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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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30/32

第30話 樽には名が彫ってあります

偽物の小樽は、北の部屋の隅に置いたままにしてあった。


捨てる気にならなかった。栓を抜いて味を見て、それきり転がしてあるだけの樽だが、捨てれば、こちらに残るものが何もなくなる。


朝、それを起こして、腹を上に向けた。


何も焼かれていない。札の縄の跡が、薄く輪になって残っているだけだ。指でなぞると、木がざらついた。木口の始末が粗い。急いで作った樽だと分かる。


谷の樽は、腹を撫でても指が引っかからない。ユーグは仕上げに一度、乾いた布で木口を擦る。擦らなくても酒は入る。


ユーグが戸口に立ったのは、そのときだった。


「起こしたのか」


「腹を、見ておりました」


「見せろ」


彼は樽を横倒しにして、床に膝をついた。


板の合わせ目に爪を入れる。箍を指で弾く。鏡板の縁を撫でて、木口に鼻を寄せた。ひとつひとつが速い。速いのに、順番が決まっている。


「南だ」


「南の樽でございますか」


「木が柔い。南の木は目が粗い。粗い木は寝かせると香りが抜ける。抜けるから、南の樽は早く飲む酒に使う」


長かった。長かったが、こういうときは長い。ここ一年ほど、この人が樽の話を続けるのを聞いていなかった。去年の冬に一度、凍りかけた樽を抱えて夜を明かしてから、話が短くなった。短くなったのは、話す必要がなくなったからだと思っていた。


「焼きが浅い。中を焦がしてない。焦がしてないから、木の味がそのまま出る」


「では、この酒の薄さは」


「半分は樽だ」


「残りの半分は」


「作った奴だ」


「若い酒を、そのまま詰めております」


「詰めた奴が悪い。樽は悪くない」


樽師の言い分だった。言い分だが、外れてもいない。この樽は、早く飲む酒に使う樽としては悪くない作りをしている。悪いのは、その樽に置くべき酒を置いていないことだ。


    ◇


彼は樽を一周させて、腹の全部を見た。それから、床に置いた。


「名がない」


「はい」


「作った奴の名が、どこにもない」


ユーグは自分の指を、樽の側板の端に置いた。ちょうど、自分の樽なら〈H・レナール〉を彫るところだ。


「名を彫っておけば、どこへ行っても戻ってくる」


去年の冬、この人が言った言葉だった。あのときは、差し押さえられた樽の話をしていた。名が彫ってあれば、売られても、流れても、いつか誰かが「これは誰の樽だ」と言う。だから彫るのだと。


父親も樽師で、同じ字を彫っていた。潰れるときも彫っていた。そこまで聞いて、あとは訊かなかった。


「戻ってきませんでした」


「これは戻らん。名がないからだ」


「ですが、名がないと分かるのは、樽を見た者だけでございます」


「見せればいい」


「どなたに」


「腹を見ない奴に見せても、しょうがない」


「王都の店の客は、百人に一人しか見ないそうでございます」


「一人が見りゃいい」


「一人でございますか」


「一人が言えば、九十九人が聞く」


    ◇


そのとき、頭の中で何かが順番を変えた。


札は真似できる。〈クレールの白〉と墨で書くだけだ。焼き印も、そのうち真似される。鍛冶に頼めば鉄はできる。名前は、いくらでも写せる。


去年の秋、公爵家の応接間で、こちらの十二年が趣味と呼ばれた。あのとき腹が立ったのは、呼び方そのものではなかったと思う。呼んだ人が中身を一度も見ていなかったからだ。


見ない者に、何を見せるか。それがずっと分からなかった。


写せないものが二つある。


一つは、樽だ。誰が作ったか、どの木で作ったか、どこを焦がしたか。腹に彫られた名と、板の合わせ方と、箍の締め方。写そうとすれば、その樽師になるしかない。


ならないなら、真似た樽はどこかが違う。違いは、並べれば見える。並べなければ見えない。


もう一つは、中身だ。五つの村を合わせた味は、五つの村を持っていなければ作れない。


「見せる相手を、間違えておりました」


「誰にだ」


「組合に見せておりました。あちらは、中身を検めない役でございます」


「じゃあ、誰に見せる」


「飲む者に、でございます」


昼過ぎ、宿場から荷が来た。


荷の中に、封書が一通まぎれていた。差出人の名を見て、しばらく指が止まった。


リゼット・マルソー。


去年の冬に一度だけ谷へ来て、谷の酒を一杯飲んで帰った人だ。あれきり便りはなかった。峠が塞がる前の日に来て、塞がる日に発った。絹の靴で蔵の入口に立っていた。


——お久しゅうございます。


——王都で、あなたの名前の酒を見ました。銀貨三枚の札が立っておりました。飲んでみましたが、あれは違いますね。


——わたし、毛織の家の娘です。おなじことが、うちの商いでは二十年前にありました。


——そのときどうしたか、書いておきます。


——毛織は、布の端を「耳」と申します。うちの家は、耳のところに三本の筋を織り込みました。真似はされました。ですが、真似をするには織り機を替えねばなりません。替えられない者は、真似ができませんでした。


——それより効いたのは、買う側です。うちの父は、王都の仕立屋を一軒ずつ回って、耳を見せて歩きました。二年かかったそうです。


——見せて回ると、買う人が目利きになります。目利きになった人は、あとから安いものを持ってこられても、もう買いません。


——余計なことを書きました。お返事は要りません。


    ◇


紙を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。


字がきれいだった。ああいう字は、書くことを仕事にした家でしか育たない。


去年、この人は蔵の入口に絹の靴で立って、「あなた、悔しくないの」と訊いた。あのとき、こちらは悔しいと思う暇に澱を引かねばならないと答えた。


二年かかったそうです、と書いてある。


こちらも二年だった。


    ◇


夕方、村の広場で話をした。


集まったのは十人ばかりだ。ギヨームと、ロズリーヌと、ミオの若い衆と、あとは畑仕事の帰りに寄った者たちだった。


「王都へ参ります」


「王都へ?」ギヨームが言った。「この時期にですか」


「峠が塞がる前に出れば、戻れます」


「行って、どうなさる」


「店を回ります。うちの樽を一つ持って、あちらの樽と並べて、飲み比べていただきます」


「そんなことで、何か変わりますかね」


「変わらないかもしれません」


ロズリーヌが鼻で笑った。


「変わらないかもしれないのに、行くのかい」


「行かなければ、区別がつきません。区別がつかないと、いちばん安いものの値で買われますので」


誰も何も言わなかった。ミオの若い衆が、地面を靴の先で擦った。


「……うちのが、いちばん安く買われてきたんだ」


「はい」


「行ってこいよ」


それだけ言って、若い衆は先に帰っていった。ギヨームが、その背中を見送ってから咳払いをした。


「荷車は、うちのを出します」


「宿場までで結構でございます」


「宿場までです。その先は道が違いますので」


マノンには、そのあとで言った。井戸のところで、桶を提げたまま立っている娘に、正面から言った。


「王都へ、ご一緒していただきます」


「え」


「明後日の朝に出ます。宿場で一泊して、馬車で二日でございます」


「あたし?」


「マノンです」


娘は、桶を地面に置いた。置いてから、また持ち上げた。持ち上げてから、もう一度置いた。


「なんで、あたし」


「帳面を持っていきます。持っていく者が要ります」


「持つだけなら、誰でもできるじゃん」


「中身を読める者が、二人しかおりません」


マノンは、井戸の縁に腰を下ろした。下ろして、しばらく足の先を見ていた。


「……あたし、谷から出たの、宿場までしかない」


「存じております」


「王都の人と、しゃべれない」


「しゃべらなくてかまいません」


「じゃあ、何すんの」


「並べます。うちの樽と、あちらの樽を」


娘は顔を上げた。


「並べて、どうすんの」


「飲んでいただきます」


「飲んで、まずいって言われたら」


「そのときは、まずいのでございます」


「困るじゃん」


「困りますが、分かります」


    ◇


その夜、工房へ寄った。


ユーグは、荷に積む小樽を選んでいた。頼んでいないのに、もう三つ床に並べてある。どれも腹に〈H・レナール〉が彫ってある。


中身は今年の二十樽と同じ酒だ。二十樽から少しずつ分けて詰めた。同じ味でなければ、持っていく意味がない。


「三つも要りません」


「一つは道で割れる」


「二つでよろしいのでは」


「一つは飲まれる」


「どなたが飲まれます」


「あんただ」


そういうものらしい。


「宿場までは送る」


「ありがとうございます」


「その先は、行かん」


「はい」


彼は樽を布でくるみはじめた。くるみながら、一度だけ手を止めた。


「誰と行く」


「マノンと参ります」


ユーグは、うなずきもしなかった。うなずくかわりに、布をもう一枚出してきて、樽の角に当てた。角が割れると、腹の彫りまで裂けることがあるのだそうだ。

樽は、作った者の癖が全部出ます。板の合わせ方、箍の締め方、内側をどこまで焦がすか。木の産地まで分かる人がいます。


札は真似できます。焼き印も、そのうち真似されます。樽を真似するには、その樽師になるしかありません。


——毛織の家では、布の端に三本の筋を織り込んだそうです。効いたのは筋そのものより、それを二年かけて見せて回った人のほうでした。次は、その真似をしに王都へ行きます。

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