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「はあ……」


 何度書類を確認しても、騎士団の報告書も、領地からの報告書もない。勿論手紙もない。便りがないのは良い便りとも言うけれど。


「雨も、ずっと止まないわね……」


 テオを送り出した翌日から降り出した雨は、ディーネ王国全体に広がっているらしい。あの人が向かったアルデンベルグ領にも。


(雨の多い国だし、悪天候には慣れているはず。魔獣退治だって、彼は初めてではない……)


 そもそも、彼一人で戦っているわけではない。応援要請が来たからには大勢の騎士と共に向かっているはずだし、現地の私兵団もいる。魔獣に対しては複数人で連携して戦うのが定石と言われているらしく、彼一人が命の危険に晒されるなんてことはないはずなのだ。

 いくら不安材料を潰していっても、胸に巣食う暗い気持ちは消えない。ただひたすら無事を祈ることしかできない我が身がもどかしい。

 何度目かも分からないため息をついた時、部屋のドアがノックされた。


「奥様、お茶をお持ちしました」

「ありがとう、ソフィ」

「あと、アデライード様からお手紙です」

「アデラ様から?」


 手紙を受け取ると、柔らかな筆跡が目に入った。使われているシーリングスタンプも、間違いなくアデラ様のもの。ソフィが差し出したペーパーナイフで封を開ければ、ほのかに甘い香りがした。


「アデラ様からはなんと?」

「花が見頃だから、温室でお茶会を催すそうで。そのお誘いだわ」


 雨だからこそ、美しいものを見ることで気晴らしになれば。もちろん、無理にとは言わないけれど。優しさが滲む文面は、アデラ様の人柄がよく表れていた。


「あまり屋敷にこもってばかりもお体に良くないでしょうし、ご参加なさっては?」

「そうね……」


 窓から空を見上げた。雨は止む気配を見せないけれど、気心の知れた友人たちに会えば少しは明るい気持ちになれるかもしれない。


「……行くわ。返事を書くから、便箋を持ってきてくれる?」

「かしこまりました」


 なんとなく、アデラ様の言葉を指でなぞる。冷え切っている指先に、わずかに温かさが灯った気がした。




「今日も強い雨の中、お集まりいただきありがとう。美味しいお菓子もたくさん用意したから、ゆっくり楽しんでね」


 雨がガラスを叩く音が響き、透明な壁に雨粒が伝う温室。空はどんより暗いのに、朗らかに笑うアデラ様の周りは明るく見える。まるで太陽のような方だ。


「皆様に見せたかったのはこれよ、シクラメン。今年から植えてもらったの」


 案内するために歩き出したアデラ様の後をついていく。流石王家の温室と言うべきか、様々な品種のシクラメンが咲いていた。


「こんな真っ赤なシクラメンもあるのね……! 素敵!」

「ええ。リディアが好きそうだと思って選んだわ。ルイーゼはこちらの、上品な紫が好みじゃない?」

「よくお分かりですね。とても綺麗……」

「こちらの八重咲のシクラメンも美しいのよ」


 雨音に紛れるような、ささやかな会話。花の美しさを邪魔するまいとするような。穏やかに囁きあいながら、少し開けた空間に出た。カタリーナさんがお茶の準備をしているテーブル、その傍には白いシクラメンが咲いている。


「どのシクラメンも美しいけれど、やっぱり、花びらが白くて中心部がピンクに色づく品種は綺麗よね。透明感があって、儚くも凛としていて」


 テーブルに着きながら、アデラ様は木漏れ日のように柔らかく笑う。優しく照らす笑みが場を温め、つられるように私たちの顔も綻んだ。


「私はこの品種がとても好きだから、場所をここにしてもらったの。さ、お茶とお菓子を楽しみましょう?」


 注がれるお茶の香りが澄んだ空気の中に立ち上る。ティーカップから伝わる温もりと静かに包み込む植物の気配に、ほっと息をついた。


「もしかして、今日のスコーンは今王都で話題の店のものでは……?」

「あら、ルイーゼは目ざといわね。そうよ、買ってきてもらったの」

「何時間も並ぶというあの店のものなんですの?! これは味わっていただかなくては」

「スコーンもそうだけど、このクロテッドクリームも特製のものだそうよ」

「確かに、滑らかさが違うように感じます。美味しい……」


 アデラ様も、ルイーゼ様もリディア様も、きっと私の事情はご存じだろうに無闇に聞いてこない。ただ、美しいもの美味しいもの、優しい空間を共有してくださる。それが今は、とてもありがたかった。


「雨は女神様の恵みだと言うけれど、さすがにこうずっと降ってしまうと気が滅入るわね」

「そうですわね。我が領地は大きな川が通っているので心配もありますし」

「この時期の長雨は収穫にも響きますから……降らないのも困るけれど、降りすぎてしまうのもね」


 スコーンはふわりと温かく、割るとバターの甘い香りが広がる。クロテッドクリームをたっぷりのせて頬張れば、それはもう幸せの味。話題はどうしても最近の雨になってしまうけれど、雰囲気が暗くなりすぎないのはこの美味しさのおかげだろう。みんな思い思いにスコーンを味わっているせいか、話も途切れ途切れだ。


「秋は晴れていることのほうが多いからなんだか新鮮ですわね」

「そうね。庭の薔薇たちも、心なしか嬉しそうですもの」

「雨に濡れる薔薇も綺麗だけれど、そろそろ陽射しを浴びた薔薇が見たいですわ……」

「でも、アマリルの結婚式のときは晴れててよかったわね」


 つい、手が止まってしまった。


「ええ。とても良い式でした」

「陽射しを浴びた髪がきらきらしていて、とても美しかったわ。 テオドール様とアマリル様が並ぶ姿は、まるで絵画のようで……」


 あの人の名前を聞くだけで、胸がキュッとなる。私は今、微笑みを浮かべられているだろうか。何も言えず、自然と視線が下がってしまう。ティーカップの中の水面は、揺れていて何も映してくれなかった。


「……不安?」


 アデラ様の声はとても静かだった。だから素直に言える。深く、息を吐いた。


「不安です。……いくら慣れているとは言っても、戦場では何が起こるか分からない。いえ、魔獣退治を戦と同じように言うのは大袈裟かもしれませんけれど……」

「夫が傷付くかもしれない状況を不安に思うのは、おかしいことじゃないわ」

「そうでしょうか……」


 つい、視線は空を向く。降り止まぬ雨の中、戦っているだろうあの人を思う。口を開きかけては、何を言えばいいのか分からなくて閉じるを繰り返した。


「すみません、なんだか、言葉にならなくて」

「いいのよ、無理に話さなくて。あなたが話したいことだけを私たちは聞くわ」


 アデラ様の言葉に、ルイーゼ様とリディア様も微かな笑みを浮かべて頷いている。優しい沈黙。


「……不安です。心配で心配で、何も手につかない。ずっとどこかうわの空になってしまって」

「ええ」


 お茶はこんなに温かいのに、手は冷え切ったまま。


「何か私に出来ることがあればいいのにと思ってなりません。私は、あまりにも無力で……」

「それは、違うと思うわ」

「え?」


 思わず目を上げると、アデラ様と目が合う。春先の空のような、明るい青色の瞳。その瞳には真剣な光が浮かんでいる。


「アマリル、あなたは家を守っているでしょう。彼の帰る場所を。それはとても大事なことよ」

「……」


『必ず帰ってきます、貴女の元に。』


 出立前の彼の言葉が思い浮かぶ。私は。


「私は、彼の力になれているのでしょうか……」

「きっとね」


 短い言葉を最後に、雨音が場を満たした。雨を追うように落ちた視線の先には、俯きがちに咲く白いシクラメン。中心だけが仄かに色づいた花は、まるで私の心を形にしたようだった。

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