↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/32

第29話 値が下がる

初冬の市は、月に二度立つ。


去年の冬、はじめて谷の酒を持っていった市だ。あのときは一樽半で銅貨二百三十枚になった。荷車を引いて帰る道で、マノンが一枚ずつ数え直していた。数え終わるたびに数が変わるので、峠を越えるまでに四度数えた。


市は街道の交わるところに立つ。板を渡した台が二十ばかり並んで、片端が食い物、真ん中が布と道具、風下の端が酒と酢だ。


今年は、二樽持っていって、百四十枚だった。


数が増えて、金が減った。


売れるには売れた。ただ、値を訊かれるたびに、こちらが先に下げた。下げていくうちに、朝に決めていた値の半分になった。


「なんで」


マノンが荷台の縁に座って、袋を膝に載せている。中を覗いて、また閉じた。


「安いところに、値が寄りますので」


「うちの酒、去年より良くなってるじゃん」


「良くなっております」


「じゃあ、なんで安いの」


「良し悪しで決まるものではないからでございます」


「じゃあ、何で決まんの」


「名前でございます」


「名前、あるじゃん。あたしが書いたじゃん」


「ございます。ですが、同じ名前が、もう一つございます」


「取り返せないの」


「取り返せません」


「ふうん」


マノンは、袋を荷台に置いた。置いた音が、去年より軽かった。


はじめに値を下げさせたのは、宿の主人だった。去年、いちばん先に器を出してきた人だ。


「〈クレールの白〉だろう」


「はい」


「王都じゃ三枚だって聞いたよ」


「うちのものではございません」


「違うって言われてもねえ。おんなじ名前じゃないか」


「樽の腹に、印が押してございます」


主人は身をかがめて、樽の腹を覗きこんだ。覗きこんで、〈クレール〉の四文字を指でなぞった。


「なるほどね。焼いてある」


「はい」


「けど、あたしがこれを客に説明するのかい」


「毎晩、お話しになる必要はございません」


「じゃあ、どうすんだい」


「一度、飲み比べていただければ足ります」


「並べる樽が、うちにゃないよ」


返す言葉がなかった。この人は、酒を売るのが仕事ではない。宿で客に出すために樽を買う人だ。


「六枚にしとくれよ。それなら、春に樽で二つ入れる」


九枚の書付を交わした酒だ。宿場で六枚と言われれば、六枚が値になる。返事はしなかった。返事をしなければ、値はまだ決まらない。


名前が同じものは、同じものとして扱われる。同じものの中で高いほうは、ただ高いというだけの理由で選ばれない。


板の前で、二樽ぶんを杯で売り切るのに、去年の倍の時間がかかった。


    ◇


谷へ戻って三日後、ヴェルヌのティボーが来た。


雪の前に一度、村を降りてくるのが習いだ。今年は、ジュールを連れていなかった。


「奥さん。樽を売ろうと思ってる」


「六つの樽でございますか」


「六つのうち、四つだ」


夏の書付で渡した樽だ。中身が入っていて、一つ 銀貨七枚から八枚になる。四つ売れば三十枚近くになる。


「冬の入用でございますか」


「屋根だ。去年の雪で、母屋の梁が下がった。持たん」


「直さねばなりません」


「直す。だから売る」


「四つで、足りますか」


「足りる。梁を二本入れて、板を張り替えるだけだ」


「では、二つで足りるのではございませんか」


ティボーは、そこで初めて目をそらした。


「……二つは、置いておきたい」


「置いておくと」


「春に、値が戻るかもしれん」


この人は去年、借財のかたに樽を押さえられた人だ。押さえられて、こちらが値をつけ直して、前金で借財を返した。返してもらった側は、次に借りるのが怖い。怖いから、借りずに売る。


村八軒の奥の村で、冬は雪で道が塞がる。塞がってから梁が落ちれば、春まで誰も来ない。


    ◇


「どちらへ、お売りになりますか」


「宿場だ。ルーセル商会が、今年は谷の樽を集めてる」


指が、荷車の柄を握り直した。


「集めている、と申されますと」


「あそこの手代が、村を回ってるんだ。樽ごと預かる、値がついたら払う、と」


「預かるのでございますか。買うのではなく」


「そう言ってた。売るより高くなるかもしれんとさ」


ジャコブの顔が浮かんだ。若いのに、荷の紐を締める指だけは年寄りのように無駄がない男だ。


「預けた樽の帳面は、どうなっておりますか」


「向こうが書く」


「こちらは」


「こっちは、何も書かん」


「書いていただけませんか」


「何をだ」


「いつ、いくつ、どの樽を預けたか。腹に何が彫ってあるかも」


「そんなもん、書いてどうする」


「あとで、要ります」


ティボーは、面倒くさそうに肩を回した。それでも、断らなかった。


「字は、うちの子が書く」


「ジュールさんは、書けますか」


「数は書ける。字は半分だ」


「半分あれば足ります」


その日の夕方、アニエスは仕込み帳に新しい行を作った。


〈預けた樽〉と書いて、下に線を引いた。書くことがなくても、行だけは先に作っておく。あとから作る行は、たいてい間に合わない。


マノンが覗きこんできた。


「なにこれ」


「谷から出ていった樽を、書いておく行でございます」


「うちの樽、出てってないよ」


「まだ出ておりません」


「出るの?」


「出るかもしれません」


「出たら、どうなるの」


「分かりません。分からないので、書いておきます」


マノンは、行の下の白いところを指でなぞった。なぞってから、手を引っこめた。炭の指で触れば、そこに跡がつく。


    ◇


宿場から回ってきた荷に、もう一通、手紙が入っていた。


差出人の名を見て、しばらく開けなかった。


ピエールと書いてある。ドレニエ家の若い蔵人で、去年の冬に蔵頭になった男だ。音を数えられる唯一の者だった。字は下手で、行が右へ下がっていく。


——奥様。ご無沙汰しております。蔵は動いております。


——今年の黒は、四十樽のうち二十六樽になりました。去年より減りましたが、去年より薄くはございません。


——ロランさんの覚書は、二十三枚とも読みました。十四枚目から先が、いまはまだ分かりません。


——南の段は、売らずにおります。


——旦那様が、売るかどうかを一度お尋ねになりましたので、二年待ってくださいと申し上げました。


——二年で戻らなければ、そのときは私の見立て違いでございます。


——マノンさんという方に、よろしくお伝えください。奥様が弟子をお取りになったと、旦那様から伺いました。


    ◇


紙を持ったまま、しばらく座っていた。


二十六樽。四十樽あった年から十四樽落ちた。落ちたが、薄くはないという。薄くないというのは、量を欲張らなかったということだ。欲張らずに減らすのは、蔵頭にとっていちばん怖い判断になる。


二年待ってくださいと、あの子は言ったらしい。


蔵頭が主人に二年待てと言うのは、ずいぶん大きな口だ。言えるようになったのだと思った。去年の冬、蔵の石段の下で、この子は何も言えずに立っていた。


こちらも、二年だった。


同じ数を、別の場所で二人が数えている。数えていることを、向こうは知らない。知らないままでいいと思った。


返事は書かなかった。書けば、あの子は次から書きやすくなる。書きやすくなれば、困ったときに書いてくる。困ったときに書いてこられても、こちらにできることは一つもない。


    ◇


工房の前を通ると、ユーグが戸口で火を焚いていた。


樽の内側を焼いている。焼きの強さで酒の味が変わる。去年の冬、この人が一晩中そんな話をしていたことがあった。あのときは長いとしか思わなかった。


火の色を見ながら、頃合いで外して、また戻す。戻す間隔が短くなってきたら仕上げが近い。分かるようになったのは、去年の冬、凍りかけた樽を二人で抱えた夜からだ。


「二樽で、百四十でした」


ユーグは火から目を離さなかった。


「去年は一樽半で二百三十だ」


覚えている人だった。


「はい」


「そうか」


それきり黙った。火が跳ねて、木の粉が舞い上がった。


慰めない人だった。去年、雹で畑が半分落ちた日も、この人は何も言わなかった。言わずに、翌朝、樽を一つ置いていった。


しばらくして、彼は樽を火から外し、内側を覗きこんだ。


「樽は」


「はい」


「谷の樽は、いくつ出た」


「ヴェルヌが、四つ売ると申しております」


「どこへ」


「宿場のルーセル商会へ、預けると」


「預ける」


「はい」


「樽は、預けるものじゃない」


ユーグは、樽を横に倒した。倒して、腹を上に向けた。腹には〈H・レナール〉と彫ってある。


それ以上は何も言わなかった。

同じ名前の品が二つあると、値は安いほうへ寄ります。高いほうが良い品でも寄ります。買う人は、二つを並べて比べているのではなく、名前を見て値を見ているだけだからです。


去年の倍の時間をかけて、去年の六割の金になりました。


——ヴェルヌの樽が四つ、宿場へ出ます。預かるのであって買うのではない、というのが今年の言い方だそうです。次は、その樽の腹に何が彫ってあるかという話です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。