第31話 王都へ
馬車は、宿場を朝に出て、二日目の午後に王都へ入った。
一日目は、街道を北へ上がった。畑と麦と、また畑が続いた。乗合の馬車で、四人が向かい合って座る。ほかの二人は布を商う夫婦で、朝から一度も口をきかなかった。
荷は、足元に置いた小樽が三つと、帳面の入った布の袋が一つだ。樽は布でくるんで、角に当て布をしてある。ユーグが宿場で積み直した。積み直したときに、縄の締め方を三度直していた。
マノンは窓の外を見ていて、昼を過ぎたあたりで見るのをやめた。
「同じだね」
「同じでございます」
「谷と?」
「谷と、少し違います。ここの畑は平らでございます」
「段がないと、変なかんじがする」
段のない畑を見たことがない娘だった。谷では、平らな土地は川沿いにしかなく、そこは麦に取ってある。切った段の数が、そのまま村の身代になる。
平らな畑は、たしかに変な感じがした。どこから摘めばいいのか分からない。
夜は街道沿いの宿に泊まった。相部屋で、麦の袋の匂いがした。マノンは寝つきが悪く、夜中に一度、起きて樽を数えていた。三つあった。
二日目の朝、丘を越えたところで、遠くに屋根が見えた。屋根が一つではなく、数えきれないほど並んでいた。マノンが体を起こした。
「あれ、全部、家?」
「家でございます」
「何軒あるの」
「数えたことがございません」
◇
門を入ってから、馬車はしばらく進まなかった。
道が詰まっている。荷車と、人と、荷を担いだ者が、同じ幅の道を行き来していて、そのどれもが止まらない。御者が何度か怒鳴った。怒鳴られたほうも怒鳴り返した。
窓の外を、いろいろなものが通った。魚の籠を担いだ男、犬、赤い旗を立てた荷車。谷では、一日に通るものが五つか六つだ。ここでは、数えているあいだに次が来る。
「うるさい」
「うるさゅうございますね」
「みんな怒ってる」
「怒ってはおりません。あれで普通なのだと思います」
マノンは窓の縁を握っていた。握る手に力が入っている。降りたくないのだと思った。
谷を出たのは、去年の冬の宿場が初めてだ。降りてしまえば平気な顔をするのだが、降りるまでが長い。
十二年、公爵家の蔵にいた。蔵から王都までは二日ある。行こうと思えば行けたが、行く用がなかった。用のない場所へは、人は行かない。
だから、こちらも初めてだった。そのことは、言わなかった。言えば、この娘は自分が案内されているのではないと知る。知らないほうが、降りるのが早い。
クロヴィス商会の店は、川沿いの通りにあった。
アルヌーが表で待っていた。谷へ来たときと同じ外套を着ているが、こちらでは指図する相手の数が違う。声をかけると、五人ばかりが同時に動いた。荷を下ろす者、樽を運ぶ者、帳面を持ってくる者が、それぞれ別にいる。
谷では、荷を下ろすのも運ぶのも書くのも、同じ人間がやる。人が足りているというのは、こういうことらしい。
「お疲れでございましょう。宿は取ってございます」
「ありがとうございます」
「四晩でよろしゅうございますか」
「三晩で結構でございます。峠が」
「承知しております」
彼は帳面を出さなかった。谷では、話すときに必ず帳面を出す人だった。ここでは、帳面が別の者の手にある。
「では、まず、店をご覧になりますか」
「はい」
「サンドル通りは、歩いて四半刻でございます」
歩きながら、マノンは黙っていた。
黙っているが、目は動いている。看板を見て、荷を見て、人の靴を見ていた。この娘は人を靴から見る。王都の靴は谷の靴より薄く、底の縫い目が細かい。石を敷いた道しか歩かない者の靴だ。
「奥さん」
「はい」
「みんな、なんで急いでんの」
「分かりません」
「あの人、いま三回ぶつかったよ」
「三回でございますか」
「謝ってない。一回も」
数えている。この娘は、いつも何かを数えている。
「奥さんは、数えないの」
「数えます」
「なに数えてんの」
「店の数でございます」
「いくつ?」
「酒を置いている店が、ここまでで十一軒でございました」
◇
サンドル通りは、酒屋が四軒並んだ通りだった。
そのうちの一軒、いちばん間口の広い店の前で、アルヌーが足を止めた。
「こちらでございます」
戸口から中を覗いた。奥行きがある。手前に卓があって、その向こうに棚が三つ。棚の下に樽が積んであるが、鏡板がこちらを向いていて、腹は見えない。腹を見ようと思えば、樽を一つ引き出さなければならない。
アルヌーの言ったとおりだった。客は札を読む。樽は奥にある。
「あちらの棚が、赤でございます」
「はい」
「いちばん上の段に、ドレニエの黒がございます」
◇
一段だった。
去年まで、あの棚には三段あったのだと、あとでアルヌーが言った。上の三段が全部ドレニエで、下の二段が他家の赤だったという。
いまは、上の一段だけがドレニエで、その下は知らない家の名で埋まっていた。
数えた。札が四枚ある。四枚のうち一枚が〈ドレニエの黒〉で、残りの三枚は別の名だ。
——今年の黒は、四十樽のうち二十六樽になりました。
ピエールの字を思い出した。行が右へ下がっていく字だ。二十六樽なら、四枚のうち一枚で足りる。足りるが、去年までは足りなかった。
胸のうちで何が起きたかは、書かないでおく。
札の前に、しばらく立っていた。マノンが横で、同じ札を見上げていた。この娘は〈ドレニエの黒〉の字を読めるが、それが何なのかは知らない。
◇
「奥様」
アルヌーが、通りの向こうを目で示した。
「ドレニエ家の館は、あちらの通りを二つ折れたところでございます。この時期は、王都にいらっしゃると聞いております」
「そうでございますか」
「ご覧になりますか」
「いいえ」
答えるのに、迷わなかった。迷わなかったことに、自分で少し驚いた。
二つ折れたところに、十二年ぶんの何かが置いてある。置いてあるが、取りに行くものではない。取りに行くものなら、去年の秋に持って出ている。持って出たのは壺ひとつだ。
「では、参りましょう」
アルヌーは、それきり館の話をしなかった。判断しない人と歩くのは楽だった。
マノンが、袖を引いた。
「いまの、誰の家」
「昔、わたくしがおりました家でございます」
「見なくていいの」
「見ても、何も動きませんので」
◇
店の中へ入った。
床に藁が撒いてある。こぼれた酒を吸わせるためで、歩くと足の下で鳴った。藁を撒けるというのは、こぼす量が多いということだ。
卓の向こうに、店の主人がいた。五十がらみの、腕の太い男だ。
「白は、よく出ますか」
「出るよ。どれのことだい」
「〈クレールの白〉と申します酒でございます」
「ああ、あれかい。出るね。安いからね」
「お飲みになったことは、ございますか」
「飲まないよ。うちは売るだけだ」
「どちらの谷のものか、ご存じでいらっしゃいますか」
主人は、棚のほうを見もしなかった。
「クレール谷ってところだろう。名前に書いてある」
「行かれたことは」
「ないね。あんた、行ったことあるのかい」
「住んでおります」
主人が、はじめてこちらを見た。見て、それから、足元に置いてある小樽に目を移した。布でくるんだままの樽だ。
「……なんだい、それは」
「あとで、お目にかけます」
◇
白の棚は、赤の棚の反対側にあった。棚が二つ。札が六枚。
上から順に読んでいった。三枚目まで来て、そこで止まった。
〈クレールの白〉
墨の字だ。細くて、整っている。谷の帳面の字とは似ても似つかない。札の下に値が書いてある。
銀貨三枚。
その隣に、もう一枚札があった。
〈クレールの白 新〉
銀貨二枚。
「……新?」
マノンが読んだ。読めた自分に驚いたような声だった。
アルヌーが咳払いをした。
「先月から出たものでございます。同じ商会が出しております」
「二枚でございますか」
「二枚でございます。三枚のほうが売れなくなりましたので、下に一つ足したのだと思われます」
「札を二枚立てれば、棚は広くなりますか」
「広くなります。棚の割り当ては、札の数で決まりますので」
「では、名を二つに割って、棚を取ったのでございますね」
「そういうことでございます」
「三枚のほうが売れなくなったのは、なぜでございましょう」
「まずいからでございます」
「まずいものを、下げて売る」
「はい。下げれば、売れますので」
「安いと、売れるの」マノンが言った。
「売れます」
「まずくても?」
「まずくても、安ければ売れます」
「あれ、あたしの字じゃない」
「違います」
「じゃあ、なんで同じ名前なの」
「先に、あちらが帳面に書いたからでございます」
マノンは、札を長いこと見ていた。読める字が並んでいて、その字が自分のものではない。
自分の名前が、棚で二段になっていた。
王都の酒屋では、棚に札を立てて、樽は棚の下に積みます。客は札を読んで、値を見て、決めます。樽の腹を覗きこむ客は、店の者が言うには百人に一人だそうです。
赤の棚の札は四枚で、そのうち一枚がドレニエの黒でした。去年までは三段あったそうです。
——同じ名前の札が、二枚並んでおりました。三枚の酒と、二枚の酒です。次は、その札を立てた人に会いに行きます。会うだけなら、話は通ると思っておりました。




