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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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第28話 先に名乗った者

手紙を書くのに、三日かかった。


一日目は、何を書けばいいのかが分からなかった。二日目は、書いたものが長すぎた。三日目に、ようやく十四行になった。


十二年、蔵の帳面しか書いたことがない。帳面に書くのは日付と数と、その日の寒さだけだ。知らない人に向けて字を並べるというのは、まるきり別の仕事だった。


——クレール谷の五つの村で作りました酒に、〈クレールの白〉と名をつけております。


——名をつけましたのは、今年の春でございます。


——王都サンドル通りの店に、同じ名の札の立った樽がございました。中身は、当方の酒ではございません。


——当方の樽には、腹に〈クレール〉の焼き印を押してございます。


こういうことを、こういう順で書けばいいのかどうかも分からない。分からないまま書いた。


書いてから、二度読み返して、一行だけ消した。「困っております」と書いた行だ。困っているのは事実だが、困っていることは相手の知ったことではない。困っていると書けば、その一行のぶんだけ、こちらの言い分が薄まる気がした。


マノンが横で覗きこんでいた。読める字が増えたので、覗きこむ回数も増えている。


「これ、誰に出すの」


「王都の、酒商組合という所でございます」


「その人たち、うちのこと知ってんの」


「知りません」


「知らない人に手紙出して、どうなるの」


「分かりません」


「分かんないのに出すの?」


「出さなければ、何も起きません」


「出しても起きないかもよ」


「そのときは、出したことだけが残ります」


マノンは、それ以上訊かなかった。訊かないかわりに、封を閉じるところを最後まで見ていた。


    ◇


宿場から出して、返事が来るまで十八日かかった。


そのあいだ、谷は静かではなかった。噂は歩くのが速い。二十樽が九枚で引き取られたことは伝わり、そのあとに続けて、来年の話が危ういという半端な話も伝わった。


ミオの若い衆が、二度、北の部屋の外まで来た。二度とも、何も言わずに帰った。訊きたいことがあって来て、訊いても答えが出ないと分かって帰ったのだと思う。


谷の者は、待つことに慣れている。葡萄も麦も、待たなければ何も出ない。ただ、待っているあいだに何が起きているのか分からないというのは、待つのとは別のことだった。


アニエスは、いつもどおりに北の部屋へ降りた。母の泡を見て、樽の腹に耳を当てて、帳面に日付と音の間隔を書いた。書くことは十八日のあいだ一日も欠けなかった。


十八日目の午後、宿場の荷にまぎれて封書が届いた。


封は厚くない。中身は一枚きりだった。


    ◇


——王都酒商組合 産地帳方 セヴラン・ドラエ


署名が先に目に入った。産地帳方という役があるらしい。


——お尋ねの件、承りました。


——〈クレールの白〉の名は、本年三月、フォンテーヌ商会の申し出により産地帳へ記載しております。記載の際、当該の名を用いる者が他にある旨の申し出はございませんでした。


——産地帳は、先に名乗り出た者の名を記します。作られた時期を問うものではございません。


——当方が中身を検めることはございません。検めるのは名のみでございます。


——以上、お含みおきください。


短い。丁寧で、冷たいところが一つもなくて、それでいて取りつく島がない。


「他にある旨の申し出はございませんでした」という一行を、二度読んだ。申し出るという道があったらしい。あったことを、今日はじめて知った。知らなかった者は、知らなかったというだけで負ける。


こういう手紙を、この人は何十年も書いてきたのだろう。書き慣れた者の文には無駄がない。無駄がないぶん、隙もない。


    ◇


アニエスは、紙を卓に置いて、しばらく座っていた。


日が傾いて、部屋の隅が暗くなった。灯りをつけようと思って、立ち上がって、また座った。


窓の外で、鶏を追う子どもの声がした。谷の夕方は、いつもこの音から始まる。


作った順は問わない。中身は検めない。


十二年、味だけを直してきた。薄ければ濃くし、渋ければ待ち、酸が立てば合わせた。手を入れれば、酒は必ず応える。応えないものは扱ったことがなかった。


紙は応えない。手を入れても、待っても、同じ行がそこにある。


戸口で音がして、マノンが入ってきた。手ぶらだった。この娘が手に何も持たずに来るのは珍しい。


「返事、来たんでしょ」


「参りました」


「読んで」


読んで聞かせた。読み終わっても、マノンは何も言わなかった。


「……検めないの?」


「検めないそうでございます」


「中身を見ないで、どうやって決めるの」


「名だけを見て決めるのだそうです」


「そんなの、決めてないじゃん」


そのとおりだった。そのとおりだが、そのとおりだからといって、帳面が書き換わるわけではない。


「あたし、王都行ったことない」


「わたくしもございません」


「奥さんなのに?」


「蔵から出ておりませんでしたので」


「王都って、遠いの」


「宿場から、馬車で二日だそうです」


「歩いたら?」


「歩く道ではございません」


マノンは、卓の紙を裏返した。裏は白いままだった。


    ◇


三日後、バルテル・クロヴィスが宿場に来ていると聞いた。


冬の前に街道を回るのだという。荷車を仕立てて、朝のうちに谷を出た。


宿場の宿の二階で、あの男は毛皮の襟の外套を椅子の背に掛けて待っていた。窓が街道に向いていて、下を通る荷を数えられる部屋だ。


去年、はじめて会ったときは、谷の卓で杯を傾けながら谷の酒を田舎の酸っぱい水と呼んだ男だ。


「座れ」


「はい」


「番頭から聞いた。組合へ出したそうだな」


「出しました」


「返事は」


「先に名乗った者のもの、と」


バルテルは笑わなかった。笑わずに、卓の上の杯を指で回した。


「二十樽は引き取った。九枚だ。約束は約束だ」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。俺は損をした」


    ◇


「店へ入れるのに、六枚にしか売れん。三枚の札が立っている棚で、九枚の酒は動かん」


「はい」


「差の三枚は、うちが持つ。今年だけだ」


二十樽で銀貨六十枚になる。損を出してまで書付を守る商人を、アニエスは見たことがなかった。


「来年は」


「来年は持たん」


そう言って、彼は杯を置いた。


「あんたに一つ訊く。あの三枚の酒を、俺が仕入れたらどうなると思う」


「安く仕入れて、高く売れます」


「そうだ。安く仕入れて、〈クレールの白〉として売れば、うちは儲かる。損を出す道理がない」


「あの酒は、どちらの酒でございますか」


「南だ。名のない谷がいくらでもある」


「その谷の者は、承知しているのでしょうか」


「知らんだろうな。売った先が何と札を立てるかまでは、誰も追わん」


「では、あの谷も、いちばん安い値で買われております」


「そうなる」


「なさいますか」


「やらん」


「なぜでございますか」


バルテルは、椅子の背に寄りかかった。椅子が鳴った。この男は、話の重いところへ来ると、必ず一度背をあずける。


「二十年、ドレニエの黒を引いてきた。誰が作っているかは知らんかった。それでも、あの酒が同じ味で毎年来ることだけは信じていた。信じられんようになったら、俺の商いは終わりだ」


言葉の途中で、この男が去年、谷の卓で「今年のドレニエの黒が、なぜか薄い」と言ったときと同じ顔をしているのに気づいた。あのとき、この人は理由を知らなかった。知らないまま、味が変わったことだけは正しく言い当てていた。


「三枚の酒を売る商人は、三枚の酒しか売れなくなる。俺は四十枚の棚が要る」


    ◇


窓の外で、荷車が二台、宿場の通りを抜けていった。冬の前の街道は混む。峠が塞がる前に荷を動かす者が集まるからだ。


「では、こちらの二十樽はどう売る」


バルテルが言った。


「区別が、つくようにいたします」


「どうやってだ」


「まだ、分かりません」


「二年しかないぞ」


「二年ございます」


男は、しばらくこちらを見ていた。値踏みする目つきだが、去年とは値踏みするものが違う。去年は酒を見ていた。いまは、こちらが二年で何をするかを見ている。


それから、卓の上に指を二本立てた。


「二つ教えてやる。一つ。組合の帳面は動かん。四十年、あの帳面を動かした奴を俺は知らん」


「はい」


「二つ。帳面が動かんでも、買う奴が変われば値は動く。買うのは組合じゃない。店だ。店に入れるのは俺だ」


「店の者に、区別を教えればよろしいのですか」


「教えられるならな」


「教えられぬものでしょうか」


「教えるのは骨が折れる。だが、覚えた奴は忘れん」


「四十枚の棚とは、王室の棚でございますか」


「そうだ」


「二年で、戻せますでしょうか」


「戻すのはあんただ。俺は運ぶだけだ」


指を下ろして、彼は外套を取った。話は終わりという合図だった。

産地帳というのは、名前を記す帳面です。中身を検める役ではありません。検めようとすると人手が要ります。人手が要るものは、たいてい、やらない決まりになります。


四十年つけている人が一人いて、その人が書くか書かないかを決めます。


——差の三枚は、今年だけ商会が持つそうです。来年は持ちません。次は、その差が谷でどう出るかという話です。ヴェルヌのティボーが、いちばん先に気づきます。

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