第30話 樽には名が彫ってあります
偽物の小樽は、北の部屋の隅に置いたままにしてあった。
捨てる気にならなかった。栓を抜いて味を見て、それきり転がしてあるだけの樽だが、捨てれば、こちらに残るものが何もなくなる。
朝、それを起こして、腹を上に向けた。
何も焼かれていない。札の縄の跡が、薄く輪になって残っているだけだ。指でなぞると、木がざらついた。木口の始末が粗い。急いで作った樽だと分かる。
谷の樽は、腹を撫でても指が引っかからない。ユーグは仕上げに一度、乾いた布で木口を擦る。擦らなくても酒は入る。
ユーグが戸口に立ったのは、そのときだった。
「起こしたのか」
「腹を、見ておりました」
「見せろ」
彼は樽を横倒しにして、床に膝をついた。
板の合わせ目に爪を入れる。箍を指で弾く。鏡板の縁を撫でて、木口に鼻を寄せた。ひとつひとつが速い。速いのに、順番が決まっている。
「南だ」
「南の樽でございますか」
「木が柔い。南の木は目が粗い。粗い木は寝かせると香りが抜ける。抜けるから、南の樽は早く飲む酒に使う」
長かった。長かったが、こういうときは長い。ここ一年ほど、この人が樽の話を続けるのを聞いていなかった。去年の冬に一度、凍りかけた樽を抱えて夜を明かしてから、話が短くなった。短くなったのは、話す必要がなくなったからだと思っていた。
「焼きが浅い。中を焦がしてない。焦がしてないから、木の味がそのまま出る」
「では、この酒の薄さは」
「半分は樽だ」
「残りの半分は」
「作った奴だ」
「若い酒を、そのまま詰めております」
「詰めた奴が悪い。樽は悪くない」
樽師の言い分だった。言い分だが、外れてもいない。この樽は、早く飲む酒に使う樽としては悪くない作りをしている。悪いのは、その樽に置くべき酒を置いていないことだ。
◇
彼は樽を一周させて、腹の全部を見た。それから、床に置いた。
「名がない」
「はい」
「作った奴の名が、どこにもない」
ユーグは自分の指を、樽の側板の端に置いた。ちょうど、自分の樽なら〈H・レナール〉を彫るところだ。
「名を彫っておけば、どこへ行っても戻ってくる」
去年の冬、この人が言った言葉だった。あのときは、差し押さえられた樽の話をしていた。名が彫ってあれば、売られても、流れても、いつか誰かが「これは誰の樽だ」と言う。だから彫るのだと。
父親も樽師で、同じ字を彫っていた。潰れるときも彫っていた。そこまで聞いて、あとは訊かなかった。
「戻ってきませんでした」
「これは戻らん。名がないからだ」
「ですが、名がないと分かるのは、樽を見た者だけでございます」
「見せればいい」
「どなたに」
「腹を見ない奴に見せても、しょうがない」
「王都の店の客は、百人に一人しか見ないそうでございます」
「一人が見りゃいい」
「一人でございますか」
「一人が言えば、九十九人が聞く」
◇
そのとき、頭の中で何かが順番を変えた。
札は真似できる。〈クレールの白〉と墨で書くだけだ。焼き印も、そのうち真似される。鍛冶に頼めば鉄はできる。名前は、いくらでも写せる。
去年の秋、公爵家の応接間で、こちらの十二年が趣味と呼ばれた。あのとき腹が立ったのは、呼び方そのものではなかったと思う。呼んだ人が中身を一度も見ていなかったからだ。
見ない者に、何を見せるか。それがずっと分からなかった。
写せないものが二つある。
一つは、樽だ。誰が作ったか、どの木で作ったか、どこを焦がしたか。腹に彫られた名と、板の合わせ方と、箍の締め方。写そうとすれば、その樽師になるしかない。
ならないなら、真似た樽はどこかが違う。違いは、並べれば見える。並べなければ見えない。
もう一つは、中身だ。五つの村を合わせた味は、五つの村を持っていなければ作れない。
「見せる相手を、間違えておりました」
「誰にだ」
「組合に見せておりました。あちらは、中身を検めない役でございます」
「じゃあ、誰に見せる」
「飲む者に、でございます」
昼過ぎ、宿場から荷が来た。
荷の中に、封書が一通まぎれていた。差出人の名を見て、しばらく指が止まった。
リゼット・マルソー。
去年の冬に一度だけ谷へ来て、谷の酒を一杯飲んで帰った人だ。あれきり便りはなかった。峠が塞がる前の日に来て、塞がる日に発った。絹の靴で蔵の入口に立っていた。
——お久しゅうございます。
——王都で、あなたの名前の酒を見ました。銀貨三枚の札が立っておりました。飲んでみましたが、あれは違いますね。
——わたし、毛織の家の娘です。おなじことが、うちの商いでは二十年前にありました。
——そのときどうしたか、書いておきます。
——毛織は、布の端を「耳」と申します。うちの家は、耳のところに三本の筋を織り込みました。真似はされました。ですが、真似をするには織り機を替えねばなりません。替えられない者は、真似ができませんでした。
——それより効いたのは、買う側です。うちの父は、王都の仕立屋を一軒ずつ回って、耳を見せて歩きました。二年かかったそうです。
——見せて回ると、買う人が目利きになります。目利きになった人は、あとから安いものを持ってこられても、もう買いません。
——余計なことを書きました。お返事は要りません。
◇
紙を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
字がきれいだった。ああいう字は、書くことを仕事にした家でしか育たない。
去年、この人は蔵の入口に絹の靴で立って、「あなた、悔しくないの」と訊いた。あのとき、こちらは悔しいと思う暇に澱を引かねばならないと答えた。
二年かかったそうです、と書いてある。
こちらも二年だった。
◇
夕方、村の広場で話をした。
集まったのは十人ばかりだ。ギヨームと、ロズリーヌと、ミオの若い衆と、あとは畑仕事の帰りに寄った者たちだった。
「王都へ参ります」
「王都へ?」ギヨームが言った。「この時期にですか」
「峠が塞がる前に出れば、戻れます」
「行って、どうなさる」
「店を回ります。うちの樽を一つ持って、あちらの樽と並べて、飲み比べていただきます」
「そんなことで、何か変わりますかね」
「変わらないかもしれません」
ロズリーヌが鼻で笑った。
「変わらないかもしれないのに、行くのかい」
「行かなければ、区別がつきません。区別がつかないと、いちばん安いものの値で買われますので」
誰も何も言わなかった。ミオの若い衆が、地面を靴の先で擦った。
「……うちのが、いちばん安く買われてきたんだ」
「はい」
「行ってこいよ」
それだけ言って、若い衆は先に帰っていった。ギヨームが、その背中を見送ってから咳払いをした。
「荷車は、うちのを出します」
「宿場までで結構でございます」
「宿場までです。その先は道が違いますので」
マノンには、そのあとで言った。井戸のところで、桶を提げたまま立っている娘に、正面から言った。
「王都へ、ご一緒していただきます」
「え」
「明後日の朝に出ます。宿場で一泊して、馬車で二日でございます」
「あたし?」
「マノンです」
娘は、桶を地面に置いた。置いてから、また持ち上げた。持ち上げてから、もう一度置いた。
「なんで、あたし」
「帳面を持っていきます。持っていく者が要ります」
「持つだけなら、誰でもできるじゃん」
「中身を読める者が、二人しかおりません」
マノンは、井戸の縁に腰を下ろした。下ろして、しばらく足の先を見ていた。
「……あたし、谷から出たの、宿場までしかない」
「存じております」
「王都の人と、しゃべれない」
「しゃべらなくてかまいません」
「じゃあ、何すんの」
「並べます。うちの樽と、あちらの樽を」
娘は顔を上げた。
「並べて、どうすんの」
「飲んでいただきます」
「飲んで、まずいって言われたら」
「そのときは、まずいのでございます」
「困るじゃん」
「困りますが、分かります」
◇
その夜、工房へ寄った。
ユーグは、荷に積む小樽を選んでいた。頼んでいないのに、もう三つ床に並べてある。どれも腹に〈H・レナール〉が彫ってある。
中身は今年の二十樽と同じ酒だ。二十樽から少しずつ分けて詰めた。同じ味でなければ、持っていく意味がない。
「三つも要りません」
「一つは道で割れる」
「二つでよろしいのでは」
「一つは飲まれる」
「どなたが飲まれます」
「あんただ」
そういうものらしい。
「宿場までは送る」
「ありがとうございます」
「その先は、行かん」
「はい」
彼は樽を布でくるみはじめた。くるみながら、一度だけ手を止めた。
「誰と行く」
「マノンと参ります」
ユーグは、うなずきもしなかった。うなずくかわりに、布をもう一枚出してきて、樽の角に当てた。角が割れると、腹の彫りまで裂けることがあるのだそうだ。
樽は、作った者の癖が全部出ます。板の合わせ方、箍の締め方、内側をどこまで焦がすか。木の産地まで分かる人がいます。
札は真似できます。焼き印も、そのうち真似されます。樽を真似するには、その樽師になるしかありません。
——毛織の家では、布の端に三本の筋を織り込んだそうです。効いたのは筋そのものより、それを二年かけて見せて回った人のほうでした。次は、その真似をしに王都へ行きます。




