第25話 字を焼く
型は、五日たっても字にならなかった。
工房の戸口で、ユーグが小刀を置いた。梨の板は、はじめに見たときより薄くなっている。彫っては削り、削っては彫り直しているらしい。
「なぜ、進まないのですか」
「字が要る」
「彫っておられるではありませんか」
「俺の彫れる字は、四つだ」
〈H・レナール〉。樽の腹に彫ってある、あの字だ。父も同じ字を彫っていたと、去年の冬に聞いた。
「四つ彫れれば、五つも彫れるのではありませんか」
「同じ字なら、彫れる。知らん字は、形が分からん」
「形は、書いてお見せすればよろしいですか」
「あんたの字か」
「はい」
「あんたの字は細い」
「細いと、いけませんか」
「焼くと太る。細い字は、押すと潰れる」
知らなかった。焼き印は鉄が熱いうちに押しつけるので、線のまわりが焦げて広がる。細い線は焦げに食われて消える。
板の上には、たしかに線が引いてある。だが、それは字ではなく、字の形をした何かだった。〈ク〉のつもりらしい線が、途中で迷って二つに割れている。
◇
アニエスは、北の部屋から仕込み帳を持ってきた。
一冊目はもう終わっていて、いまは二冊目を使っている。宿場で買った紙の帳面だ。前金が入ったので、麦の勘定用の粗い紙をやめた。
その表紙に、〈クレール〉と書いてある。
書いたのはマノンだ。買ってきた日、表紙を開いて何も書かずに置いておいたら、翌朝には書いてあった。何も言われなかったので、こちらも何も言わなかった。
字は太い。罫の中に収まりきらず、〈ル〉の足が下の行まではみ出している。
「これでは、いけませんか」
ユーグは帳面を受け取って、表紙を光のほうへ向けた。それから、しばらく黙っていた。
「これでいい」
「そうですか」
「これがいい」
言い直したので、アニエスは彼の顔を見た。ユーグは帳面を返してよこして、小刀を拾った。
「呼んでこい」
「マノンに書かせるおつもりですか」
「太い」
「それだけの理由でございますか」
「それだけだ」
それだけであるはずがない。この人は、樽の腹に自分の名を彫る人だ。
◇
マノンは、井戸で水を汲んでいるところを捕まった。
「あたし? なんで」
「字を、書いていただきたいのです」
「書いたじゃん。表紙に」
「もう一度、書いていただきます。今度は、板に」
工房まで来て、膝に板を載せられて、マノンははじめて事情を飲みこんだらしい。飲みこんだ顔をしてから、すぐに手を引っこめた。
「無理」
「なぜでしょう」
「だって、樽に焼くんでしょ。二十個に」
「二十個でございます」
「間違えたら、二十個ぜんぶ間違ってるんだよ」
そのとおりだ、と思った。この娘は、二十という数を先に想像している。
「二十個ぜんぶが王都へ行くんでしょ」
「参ります」
「王都の人が見るんでしょ」
「見ます」
「あんたが書きなよ」
「わたくしの字は細うございます」
「そんなの、太く書けばいいじゃん」
「太く書ける人がおりますので」
「間違えたら、彫り直します」
ユーグが言った。マノンは彼を見た。
「何回まで?」
「何回でも」
マノンは板をもう一度膝に載せて、こちらを見た。何か言ってほしそうな顔だった。
アニエスは何も言わなかった。褒めれば、この娘は次から褒められるために書く。
◇
もう一つ、面倒があった。
焼き印の型は、押したときに字が正しく出るように、彫るほうを逆に作る。ユーグがそれを説明するのに、指で板の上に何度も線を引いた。
「逆に書けってこと?」
「そうだ」
「そんなの、どうやんの」
「鏡を見る」
「うち、鏡なんかないよ」
工房にも、アニエスの家にもない。谷で鏡を持っている者は、たぶんいない。
マノンは、しばらく板を睨んでいた。それから、桶に水を汲んできて、床に置いた。水面に帳面の表紙を映して、そこを見ながら書きはじめた。
誰も教えていない。
書いている手は震えていた。〈ク〉を書いて、消して、また書いた。炭で書いては指で消すので、板の上が黒くなり、拭く袖も黒くなっていく。
途中で一度、手を止めて外へ出ていった。戻ってきたときには目の縁が赤かった。訊かれたくないから外へ出たのだと思う。
ユーグが灯りを持ってきて、板の脇に置いた。灯りを近づけると水面が揺れる。マノンは自分の息で揺れているのだと気づいて、それから息を止めて書くようになった。
日が傾くころ、ギヨームが戸口に立った。娘が帰ってこないので探しに来たらしい。
「うちの子が、何かご迷惑を」
「字を書いていただいております」
「字」
村長は工房へ入ってきて、床の桶と、水面と、板を順に見た。マノンは顔を上げなかった。
「奥さん。あれは、去年の秋まで自分の名も書けなかったんですよ」
「存じております」
「わたしは、書けなくてもいいと思ってました。畑をやるのに字は要らん。うちの上の三人も書けません」
「はい」
「要るもんですかね、字ってのは」
「二十樽に押します」
ギヨームは、しばらく板を見ていた。それから、こちらへ向き直った。
「二十樽ぜんぶにですか」
「二十樽ぜんぶにでございます」
「王都まで行くんですね」
「参ります」
村長は、それきり何も言わずに外へ出た。出ていく足音が、来たときより遅かった。
四文字を書き終えたのは、それからしばらく経ってからだった。
「……できた」
ユーグが板を持ち上げて、水面にかざした。水の中で、〈クレール〉と読めた。
「いい」
「ほんと?」
「押せば、こう出る」
マノンは板を受け取って、両手で持った。持ったまま、しばらく動かなかった。
「これ、消える?」
「彫る」
「彫ったら?」
「消えん」
炭は消える。彫った字は消えない。
◇
その夜、マノンは帰らずに北の部屋へ降りてきた。
樽の前にしゃがんで、腹に手を当てている。三年の樽ではなく、今年の仕込みに使う空樽のほうだ。
「あんたにも、そのうち字がつくよ」
樽に向かって言っていた。人には敬語を使わないのに、樽にだけは、少しだけ丁寧になる。
「二十個押したら、そのあとは」
「来年、また押します」
「毎年?」
「毎年でございます」
「ずっと?」
「ずっとでございます」
マノンは、樽の腹を手のひらで一度撫でた。
「マノン」
「なに」
「明日も来てください」
娘は立ち上がって、袖の黒いところを裏返した。裏返しても黒いままだった。
「べつに、来るけど」
出ていってから、アニエスは帳面を開いた。今日の日付の隣に、いつもの短い線が一本増えている。
数えているのは知っている。何を数えているのかも、たぶん分かっている。ただ、こちらから言うことではない。
◇
宿場の鍛冶へ木型を持っていったのは、その三日後だった。
鉄に写すには十日ほどかかるという。間に合わなければ、印のない樽を王都へ出すことになる。
鍛冶は木型を長く見てから、爪で表面を撫でた。
「彫ったのは樽師だな」
「はい」
「線の底が平らだ。樽師の刃は寝てるから、こうなる」
「押すのは、どういたせばよろしいですか」
「鉄を火に入れて、赤が抜けるまで待つ。麦の色になったころが押しどきだ」
「熱すぎると」
「焦げて字が太る。冷めすぎると入らん。横に水の桶を置いておけ」
「字を書いたのは、別の者でございます」
「そりゃ分かる。書いた奴と彫った奴は、たいてい別だ」
「分かりますか」
「線の曲がりが素人だ。曲がりが素人で、彫りが玄人。よくある取り合わせだよ」
そういうもので分かるらしい。人が触ったものには、触った人の癖が残る。
帰りに宿場の店へ寄ると、ルーセル商会の手代が声をかけてきた。ジャコブという若い男で、去年、ティボーの樽を押さえに来た男だ。
「奥さん。王都からの荷に、あんた宛てのが入ってましたよ」
「ありがとうございます」
「珍しいね。谷に手紙なんか」
「はい」
「〈クレールの白〉ってのは、儲かるのかい」
「まだ、搾ってもおりません」
ジャコブは笑って、荷の紐を締め直した。若いのに、指の動きだけは年寄りのように無駄がない。
◇
手紙は、クロヴィス商会の番頭からだった。
アルヌーという名は聞いたことがある。字は細かく、余計なことが一行も書いていない。
——秋の二十樽、承知いたしております。ついては一つ、お知らせしておくことがございます。
——先日、王都サンドル通りの店にて、〈クレールの白〉と札の立った樽を見ました。
——一樽、銀貨三枚で売られておりました。
アニエスは、手紙を持ったまま、荷車の縁に腰を下ろした。
今年の酒は、まだ一滴も搾っていない。摘みは来月だ。樽はまだ空で、印は鍛冶の火の中にある。
銀貨三枚。谷の酒は一樽 銀貨九枚で書付を交わしてある。三枚の酒が先に王都で名を名乗っていれば、九枚の酒はあとから来た偽物に見える。
順番というものがある。先に立った札のほうが本物に見える。それが正しいかどうかとは、何の関係もない。
焼き印の型は逆に彫ります。押したときに正しく出るようにするためです。鏡を使うのがふつうですが、鏡は高いので、水面を使う人もいます。桶に水を張って、覗きこんで書く。手元がゆらぐので、慣れないと書けません。
字を教えるとき、逆に書く話まではしませんでした。要ると思わなかったからです。
——王都サンドル通りの店で、一樽 銀貨三枚。うちの酒は、まだ搾ってもいません。次は、その札を誰が立てたのかを聞きに来る人の話です。




