第33話 飲まない人
宿へ戻る道で、マノンは一言も喋らなかった。
石の道は歩きにくい。谷の土の道と違って、足の裏に固いものが当たり続ける。夕方の通りは行きよりも人が多く、二人並んで歩けない場所が何度かあった。
娘は帳面を胸に抱えていた。抱え方が、行きより固い。落とさないように抱えているのではなく、腕をどこへ置けばいいのか分からなくて抱えている抱え方だった。
宿の部屋に入って、荷を下ろしてから、アニエスは言った。
「明日は、朝から店を回ります」
「うん」
「四軒ございます。断られると思います」
「うん」
「マノン」
「なに」
「帳面を、卓に出したのは、よい手でございました」
娘は、帳面を寝床の脇に置いた。置いてから、こちらに背を向けて座った。
「……字、書けるとは思わなかったって、言われた」
「言われました」
「あたし、書けるのに」
「書けます」
「書けるのに、思わなかったって言われるんだね」
答えなかった。答える言葉はいくつか浮かんだ。どれも、この娘が明日から使えるものではなかった。
慰めれば、いま楽になる。楽になったぶん、次に同じことを言われたときに効く。効かせないためには、いま何も言わないほうがいい。
去年の秋、応接間で十二年ぶんの仕込みを一言で片づけられたとき、誰も慰めなかった。慰められなかったから、翌朝に壺を抱えて門を出られた。
◇
翌朝、クロヴィス商会へ寄った。
バルテルは店の奥にいた。王都では、あの毛皮の襟の外套を着ていない。着ていなくても、部屋の中でいちばん場所を取っている。
卓の上に紙が積んである。積み方が谷の帳面とは違って、束のまま横に寝かせてある。読むための置き方ではない。数えるための置き方だ。
「フォンテーヌに会ったそうだな」
「はい」
「どうだった」
「飲み比べを、断られました」
「だろうな」
「バルテル様」
「なんだ」
「店を、四軒お回りいただきたいのです」
彼は書き物の手を止めた。止めて、こちらを見た。
「うちの得意先だ」
「存じております」
「そこへ乗りこんで、うちの棚に並んでる〈クレールの白〉を飲ませて、あれは偽物だと言うのか」
「言いません」
「じゃあ、なんだ」
「並べて、飲んでいただきます。どちらがどうとは、こちらからは申しません」
◇
バルテルは、しばらく黙っていた。黙っているあいだ、指で卓の縁を二度叩いた。この男は、損得を勘定するときに指を動かす。
「俺は損をする」
「なさいます」
「店に、うちが偽物を入れてたと思われる」
「思われます」
「分かってて言ってるな」
「はい」
彼は、書き物の紙を裏返した。
「二十年、俺は同じ蔵から黒を引いてきた。誰が作ってるかは知らんかった。それでも、あれが毎年同じ味で来ることは信じてた」
同じ話を、宿場でも聞いた。この人は、大事なことを二度言う。二度言うのは、言うたびに自分で確かめているからだと思う。
「信じられんようになったのは、去年だ。去年の黒が薄かった。俺は理由を知らんかった。知らんまま、薄いとだけ言った」
「はい」
「あんたが谷にいた。俺は気づかなかった」
「匂いで、お気づきになりました」
「気づくのが遅い」
そう言って、彼は立ち上がった。
「一軒目は、サンドル通りだ。あの店の親父は、頑固で有名だぞ」
◇
一軒目は、断られた。
断られるまでが早かった。話を半分聞いたところで、主人が首を振った。
「並べるだと? うちの棚で?」
サンドル通りの、いちばん間口の広い店だ。昨日、こちらが樽を見せると言った、あの主人だった。
「棚は動かしていただかなくて結構でございます。卓の上で足ります」
「客が見るじゃないか」
「見ていただきたいのです」
主人は腕を組んだ。腕の太い男で、組むと肩から先が壁のようになる。組んだまま、バルテルのほうを見た。
「クロヴィスさん。あんた、この人の側かい」
「今日は、そうだ」
「明日は?」
「明日は、儲かるほうだ」
主人が鼻を鳴らした。それから、こちらへ向き直った。
「悪いね。今日は忙しい」
忙しくはなさそうだった。店に客はいない。ただ、忙しいと言われれば、こちらは帰るしかない。
◇
二軒目も断られた。
二軒目の主人は、樽を見るだけは見た。見て、腹の焼き印に指を当てて、それから返してよこした。
「うちは、札で売ってるんだ」
「はい」
「札を疑いだしたら、商売にならないよ」
三軒目は、話も聞かなかった。戸口で、荷が立てこんでいるからと言われた。実際に立てこんでいたので、こちらも引き下がった。
昼を過ぎていた。マノンは、三軒とも一言も喋らなかった。喋らずに、断られるたびに、樽を布でくるみ直していた。角に当て布を入れるのを忘れない。
四軒目は、川に近い小さな店だった。
主人が女で、六十くらいに見えた。酒屋というより、樽と桶に囲まれた仕事場のような店だ。奥で誰かが樽を洗っている音がしていた。
店先に札がない。かわりに、樽が三つ、腹をこちらへ向けて置いてある。腹には、それぞれ違う彫りがあった。
それを見た時点で、今日はここで終わりだと思った。
「クレール谷ってのは、どこだい」
「南の街道から、宿場へ入って、そこから荷車で半日でございます」
「遠いね。何しに来た」
「飲んでいただきたいのです」
「売りに来たんじゃないのかい」
「売りに参りました。ですが、今日は飲んでいただくだけで結構でございます」
女は、しばらくこちらの顔を見ていた。
「二つ持ってきたのかい」
「一つは、こちらでお求めできればと存じます。〈クレールの白〉と札の立っているものを」
「うちにもあるよ。三枚のやつだろ」
◇
卓の上に、二つの器が並んだ。
器は木ではなく、薄い焼き物だった。王都では、酒を見るときに白い器を使うらしい。白い器に入れると、色がよく分かる。谷では木の器しかないので、色は光にかざして見る。
左が店の樽から。右が、谷から持ってきた小樽から。色が違った。左は薄くて、右は少しだけ黄が差している。
女は、左から飲んだ。飲む前に、器を鼻に近づけなかった。いきなり口へ運んだ。この人は鼻ではなく舌で見る人だ。
飲んで、口の中で転がして、吐き出さずに飲みこんだ。それから右を飲んだ。今度は、飲んでから、しばらく何も言わなかった。
「……なんだい、これ」
「クレール谷の酒でございます」
「こっちも、そう書いてあるよ」
「はい」
「同じ名前で、こんなに違うのかい」
「違います」
女は、もう一度、左を飲んだ。飲んで、顔をしかめた。しかめてから、笑った。
「あたしゃ、これを二年、置いてたんだよ」
◇
そのあと、女は樽を見せろと言った。
言い方が、頼むのでも命じるのでもなかった。当たり前のことを当たり前に言う言い方だった。
床に置いた小樽を、自分で転がして腹を上に向けた。〈クレール〉の焼き印を指でなぞって、その脇の彫りを見た。
「〈H・レナール〉。これは、誰だい」
「樽を作った者でございます」
「作った奴の名が、彫ってあるのかい」
「彫ってございます。谷の樽には、全部」
「向こうのは?」
「何も、ございません」
女は、店の樽を引き出させた。奥で洗い物をしていた男が出てきて、二人がかりで転がした。棚の下から出すのに、ずいぶん手間がかかった。客がやらないはずだと思った。
腹には、何もなかった。縄の跡だけが薄く輪になっている。
「……なるほどね」
彼女は、しばらく二つの樽を並べて見ていた。片方の腹には字が二つ焼いてあり、片方には何もない。並べれば、誰にでも分かる。並べなければ、誰にも分からない。
「あんた、名前は」
「アニエス・ヴァルネと申します」
「これ、いくらで売ってくれるんだい」
「九枚でございます」
「九枚か」女は、樽の腹をもう一度撫でた。「高いね」
「高うございます」
「高いけどね。安いのを二年置いた店ってのは、恥ずかしいもんだよ」
酒屋には二種類あります。飲む店と、飲まない店です。飲まない店のほうが多いのだそうです。
四軒回って、三軒に断られました。四軒目の主人は、自分で樽を転がして腹を見ました。百人に一人と言われている、その一人でした。
——一人が言えば、九十九人が聞く、と樽師が言っておりました。次は、それが本当かどうかの話です。棚には、まだ一段も空いておりません。




