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離縁いたします。今年の葡萄酒は、どうぞご自分で  作者: 樫野かおる


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第27話 王都には、もう並んでいます

番頭が自分で谷まで来るというのは、よほどのことだと、あとになって聞いた。


アルヌーは五十がらみの小柄な男で、馬車を宿場に置いて、そこから荷車に乗り換えて来たという。荷台には小さな樽が一つだけ載っていた。二十樽の四分の一ほどの大きさで、片手で持てる。


「これを、お目にかけに参りました」


「王都からでございますか」


「サンドル通りの店で、買ってまいりました。銀貨三枚でございます」


晩秋の風が谷を降りてくる時期で、荷車の縁に薄く霜が残っていた。アルヌーは外套の前を合わせたまま、荷を下ろす者に指一本触れなかった。指図はする。手は出さない。そういう役の人らしい。


樽の腹には、何も焼かれていなかった。


かわりに、板の札が縄で結わえてある。札には墨で〈クレールの白〉と書いてあった。字は細い。細くて、整っていて、こちらの帳面の字とは似ても似つかない。


字を書き慣れた者の手だ。谷には、こういう字を書く者がいない。書けるようになったばかりの娘の字と、毎日字を書いて暮らしている者の字は、線の入りが違う。


    ◇


北の部屋へ下ろして、栓を抜いた。


石段は二十三段ある。数えて降りる癖は、いつのまにか身についていた。あちらの蔵の石段も二十三段で、最後の一段だけが少し高かった。ここの段は全部同じ高さだ。同じ高さの段は、数えなくても降りられる。


アルヌーは、抜くのを手伝わなかった。腕を組んで一歩下がり、こちらの手元だけを見ている。数字を読み上げる人の目つきだった。判断はしない。見るだけだ。


器に受けて、光にかざした。濁ってはいない。色が薄い。薄いというより、まだ何も乗っていない色だ。


酒の色は、置いた年数のぶんだけ深くなる。深くなるのは、澱が落ちて、上澄みが澄んで、そのあとで少しずつ黄が差してくるからだ。この酒には、その黄が一分も入っていない。


鼻を近づける前に、指を浸けて舐めた。


「若うございます」


「若い、と申しますと」


「今年の酒です。それも、搾ってひと月ほどのものかと」


「まだ二月も経っておりませんな。摘みは、どこも先月でございます」


「はい」


若い酒は角が立つ。角が立ったまま樽に詰めて、澱を引かずに出せば、こういう味になる。飲めないわけではない。飲めないわけではないが、二杯目が要らない。


去年の秋、応接間の卓に置かれていた樽を思い出した。澱を引くまであと十日あった酒だ。あれと同じことを、この人たちは知っていてやっている。知らずにやるのと、知っていてやるのとでは、どちらがたちが悪いのか、いまだに決めかねている。


「一つの畑の酒でございます」


「なぜ、お分かりに」


「合わせておりません。合わせた酒は、飲んだあとに二つ三つ残ります。これは、一つしか残りません」


アルヌーは、帳面を出した。


「では、順に申し上げます。奥様の二十樽は、四日前に王都へ着きました。荷は無事でございます。樽も割れておりません」


「ありがとうございます」


「ですが、店が引き取りを渋っております」


「値でございますか」


「値でございます。〈クレールの白〉は、店では銀貨三枚の酒でございますので」


そう言われるまで、そこまで届いていなかった。


二十樽を作ることばかり考えていた。作れば納まると思っていた。納めるところまでは考えたが、納めた先で誰がどう並べるかは、一度も考えたことがない。十二年、蔵の中だけを見て暮らしてきた者の抜け方だった。


札が先に立っている。ということは、王都の者にとって〈クレールの白〉とは、すでに銀貨三枚の酒のことだ。同じ名で九枚の樽を持っていっても、店は困る。困った店は、安いほうに合わせようとする。


「うちの樽には、印が押してございます」


「拝見しております。四つの字が焼いてございました」


「あれが、うちのものである印でございます」


「印は、札に勝ちません」


    ◇


アルヌーは、そこで初めて帳面を閉じた。


「奥様。王都で酒を買う者は、樽の腹を見ません。店の者が札を立てて、客はその札を読みます。樽は店の奥にあって、客は近寄りません」


「近寄れば、見えます」


「近寄る客が、百人に一人でございます」


腹が立った。腹が立ったが、この人は正しいことを言っている。正しいことを言う人に腹を立てても、何も動かない。


器の底に少しだけ残った酒を、指ですくって舐めた。二度目は一度目より薄く感じた。薄いのは酒のせいではない。こちらの舌が、もうこの酒に興味を失っている。


「主人からの伝言がございます」


「バルテル様の」


「二十樽は、書付どおり引き取る。銀貨九枚で引き取る。——ただし、来年の話をやり直したい、と」


「やり直す、と申されますと」


「二年後から毎年十樽、一樽 銀貨四十枚。あの書付でございます」


    ◇


その書付は、春の商談で交わしたものだ。


卓の上に五つの村の樽を並べて、値を一つずつ付け直した日だった。あのとき、二十年同じ蔵から仕入れてきた男が、生まれて初めてのように頭を使っていた。使わせたのはこちらだ。それだけは覚えている。


王室の棚へ入れる酒の話で、前金も受け取っている。ヴェルヌのティボーの借財は、その前金で返した。あれを反故にされれば、返した金は戻らないが、谷の先が消える。


「反故にすると申されますか」


「主人は、そうは申しておりません」


「では、なんと」


「王室の棚には、名の割れた酒は入らない、と」


——名の割れた酒。


言われてみれば、そのとおりだった。同じ名で、銀貨三枚の酒と四十枚の酒が並ぶ。並んだ時点で、四十枚のほうが疑われる。疑われた酒は棚に載らない。


王室の卓に出る酒は、味で選ばれるのではない。まず、出しても恥をかかない酒であることが要る。恥をかく見込みのあるものは、味を見る前に外される。十二年、ドレニエの黒がその棚にいられた理由も、たぶん半分はそれだった。


「二年ございます」


「はい。主人も、二年あると申しております」


「二年で、区別がつくようにいたします」


アルヌーは、はじめて表情を動かした。動かしたといっても、眉が少し上がっただけだ。


「どのように」


「分かりません」


「……分かりませんか」


「いま分かっておりますのは、名の割れた酒は、安いほうの値で買われるということだけでございます」


    ◇


日が暮れてから、アルヌーは宿場へ戻っていった。


戻る前に、北の部屋の入口で一度だけ足を止めた。中を覗きこんで、しばらく動かなかった。石の床に桶が並び、壺は棚の上にある。


「奥様。あの壺は」


「母でございます」


「ドレニエの蔵にあったものですな」


「はい」


「主人が、二十年、あの蔵から黒を引いておりました」


「存じております」


「わたくしは勘定しか見ませんが、勘定の上でも、去年から数が合わなくなりました」


それ以上は言わなかった。言わずに頭を下げて、荷車へ乗った。


村の広場へ戻ると、人が集まっていた。


荷車が来たと聞けば集まる。集まってしまえば、話は隠せない。ギヨームが前に立って、ロズリーヌが少し離れて立っていた。マノンは井戸の縁にいた。


二十日かけて摘んで、二十樽に印を押して、三日前に見送ったばかりだ。祭りのあとのような顔が、まだ残っている村だった。


「奥さん。あの人は、何を」


「王都に、うちの名前の酒が並んでいると」


「うちのが着いたんでしょう」


「別の酒でございます。うちのものではありません」


しばらく、誰も何も言わなかった。


「なんで、そんなことするんだよ」ミオの若い衆が言った。「勝手に名前を使って、何が嬉しいんだ」


「安く売れるからでございます」


「安く売って、儲かるのか」


「名前があると、同じ酒が高く売れます。三枚の酒が、五枚で売れます」


「じゃあ、うちのは」


「うちのは、九枚では売れなくなりました」


    ◇


ロズリーヌが、人の後ろから声を出した。


「訴えりゃいいだろ」


「どちらへ」


「王都の役所でも、組合でも、そういうところがあるんだろ」


「組合には、もう登録されております。この春に」


「あんたのほうが先に作ってるじゃないか」


「作った順は、帳面に書いてございません」


言ってから、自分の声が低くなっているのに気づいた。気づいて、少し息を入れた。


低い声で言えば、村の者は納得する。納得したところで、帳面の中身は一行も変わらない。


マノンが、井戸の縁から降りてきた。


「先に札を出したほうが勝つの?」


「そういう決まりだそうでございます」


「じゃあ、あたしの字は」


娘は、そこで言葉を切った。


切ったところで、こちらは何も言わなかった。言えることが一つも見つからなかったからだ。


水面に映して、息を止めて、四文字を書いた娘がいる。その字は二十樽の腹に焼いてあって、いまごろ王都の店の奥に積まれている。奥に積まれたものは、百人に一人しか見ない。

王都の酒屋では、樽は奥に置いてあります。客が見るのは店先の札で、樽の腹を覗きにいく人は百人に一人だそうです。


焼き印は、その百人に一人のために押します。


——組合の帳面には、名を先に書いた者が載ります。作った順ではありません。次は、その帳面を四十年つけている人の話を聞きに行きます。

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