていなくても、部屋の中でいちばん場所を取っている。


卓の上に紙が積んである。積み方が谷の帳面とは違って、束のまま横に寝かせてある。読むための置き方ではない。数えるための置き方だ。


「フォンテーヌに会ったそうだな」


「はい」


「どうだった」


「飲み比べを、断られました」


「だろうな」


「バルテル様」


「なんだ」


「店を、四軒お回りいただきたいのです」


彼は書き物の手を止めた。止めて、こちらを見た。


「うちの得意先だ」


「存じております」


「そこへ乗りこんで、うちの棚に並んでる〈クレールの白〉を飲ませて、あれは偽物だと言うのか」


「言いません」


「じゃあ、なんだ」


「並べて、飲んでいただきます。どちらがどうとは、こちらからは申しません」


    ◇


バルテルは、しばらく黙っていた。黙っているあいだ、指で卓の縁を二度叩いた。この男は、損得を勘定するときに指を動かす。


「俺は損をする」


「なさいます」


「店に、うちが偽物を入れてたと思われる」


「思われます」


「分かってて言ってるな」


「はい」


彼は、書き物の紙を裏返した。


「二十年、俺は同じ蔵から黒を引いてきた。誰が作ってるかは知らんかった。それでも、あれが毎年同じ味で来ることは信じてた」


同じ話を、宿場でも聞いた。この人は、大事なことを二度言う。二度言うのは、言うたびに自分で確かめているからだと思う。


「信じられんようになったのは、去年だ。去年の黒が薄かった。俺は理由を知らんかった。知らんまま、薄いとだけ言った」


「はい」


「あんたが谷にいた。俺は気づかなかった」


「匂いで、お気づきになりました」


「気づくのが遅い」


そう言って、彼は立ち上がった。


「一軒目は、サンドル通りだ。あの店の親父は、頑固で有名だぞ」


    ◇


一軒目は、断られた。


断られるまでが早かった。話を半分聞いたところで、主人が首を振った。


「並べるだと? うちの棚で?」


サンドル通りの、いちばん間口の広い店だ。昨日、こちらが樽を見せると言った、あの主人だった。


「棚は動かしていただかなくて結構でございます。卓の上で足ります」


「客が見るじゃないか」


「見ていただきたいのです」


主人は腕を組んだ。腕の太い男で、組むと肩から先が壁のようになる。組んだまま、バルテルのほうを見た。


「クロヴィスさん。あんた、この人の側かい」


「今日は、そうだ」


「明日は?」


「明日は、儲かるほうだ」


主人が鼻を鳴らした。それから、こちらへ向き直った。


「悪いね。今日は忙しい」


忙しくはなさそうだった。店に客はいない。ただ、忙しいと言われれば、こちらは帰るしかない。


    ◇


二軒目も断られた。


二軒目の主人は、樽を見るだけは見た。見て、腹の焼き印に指を当てて、それから返してよこした。


「うちは、札で売ってるんだ」


「はい」


「札を疑いだしたら、商売にならないよ」


三軒目は、話も聞かなかった。戸口で、荷が立てこんでいるからと言われた。実際に立てこんでいたので、こちらも引き下がった。


昼を過ぎていた。マノンは、三軒とも一言も喋らなかった。喋らずに、断られるたびに、樽を布でくるみ直していた。角に当て布を入れるのを忘れない。


四軒目は、川に近い小さな店だった。


主人が女で、六十くらいに見えた。酒屋というより、樽と桶に囲まれた仕事場のような店だ。奥で誰かが樽を洗っている音がしていた。


店先に札がない。かわりに、樽が三つ、腹をこちらへ向けて置いてある。腹には、それぞれ違う彫りがあった。


それを見た時点で、今日はここで終わりだと思った。


「クレール谷ってのは、どこだい」


「南の街道から、宿場へ入って、そこから荷車で半日でございます」


「遠いね。何しに来た」


「飲んでいただきたいのです」


「売りに来たんじゃないのかい」


「売りに参りました。ですが、今日は飲んでいただくだけで結構でございます」


女は、しばらくこちらの顔を見ていた。


「二つ持ってきたのかい」


「一つは、こちらでお求めできればと存じます。〈クレールの白〉と札の立っているものを」


「うちにもあるよ。三枚のやつだろ」


    ◇


卓の上に、二つの器が並んだ。


器は木ではなく、薄い焼き物だった。王都では、酒を見るときに白い器を使うらしい。白い器に入れると、色がよく分かる。谷では木の器しかないので、色は光にかざして見る。


左が店の樽から。右が、谷から持ってきた小樽から。色が違った。左は薄くて、右は少しだけ黄が差している。


女は、左から飲んだ。飲む前に、器を鼻に近づけなかった。いきなり口へ運んだ。この人は鼻ではなく舌で見る人だ。


飲んで、口の中で転がして、吐き出さずに飲みこんだ。それから右を飲んだ。今度は、飲んでから、しばらく何も言わなかった。


「……なんだい、これ」


「クレール谷の酒でございます」


「こっちも、そう書いてあるよ」


「はい」


「同じ名前で、こんなに違うのかい」


「違います」


女は、もう一度、左を飲んだ。飲んで、顔をしかめた。しかめてから、笑った。


「あたしゃ、これを二年、置いてたんだよ」


    ◇


そのあと、女は樽を見せろと言った。


言い方が、頼むのでも命じるのでもなかった。当たり前のことを当たり前に言う言い方だった。


床に置いた小樽を、自分で転がして腹を上に向けた。〈クレール〉の焼き印を指でなぞって、その脇の彫りを見た。


「〈H・レナール〉。これは、誰だい」


「樽を作った者でございます」


「作った奴の名が、彫ってあるのかい」


「彫ってございます。谷の樽には、全部」


「向こうのは?」


「何も、ございません」


女は、店の樽を引き出させた。奥で洗い物をしていた男が出てきて、二人がかりで転がした。棚の下から出すのに、ずいぶん手間がかかった。客がやらないはずだと思った。


腹には、何もなかった。縄の跡だけが薄く輪になっている。


「……なるほどね」


彼女は、しばらく二つの樽を並べて見ていた。片方の腹には字が二つ焼いてあり、片方には何もない。並べれば、誰にでも分かる。並べなければ、誰にも分からない。


「あんた、名前は」


「アニエス・ヴァルネと申します」


「これ、いくらで売ってくれるんだい」


「九枚でございます」


「九枚か」女は、樽の腹をもう一度撫でた。「高いね」


「高うございます」


「高いけどね。安いのを二年置いた店ってのは、恥ずかしいもんだよ」

酒屋には二種類あります。飲む店と、飲まない店です。飲まない店のほうが多いのだそうです。


四軒回って、三軒に断られました。四軒目の主人は、自分で樽を転がして腹を見ました。百人に一人と言われている、その一人でした。


——一人が言えば、九十九人が聞く、と樽師が言っておりました。次は、それが本当かどうかの話です。棚には、まだ一段も空いておりません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。