第32話 オーブリー・フォンテーヌ
フォンテーヌ商会は、川から二本入った通りにあった。
石造りの三階建てで、一階が店、二階から上が住まいらしい。戸口に鉢植えが二つ置いてある。手入れが行き届いていて、枯れた葉が一枚もない。
手入れをする者を雇っているのだろう。谷では鉢植えを置く家がない。置く場所があるなら何かを植える。植えるなら食べられるものを植える。
「これ、なんの木」
マノンが屈みこんで葉を見た。
「分かりません」
「食えないやつだね」
「食えないものを、飾るのだと思います」
名を告げると、待たされなかった。
奥へ通されて、椅子をすすめられて、湯まで出た。谷から来た者をこういうふうに扱う店は初めてだった。宿場の商会では、たいてい立ったまま話す。座らせるのは、話が長くなると分かっている相手だけだ。
部屋には帳面が並んでいた。棚が三つ、どれも背表紙が揃っている。揃えて並べるというのは、探すためではなく、見せるための並べ方だ。
オーブリー・フォンテーヌは、四十四だと自分から言った。痩せていて、顔色がいい。上等な布の服を着ているが、それを見せびらかす着方ではなかった。
手を見た。爪が短く切ってある。指の腹に、たこがない。荷も持たず、樽も転がさず、鍬も握らない手だった。
「クレール谷の方が来られるとは、思っておりませんでした」
「先だって、手代の方に来ていただきました」
「モーリスでございますね。断られたと申しておりました」
「はい」
「よい返事でございました」
意味が取れなかった。取れないまま黙っていると、向こうが説明した。
「断られなければ、こちらから名を出せません。金貨十枚をお渡ししていたら、こちらは十枚ぶん損をしております」
「では、はじめから」
「いいえ。買えるなら買いました。売っていただけるほうが、話は早うございますので」
◇
湯の器を、両手で持った。
熱くない。ぬるい湯だ。谷では、この時期にぬるい湯を出さない。出せば体が冷える。
ここは石造りで、火が入っている。冷えないなら、湯はぬるくてかまわない。かまわないというのは、そういう暮らしをしているということだ。
「一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「あの札の酒は、どちらのものでございますか」
「南でございます。谷が三つ、四つございまして、その年ごとに」
「その年ごとに、変わるのでございますか」
「安いところから買いますので」
「では、去年と今年で、中身が違います」
「違います」
「同じ名で、でございますか」
フォンテーヌは、少し首をかしげた。困った顔ではない。うまく伝わっていないという顔だ。
「名と、中身は、別のものでございますよ」
そう言われて、こちらが黙った。
黙ったのは、腹が立ったからではない。腹は立っていた。それよりも、この人が本気で言っているのが分かったからだ。嘘をついている者は、こういう順番では喋らない。
去年の秋に会った商人は、こうではなかった。バルテル・クロヴィスは値札で人を見る男だが、味は分かる。分かるから買い叩ける。分かるから、去年の黒が薄いことに気づいた。
この人は、味を見ていない。見ないまま二十年やってきたのだと思う。
「奥様。名は、目印でございます。客は、目印を頼りに選びます。選んだ先に何が入っているかは、飲むまで分かりません」
「飲めば、分かります」
「飲んで、覚えていられる客が、どれほどおりましょうか」
「……」
「うちの店で、去年と同じ酒を買われた客が、去年と味が違うと言ってこられたことは、一度もございません」
一度もない、というのは本当だろう。人は去年の味を覚えていない。覚えているのは、去年その酒を出したときに卓が沸いたかどうかだ。
アニエスは、床に置いた布包みをほどいた。
小樽が一つ。腹に〈クレール〉の焼き印と、その脇に〈H・レナール〉の彫りがある。焼き印は焦げの輪郭が少し滲んでいる。彫りは線の底が平らだ。宿場の鍛冶が言うには、樽師の刃は寝ているから、そうなるらしい。
「持ってまいりました。飲み比べていただけますか」
「なにを、でございますか」
「こちらと、そちらの札の酒を」
フォンテーヌは、樽を見た。見たが、身を乗り出さなかった。椅子に座ったまま、腕を膝に置いている。
樽を目の前に置かれて、腹に手を伸ばさない酒屋を、はじめて見た。ユーグなら箍を弾く。バルテルなら栓の具合を見る。宿場の鍛冶は木口を撫でた。この人は、置いてある位置から一度も目を動かさなかった。
「わたくしは、味の分かる人間ではございませんので」
「分からずとも、違いはお分かりになります」
「分かったとして、それがどうなりますか」
「どちらが〈クレールの白〉かが、お分かりになります」
「帳面に書いてあるほうでございます」
◇
戸口のほうで、人が動く音がした。
店の者が二人、荷を運んでいる。運んでいるのは樽ではなく、木の箱だ。中身は札かもしれない。フォンテーヌは、そちらへ一度目をやってから、また戻した。
「奥様。わたくしは、酒を売っておりません」
「酒屋でいらっしゃいます」
「名を売っております。酒は、名に付いてくるものでございます」
そこでマノンが、袋から帳面を出した。
出せとは言っていない。この娘は、こういうときに勝手に動く。帳面を卓の上に置いて、両手で開いた。日付と、音の間隔と、寒いか寒くないかが、去年の秋から今日まで書いてある。
一冊目は麦の勘定用の粗い紙で、二冊目は宿場で買った紙の帳面だ。持ってきたのは二冊目のほうだった。
フォンテーヌが、はじめて身を乗り出した。
◇
「これは」
「仕込みの帳面でございます」
「ずいぶん、細こうございますね」
「毎日つけております」
「これを、どなたが」
「わたくしと、この者でございます」
彼は、マノンを見た。それから、帳面の字を見た。二種類の字がある。細い字と、太くて罫からはみ出す字だ。
「谷に、字を書ける方がいらっしゃるとは、思っておりませんでした」
言い方に、悪意はなかった。世間話をする調子で、思ったことをそのまま言った声だった。
悪意がないぶん、はっきりと聞こえた。マノンの手が、帳面の縁で止まった。止まって、そのまま動かなかった。
◇
「フォンテーヌ様」
「はい」
「この者は、去年の秋に、自分の名も書けませんでした」
「ほう」
「冬のあいだに毎朝ひと文字ずつ覚えて、春には帳面をつけました。この秋には、樽に焼く四文字を、水に映して逆から書きました」
「たいしたものでございます」
「たいしたものでございます」
同じ言葉を返した。返してから、続けた。
「その四文字が、いま、王都の店の奥に二十ございます。棚の下でございますので、どなたも御覧になりません」
フォンテーヌは、黙った。
「札は、お上手でいらっしゃいます。字も、たいそう整っておられました」
「恐れ入ります」
「札を書かれた方は、あの酒を飲まれましたか」
「……さて」
「飲んでおられぬ方の字が、飲んだ者の字より前に立っております」
◇
彼は、湯の器に手を伸ばしかけて、途中でやめた。伸ばしかけた手を膝に戻して、指を組んだ。
この人は、器に一度も口をつけていない。こちらの湯は減っている。マノンの湯も減っている。主の湯だけが、出されたときのままそこにある。
それから、こちらの小樽をもう一度見た。見て、それから、笑った。感じの悪い笑い方ではない。むしろ、丁寧な笑い方だった。
「奥様。飲み比べは、いたしません」
「なぜでございますか」
「並べれば、どちらかが負けます。負けたほうの札を下げねばなりません」
「負けるとお思いでしょうか」
「思いません。ですが、並べる理由がございません」
彼は立ち上がって、戸口のほうへ手を差し伸べた。話は終わりという合図だった。
「うちの札は、もう棚にございます。奥様の樽は、まだ棚にございません。並べるのは、棚に上がってからでよろしいかと存じます」
名と中身は別のものだ、と言われました。嘘を言っている顔ではありませんでした。
その人は、自分の売る酒を飲んでいません。飲まずに売る商いというものが、この世にあります。
——飲み比べは断られました。並べる理由がない、というのが向こうの言い分です。次は、並べる理由を持っている人たちを探しに行きます。飲んで、金を払う人たちです。




