第42話 摘みは、南からです
朝、ドラエは荷車の脇に立って待っていた。
外套の前を合わせて、荷はもう積んである。積んであるのは、今年の一樽だ。腹に〈クレール〉の焼き印と、〈H・レナール〉の彫りがある。
樽は、村の者が四人がかりで荷台へ載せた。載せるとき、腹を上に向けて置いた。誰も何も言わなかったが、そう置くものだと、この谷ではもう決まっている。
「お答えを伺います」
「お引き受けいたします」
「二年続けて味が違えば、消します」
「承知いたしました」
「よろしゅうございます」
彼は帳面を出そうとした。出そうとした手を、こちらが止めた。
「一つ、お願いがございます」
ドラエは、手を止めて待った。
「昨日、お書きくださった行でございます」
「〈クレール谷 五村 ヴァルネ〉でございますね」
「五村を、名で書いていただけませんでしょうか」
「名で」
「ラヴォー、サンス、ミオ、ヴェルヌ、トゥール。五つ、それぞれの名で」
彼は、少しのあいだ黙った。
「産地帳の行は、短いほうが読みやすうございます」
「存じております」
「五村と書けば、五つあることは伝わります」
「伝わります。ですが、区別がつきません」
言ってから、自分の言い方が去年の秋と同じであることに気づいた。あのとき、こちらは名前を売るのを断った。断った理由も、これと同じ一つだった。
谷の外に対して言ったつもりの言葉が、谷の内側にもそのまま当てはまる。トゥールの葡萄は酸っぱい。ミオの葡萄は強い。合わせれば区別がつかなくなる。つかなくなるから、名前が要る。
◇
広場に、村の者が出てきていた。
朝の畑仕事の前だ。手に鍬を持ったまま立っている者もいる。ギヨームがいて、ミオの若い衆がいて、ヴェルヌのティボーがいた。ティボーは屋根の梁を入れ終わったばかりで、まだ手に木の粉がついていた。
ロズリーヌは、いちばん後ろにいた。昨日から谷に泊まったらしい。
ドラエは、白い帳面を開いた。開いて、昨日の行に線を引いた。線を引くのに、定規を使わなかった。四十年、線を引いてきた者の手だ。
線を引いて、その下に書き直した。
〈クレール谷 ラヴォー サンス ミオ ヴェルヌ トゥール ヴァルネ〉
書き終えて、筆を置いた。
「長うございます」
「長うございます」
「この行を、王都で読む者がおります。読むのに、五つの村の名を読まねばなりません」
「読んでいただきます」
彼は、それ以上言わなかった。帳面を閉じて、荷車へ乗った。
荷車が動きだしてから、ロズリーヌが前へ出てきた。
「奥さん」
「はい」
「いま、うちの村の名を書いたね」
「書いていただきました」
「うちは、樽を一つしか持ってないよ」
「一つでございます」
老女は、荷車の後ろ姿を見ていた。荷車は峠へ上がっていく。轍が二本、雪解けの泥に残った。
しばらく見てから、鼻をすすった。寒いからだと言うだろうと思った。言わなかった。
「あたしの親の代に、消えたんだ」
「はい」
「消えたのは知ってた。載るとは思わなかったね」
「ロズリーヌさん」
「なんだい」
「うちの村の名は、いくらで載ったのかと、お訊きになりませんか」
「訊いたら、いくらだって言うんだい」
「値はついておりません」
「ただかい」
「ただでございます。かわりに、毎年、同じ味を出さねばなりません。二年続けて違えば、消されます」
老女は、外套の裾を払った。払ってから、峠のほうをもう一度見た。
「じゃあ、うちの葡萄も、毎年おんなじに摘まなきゃならないね」
「摘んでいただきます」
◇
山の畑へ登ったのは、その三日後だった。
残りの四列を起こす。冬のあいだに六列やったから、これで十列が全部片づく。二十年放ってあった段が、二年目の春に畑の形になる。
蔓を切って、根を掘り起こして、石を除ける。石は段の縁へ積む。積んだ石は、そのまま段の壁になる。
二十年放ってあった土は、上の一寸だけが柔らかい。その下は固い。固いところまで鍬を入れないと、根が下りない。根が下りない木は、夏の日照りで先に枯れる。
マノンが上の段にいた。下からは背中しか見えない。
「奥さん」
「はい」
「これ、終わったら、どうなるの」
「畑になります」
「畑には、もうなってるじゃん」
「段になります」
「段って、なに」
「畑に、順ができます」
「順?」
「どこから摘むかが決まります」
ジュールが来たのは、その日の昼過ぎだった。
ヴェルヌの雪が解けたらしい。谷の奥は、ほかの村より半月遅れて春になる。
十三が十四になっていた。背がまた伸びている。父親に似ず背が高い子だ。
「音、数えてきた」
「数えられましたか」
「冬のあいだ、ずっと。うちの樽で」
「間は、どうなりました」
「はじめは三つだった。真ん中で八つになって、いまは十二」
「よく数えられました」
少年は、少し胸を張った。張ってから、マノンのほうを見た。
「あんた、上手いね」マノンが言った。「あたし、最初、七つと九つで間違えた」
「知ってる。奥さんに聞いた」
「言ったの?」
「言いました」
娘が、こちらを睨んだ。睨んでから、鍬を担ぎ直した。
「じゃあ、あんた、下の列やって。石、そっちに積んで」
◇
三日目の夕方に、十列が片づいた。
段になった。上から数えて四つ目の段だ。畑の南側を向いている。谷では、日の当たる斜面を段に切る。切った段の数が、そのまま身代になる。
積んだ石の壁が、夕日で赤くなっていた。石を積むのに三日かかった。三日かけて積んだものが、これから何十年か、そこにある。
去年、この段には蔓が絡んでいた。いまは列が通っている。列の間隔は、下の段と同じにしてある。同じにしておくと、摘む者が迷わない。
マノンが、いちばん下の列に立った。
「これで、来年は」
「来年は、ここから摘みます」
「どこから?」
アニエスは、段の端を見た。
十二年、同じことを言ってきた。三度言って、一度も届かなかった。四度目は言うつもりがなかった。言うつもりがなかったのに、去年の春、言ってしまった。言ってしまって、返ってきた。
あれは、あちらの畑の話だ。
こちらの畑には、いま、はじめて段ができた。
「摘みは、南からです」
「南?」
「南の段からでございます。日の当たるところから熟しますので」
娘は、段の端まで歩いていって、そこに立った。
「ここ?」
「そこでございます」
「覚えとく」
「書いておいてください」
「書く」
◇
その夜、北の部屋へ降りた。
三年の樽の前に立つ。腹には〈アニエス〉の彫り、炭の「三」、その下に〈引き手 マノン〉。炭の字は掠れているが、まだ読める。
余白は、指三本ぶん残っている。
そこには、何も書かなかった。
炭は棚の上にある。手を伸ばせば届く。届くところに置いたまま、去年の秋から一度も使っていない。
「まだ、一年ございますので」
言ってから、誰もいないところで言ったのだと気づいた。マノンは帰っている。ジュールも帰った。
樽の腹に手を当てた。音がある。聞こえないくらいに、動いている。
戸口に、荷が置いてあった。
小さな荷だ。布でくるんである。置いた者は、名乗るものを何も入れていない。
ほどくと、木の板が一枚出てきた。梨の板だった。目の細かい、白っぽい木だ。焼き印の型を彫ったのと、同じ木だった。
板の上に、彫ってある。
〈クレール谷 ラヴォー サンス ミオ ヴェルヌ トゥール〉
字が太い。罫からはみ出したような、あの字だった。写したのだと思う。マノンの字を、そのまま彫ってある。
◇
翌朝、工房へ行った。
ユーグは板を削っていた。壁に樽が並んでいる。冬のあいだに作ったものだ。トゥールへ持っていった六つ目のあとも、手を止めていなかったことになる。
「板を、ありがとうございました」
「置いた」
「五つの村の名が、彫ってございました」
「読んだ」
「昨日の朝、書いていただいたばかりでございます」
「そうだな」
一日で彫れる字数ではない。書かれる前から彫っていたことになる。そのことは、訊かなかった。
壁の樽を数えた。六つあった。
「樽は、いくつ要る」
「今年は、二十六でございます」
「足りん」
「足りません。ミオとヴェルヌから買います」
ユーグは板を置いて、腰の後ろの布で手を拭いた。
「二十七、作る」
「二十六で足ります」
「二十七だ」
理由は言わなかった。
産地帳に載る行は、短いほうが読みやすいそうです。長くすると、読む人が五つの村の名を読まねばなりません。
読んでいただくことにしました。
——山の畑に、はじめて段ができました。摘みは南からです。二十六樽の書付があって、樽師は二十七作ると言いました。三年の樽の余白は、まだ指三本ぶん空いています。




