第29話 値が下がる
初冬の市は、月に二度立つ。
去年の冬、はじめて谷の酒を持っていった市だ。あのときは一樽半で銅貨二百三十枚になった。荷車を引いて帰る道で、マノンが一枚ずつ数え直していた。数え終わるたびに数が変わるので、峠を越えるまでに四度数えた。
市は街道の交わるところに立つ。板を渡した台が二十ばかり並んで、片端が食い物、真ん中が布と道具、風下の端が酒と酢だ。
今年は、二樽持っていって、百四十枚だった。
数が増えて、金が減った。
売れるには売れた。ただ、値を訊かれるたびに、こちらが先に下げた。下げていくうちに、朝に決めていた値の半分になった。
「なんで」
マノンが荷台の縁に座って、袋を膝に載せている。中を覗いて、また閉じた。
「安いところに、値が寄りますので」
「うちの酒、去年より良くなってるじゃん」
「良くなっております」
「じゃあ、なんで安いの」
「良し悪しで決まるものではないからでございます」
「じゃあ、何で決まんの」
「名前でございます」
「名前、あるじゃん。あたしが書いたじゃん」
「ございます。ですが、同じ名前が、もう一つございます」
「取り返せないの」
「取り返せません」
「ふうん」
マノンは、袋を荷台に置いた。置いた音が、去年より軽かった。
はじめに値を下げさせたのは、宿の主人だった。去年、いちばん先に器を出してきた人だ。
「〈クレールの白〉だろう」
「はい」
「王都じゃ三枚だって聞いたよ」
「うちのものではございません」
「違うって言われてもねえ。おんなじ名前じゃないか」
「樽の腹に、印が押してございます」
主人は身をかがめて、樽の腹を覗きこんだ。覗きこんで、〈クレール〉の四文字を指でなぞった。
「なるほどね。焼いてある」
「はい」
「けど、あたしがこれを客に説明するのかい」
「毎晩、お話しになる必要はございません」
「じゃあ、どうすんだい」
「一度、飲み比べていただければ足ります」
「並べる樽が、うちにゃないよ」
返す言葉がなかった。この人は、酒を売るのが仕事ではない。宿で客に出すために樽を買う人だ。
「六枚にしとくれよ。それなら、春に樽で二つ入れる」
九枚の書付を交わした酒だ。宿場で六枚と言われれば、六枚が値になる。返事はしなかった。返事をしなければ、値はまだ決まらない。
名前が同じものは、同じものとして扱われる。同じものの中で高いほうは、ただ高いというだけの理由で選ばれない。
板の前で、二樽ぶんを杯で売り切るのに、去年の倍の時間がかかった。
◇
谷へ戻って三日後、ヴェルヌのティボーが来た。
雪の前に一度、村を降りてくるのが習いだ。今年は、ジュールを連れていなかった。
「奥さん。樽を売ろうと思ってる」
「六つの樽でございますか」
「六つのうち、四つだ」
夏の書付で渡した樽だ。中身が入っていて、一つ 銀貨七枚から八枚になる。四つ売れば三十枚近くになる。
「冬の入用でございますか」
「屋根だ。去年の雪で、母屋の梁が下がった。持たん」
「直さねばなりません」
「直す。だから売る」
「四つで、足りますか」
「足りる。梁を二本入れて、板を張り替えるだけだ」
「では、二つで足りるのではございませんか」
ティボーは、そこで初めて目をそらした。
「……二つは、置いておきたい」
「置いておくと」
「春に、値が戻るかもしれん」
この人は去年、借財のかたに樽を押さえられた人だ。押さえられて、こちらが値をつけ直して、前金で借財を返した。返してもらった側は、次に借りるのが怖い。怖いから、借りずに売る。
村八軒の奥の村で、冬は雪で道が塞がる。塞がってから梁が落ちれば、春まで誰も来ない。
◇
「どちらへ、お売りになりますか」
「宿場だ。ルーセル商会が、今年は谷の樽を集めてる」
指が、荷車の柄を握り直した。
「集めている、と申されますと」
「あそこの手代が、村を回ってるんだ。樽ごと預かる、値がついたら払う、と」
「預かるのでございますか。買うのではなく」
「そう言ってた。売るより高くなるかもしれんとさ」
ジャコブの顔が浮かんだ。若いのに、荷の紐を締める指だけは年寄りのように無駄がない男だ。
「預けた樽の帳面は、どうなっておりますか」
「向こうが書く」
「こちらは」
「こっちは、何も書かん」
「書いていただけませんか」
「何をだ」
「いつ、いくつ、どの樽を預けたか。腹に何が彫ってあるかも」
「そんなもん、書いてどうする」
「あとで、要ります」
ティボーは、面倒くさそうに肩を回した。それでも、断らなかった。
「字は、うちの子が書く」
「ジュールさんは、書けますか」
「数は書ける。字は半分だ」
「半分あれば足ります」
その日の夕方、アニエスは仕込み帳に新しい行を作った。
〈預けた樽〉と書いて、下に線を引いた。書くことがなくても、行だけは先に作っておく。あとから作る行は、たいてい間に合わない。
マノンが覗きこんできた。
「なにこれ」
「谷から出ていった樽を、書いておく行でございます」
「うちの樽、出てってないよ」
「まだ出ておりません」
「出るの?」
「出るかもしれません」
「出たら、どうなるの」
「分かりません。分からないので、書いておきます」
マノンは、行の下の白いところを指でなぞった。なぞってから、手を引っこめた。炭の指で触れば、そこに跡がつく。
◇
宿場から回ってきた荷に、もう一通、手紙が入っていた。
差出人の名を見て、しばらく開けなかった。
ピエールと書いてある。ドレニエ家の若い蔵人で、去年の冬に蔵頭になった男だ。音を数えられる唯一の者だった。字は下手で、行が右へ下がっていく。
——奥様。ご無沙汰しております。蔵は動いております。
——今年の黒は、四十樽のうち二十六樽になりました。去年より減りましたが、去年より薄くはございません。
——ロランさんの覚書は、二十三枚とも読みました。十四枚目から先が、いまはまだ分かりません。
——南の段は、売らずにおります。
——旦那様が、売るかどうかを一度お尋ねになりましたので、二年待ってくださいと申し上げました。
——二年で戻らなければ、そのときは私の見立て違いでございます。
——マノンさんという方に、よろしくお伝えください。奥様が弟子をお取りになったと、旦那様から伺いました。
◇
紙を持ったまま、しばらく座っていた。
二十六樽。四十樽あった年から十四樽落ちた。落ちたが、薄くはないという。薄くないというのは、量を欲張らなかったということだ。欲張らずに減らすのは、蔵頭にとっていちばん怖い判断になる。
二年待ってくださいと、あの子は言ったらしい。
蔵頭が主人に二年待てと言うのは、ずいぶん大きな口だ。言えるようになったのだと思った。去年の冬、蔵の石段の下で、この子は何も言えずに立っていた。
こちらも、二年だった。
同じ数を、別の場所で二人が数えている。数えていることを、向こうは知らない。知らないままでいいと思った。
返事は書かなかった。書けば、あの子は次から書きやすくなる。書きやすくなれば、困ったときに書いてくる。困ったときに書いてこられても、こちらにできることは一つもない。
◇
工房の前を通ると、ユーグが戸口で火を焚いていた。
樽の内側を焼いている。焼きの強さで酒の味が変わる。去年の冬、この人が一晩中そんな話をしていたことがあった。あのときは長いとしか思わなかった。
火の色を見ながら、頃合いで外して、また戻す。戻す間隔が短くなってきたら仕上げが近い。分かるようになったのは、去年の冬、凍りかけた樽を二人で抱えた夜からだ。
「二樽で、百四十でした」
ユーグは火から目を離さなかった。
「去年は一樽半で二百三十だ」
覚えている人だった。
「はい」
「そうか」
それきり黙った。火が跳ねて、木の粉が舞い上がった。
慰めない人だった。去年、雹で畑が半分落ちた日も、この人は何も言わなかった。言わずに、翌朝、樽を一つ置いていった。
しばらくして、彼は樽を火から外し、内側を覗きこんだ。
「樽は」
「はい」
「谷の樽は、いくつ出た」
「ヴェルヌが、四つ売ると申しております」
「どこへ」
「宿場のルーセル商会へ、預けると」
「預ける」
「はい」
「樽は、預けるものじゃない」
ユーグは、樽を横に倒した。倒して、腹を上に向けた。腹には〈H・レナール〉と彫ってある。
それ以上は何も言わなかった。
同じ名前の品が二つあると、値は安いほうへ寄ります。高いほうが良い品でも寄ります。買う人は、二つを並べて比べているのではなく、名前を見て値を見ているだけだからです。
去年の倍の時間をかけて、去年の六割の金になりました。
——ヴェルヌの樽が四つ、宿場へ出ます。預かるのであって買うのではない、というのが今年の言い方だそうです。次は、その樽の腹に何が彫ってあるかという話です。




