第26話 二十樽
摘みは、トゥールから始まった。
夜明け前に村へ着くと、段の上にもう人がいた。ロズリーヌが先頭で、うしろに二十人ばかり並んでいる。村の家が二十軒だから、一軒から一人ずつ出したことになる。
「ずいぶん早くから」
「早いに決まってるだろ。うちの葡萄が樽に入るんだ」
「まだ入れておりません」
「入るんだよ」
ロズリーヌは籠を背負い直した。北向きの段は朝のうち日が回らない。指が冷たいまま摘むと、房を落としやすい。それでも、この村の者は一房も落とさなかった。
落とした房は拾えばいい。拾えばいいのだが、土に落ちた房は皮が破れる。破れた実から先に傷むので、混ぜる酒には使えない。そのことを、誰にも言わなかった。言わなくても落とさない村だった。
「奥さん。この段は、日が回るのが遅いんだよ」
「存じております」
「遅いから、うちの葡萄は酸っぱい」
「酸が要りますので」
「言ってろ。二十年、酸っぱいから安いって言われてきたんだ」
「今年から、酸っぱいから要ると言われます」
ロズリーヌは何も答えず、次の木へ移った。移った先で、若い者に何か短く指図していた。指図する声は、こちらへ向けたときより一段低い。
摘んだ葡萄は、その日のうちに荷車でラヴォーへ運ぶ。半日置くと味が変わる。変わってから搾ったのでは、五つの村を揃える話が成り立たない。
◇
サンス、ミオ、ラヴォー、ヴェルヌ。
順に回るのに、二十日ほどかかった。
そのあいだ、アニエスは一日も同じ場所で眠らなかった。摘む村に前の晩から入って、夜明けから摘んで、昼に荷車を出して、夕方から搾りにかかる。搾りはラヴォーの納屋でやった。北の部屋だけでは、とても足りない。
困ったのは母だった。世話を欠かせば三日で死ぬ。三日どころか、二十日のあいだ谷を歩き回るのだから、こちらの手はどうしても足りない。
「あたしが見る」
マノンがそう言ったのは、摘みの始まる前の晩だ。
「毎朝でございます」
「毎朝でしょ」
「雨の日も、寒い日もです」
「聞いてる」
「泡が上がらない朝がございましたら、走ってきてください。どこにいても」
「どこにいるか分かんないじゃん」
「摘んでいる村におります」
二十日のあいだ、走ってこなかった。走ってこなかったということは、毎朝、泡が上がっていたということだ。
ギヨームが自分の納屋を空けた。空けるとき、麦の袋を全部外へ出した。
「濡れませんか」
「濡れたら、うちの麦が濡れるだけです」
「雨が続けば、傷みます」
「傷んだら食います」
「四人のお子さんが」
「食いますよ、あれは何でも」
村長というのは、そういう言い方をする。言い方だけ聞いていると軽いが、麦の袋は納屋の外に十七ある。十七のうち一つでも駄目にすれば、冬に響く家だ。
◇
ヴェルヌの摘みで、ティボーが息子を連れてきた。
十三になるという。名はジュールといって、父親に似ず背が高い。樽のそばに来ては、腹を叩いて耳を当てている。誰かの真似だ。
「何をなさっているのですか」
「音を、数えてる」
「いくつになりました」
「……七つ」
「七つですか」
「ちがう。九つだった」
数え直したらしい。アニエスは、樽の腹に手を当てた。中では、酵母が糖を食っている。食いながら息を吐いている。音は途切れず続いていて、七つも九つもない。
「数えるものではありません」
「じゃあ、どうすんの」
「間を測ります。強く鳴った次に、どれだけ空くか」
「間って、どうやって測るの」
「息で数えます。吸って、吐いて、それを一つと数えます」
「そんなんでいいの」
「時計はございませんので」
ジュールは、もう一度耳を当てた。今度は長いこと動かなかった。
「三つ」
「はい」
「三つで、また鳴った」
「明日も測ってください。明日は、四つになっているはずです」
「なんで分かるの」
「間が空いていくのが、進んでいるということですので」
印が届いたのは、仕込みが一段落した日の夕方だった。
宿場の鍛冶が自分で荷車に載せて持ってきた。柄の長い鉄で、先に〈クレール〉の四文字が逆さまに出ている。持つと重い。片手では扱えない。
「一つ、押してみるかい」
「はい」
火を熾して、鉄を入れた。赤くなり、その赤が抜けて、麦の色に近づくまで待つ。待っているあいだ、誰も口をきかなかった。
樽の腹に押しつけると、白い煙が上がった。木が焦げる音がして、離すと、そこに字が残っていた。
押した手が、思っていたより震えた。震えたのは重かったからだと思うことにした。
〈クレール〉
線が太い。焦げが線のまわりに広がって、輪郭がわずかに滲んでいる。細い字なら消えていた。
「太い字で、ようございました」
鍛冶は答えなかった。答えるかわりに、鉄をもう一度火へ戻した。
「持ってきた甲斐があったよ」
「重うございますのに」
「重いから持ってきたんだ。荷に載せて寄越したら、誰かが試しに押しちまう」
◇
翌日、二十樽ぜんぶに押した。
五つの村から人が来た。摘みのときと同じ顔ぶれが、また同じ広場に集まった。誰が押すかで少し揉めた。揉めるだろうと思っていた。
「わたくしは、押しません」
「なんでだよ」ミオの若い衆が言った。「あんたが作ったんだろ」
「わたくしが作ったのではありません。この二十樽は、五つの村の葡萄でできております」
「じゃあ、どれがうちの樽なんだ」
「ございません」
若い衆が、口を開けたまま黙った。
「合わせておりますので、どの樽にもミオが入っております。サンスも、ラヴォーも、ヴェルヌも、トゥールも入っております。どれがどの村の樽かは、もう分かりません」
「じゃあ、押したって意味ないだろ」
「意味は、外の者が読みます」
「外の者ってのは」
「王都で、この樽を買う者です。その者に、この谷のものだと分かればよろしいのです」
ベルナールが、いちばん手前の樽に手を置いた。
「分からんでいい」
「はい」
「順に押そう。ぐるっと回して、二十で終わりだ」
◇
鉄は重かった。
一人が持ち上げて、押して、次の者へ渡す。渡すたびに火へ戻して、赤が抜けるのを待つ。二十樽を終えるのに、昼から日暮れまでかかった。
エマンが押した。押しながら、去年の弔いの話を誰にもしなかった。ティボーが押した。押す前に手のひらを膝で拭いた。
ジュールが押そうとして、重くて持ち上げられなかった。父親と二人がかりで押した。字が少し斜めになった。
「曲がった」
「曲がっております」
「押し直すか」
「押し直しません。一度焦げた木は、二度焦げると読めなくなります」
ロズリーヌが最後の一樽を押した。押してから、鉄を持ったまましばらく立っていた。
「あたしの村は、樽を持ってない」
「はい」
「持ってない村の婆が、樽に字を焼いた」
そう言って、彼女は鉄を桶の水へ突っこんだ。派手な音がして、湯気が上がった。
◇
荷が発ったのは、三日後の朝だった。
荷車が四台。二十樽と、ヴェルヌのティボーへ渡す六樽は別に積んだ。ティボーの樽には印を押していない。あれは書付の外の樽で、去年の借財の始末として渡すものだ。
「押さないのかい」ロズリーヌが訊いた。
「押しません。売る樽ではありませんので」
「売らない樽には、名前は要らないのかい」
「要ります。ですが、いま押すと、二十樽と同じものに見えます」
荷車が峠へ上がっていくのを、村の者が見送った。四台が順に坂を上がって、二台目が見えなくなり、三台目が見えなくなった。
マノンは井戸の縁に座って、いつまでも見ていた。見えなくなってからも座っていた。
「行っちゃったね」
「はい」
「あれ、あたしの字が焼いてある」
「二十樽ぜんぶにでございます」
「王都の人、読むかな」
「読みます」
「読めなかったら?」
「読める字でございます」
◇
その日の午後、宿場から手紙が回ってきた。
アルヌーの二通目だった。前より短い。
——お尋ねの件、店の者に確かめました。
——札を立てたのは、フォンテーヌ商会でございます。
——組合の帳面に、〈クレールの白〉として登録済みとのことでした。登録は、この春でございます。
この春。
まだ谷の酒に名前がついたばかりのころだ。名前をつけたのは第一の澱を引いた日で、あのとき谷の外で知っていた者は、クロヴィス商会のほかにいなかった。
焼き印は一度しか押せません。焦げた木にもう一度焼きを入れると、線が広がって字が読めなくなります。曲がったら、曲がったまま出すしかありません。
二十樽のうち一つは、字が少し斜めです。押したのは十三の子どもと、その父親でした。
——組合の帳面に登録されたのは、この春だそうです。谷の酒に名前がついたのが春の澱引きの日でしたから、順番だけを見れば、向こうのほうが早いことになります。




