あなたの傍
雨はまだ降り続けているけれど、少しでも外の光を感じたくて寝室の窓際にソファを置いてもらった。大きな窓には雨粒が垂れているけれど、外はぼんやりと明るい。
刺繡はいい。手仕事に集中していれば、時間を忘れられる。少しずつ形が見えてくると、私は今立ち止まっていないと思える。たとえ、心が深く沈んでいても。
クリーム色の生地に、一針一針丁寧に糸を縫い付ける。この部屋のカーテンに施す刺繍は、直感で葡萄に決めた。あの人の瞳の赤と、私の瞳の紫。その二色の糸を織り交ぜた一房。それがこの場に相応しいと思ったから。
「ふぅ……」
ふと手を止めると、サイドテーブルにお茶が置いてあった。よほど集中していたのか、いつ淹れてくれたのか分からない。湯気が上がるカップにそっと口をつける。温かい。仄かな甘みを感じながら、実り始めの葡萄にそっと指を走らせた。
ソフィやエドモンさんを始めとした使用人の方たちも、私をそっとしておいてくれる。本当に必要な時しか声をかけない。だから私は、刺繍に没頭していられる。
「そういえば、雨音が少し小さくなったのかしら」
雨の気配が弱まり、代わりに屋敷の中で動く人の気配を感じる。なんとなしに屋敷を守る人たちの音に耳を傾けていると、穏やかだった空気が揺れた気がした。パタパタとせわしない足音が寝室の前で止まり、ノックが響く。
「マリ様!」
「ソフィ? どうしたの慌てて」
私がノックに応える前にドアを開けるなんて珍しい。呼び方も結婚前のものに戻ってしまっている。
気遣う言葉をかけようと口を開いたけれど、次のソフィの言葉で全て吹き飛んでしまった。
「旦那様がお帰りになりました!」
「……!」
気が付くと、部屋を飛び出していた。派手に足音を立てるなんて、と頭によぎったけれど、なりふり構っていられない。階段をできるだけ急いで降り、エドモンさんが開けてくれている扉から外へ出た。
「テオ!」
門扉のところで騎士団の人らしき男性と話していたテオは、私の声にさっと振り向いてくれた。視線が交わる。陽炎のように瞳が揺らいだ気がした。
「マリ」
大股で歩いてきてくれるのが待ちきれなくて、思わず駆け寄る。広げてくれた腕の中へ飛び込んだ。
「……」
「ただいま」
胸がいっぱいで、何も言えない。ただ雨に冷えた身体をぎゅっと抱きしめる。胸板の奥から力強い鼓動が響いて、耳元に触れる吐息に温かさを感じた。
生きて、ここにいる。それが何より嬉しくて。
「マリ……?」
「……ぅ」
固く閉じた瞼の縁に涙が盛り上がる。どうしても抑えられなくて、次々に零れていく。
「っく、ぅぅ……」
「マリ……」
熱い眦を優しい感触が掠めた。そっと目を開くと、テオがハンカチで涙を拭ってくれている。そのハンカチは。
「っ、持ってくださっていたのですね」
「勿論、貴女から頂いたものですから。少し汚れてしまいましたが……」
確かによく見ると、ローズマリーの葉の一部が赤く染まってしまっている。土汚れだろうか、ところどころ茶色くもなっていた。
「せっかく綺麗なハンカチだったのに、汚してしまってすみません」
「いえ、使うためのものですから。使ってもらえたほうが嬉しいです」
「……このハンカチを見るたびに、力が入りました」
顔を上げると、テオの真剣な顔が目に入った。
「今回の討伐は、魔獣の数がかなり多くて……慣れている者でも苦戦するほどで、命の危険を感じる場面もありました」
一音一音、噛み締めるかのように紡がれる言葉。深く響く声。
「でも、貴女のハンカチが俺を奮い立たせてくれた。ハンカチを入れている懐から指先まで熱が走るようで、剣を握る手に力が籠った。必ず無事に帰るという決意を何度でも強くしてくれた。」
力強く抱きしめる腕、零れた涙を拭ってくれた指も温かい。
「大きな怪我なく帰ってこられたのは貴女のおかげです。」
「……それは、よかった。」
触れ合う場所が体温で温められていく。テオに触れることで、私の身体も熱を取り戻したかのようだ。
「そういえば、雨、止みましたね」
「あ……本当ですね」
空を仰ぐと、雲の切れ間から日が差していた。植物に宿る水滴が、光を反射してきらきらしている。
「晴れてくれてよかった。貴女に渡したいものがあるんです。本当は式の後すぐに渡すつもりだったのですが……」
「え?」
身を起こしたテオは、一度門の外へ向かうと、すぐに戻ってきた。その手の中には。
「貴女に、これを」
「わぁ……綺麗な薔薇……これは、ルージュ・レヴェ?」
「流石、よくご存知ですね」
周りが赤く、中心だけが白い薔薇。日光を浴びて輝くような白の花びらを赤が引き立てている。
「貴女が話してくれたヴェール・ルージュのことが深く印象に残っていて。でも、俺から貴女に贈るには『秘められた想い』では合わないからと調べていたんです。この品種は、ヴェール・ルージュの近縁種なんですよね?」
「ええ。包む赤のヴェール・ルージュに対して、隠さない赤のルージュ・レヴェですから」
「花言葉は『伝えたい想い』。俺は、貴女への気持ちを心に秘めたまま討伐へ向かい、帰ってきました。この気持ちをあらためて貴女に伝えたい。」
テオは、私の前に跪いた。美しい薔薇の花束を差し出して。
「俺はこれからも、命の危険がある場所へ向かわないといけない時があるでしょう。ずっと貴女の隣にはいられない。でも、何度でも、貴女の元へ帰ってきたい」
薔薇よりも熱烈な赤が私を見つめる。
「貴女の傍を、俺の居場所にしたい。貴女を愛しています。受け取ってくれませんか」
情熱的な言葉に一瞬息が止まり、すとんと心へ落ちた。驚きと喜びが胸いっぱいに広がって、一度は止まった涙がまた零れてしまう。笑顔を浮かべたいのに、どうしても止まらない。瞬きをして、精一杯の笑みを浮かべて花束を受け取る。
「嬉しいです。私も、貴方の帰る場所を守りたいし、貴方の傍にいたいです。」
身体の芯を揺らす声には今も強く惹かれる。けれどもう、それだけじゃない。温かく優しく、真面目で実直で、少し不器用なこの人だから。だから、愛の言葉がこんなにも嬉しい。
「私も、貴方を愛しています」
「マリ……」
背中に回された腕は、緊張より安心感をくれる。引き寄せられるまま身体を委ね、目を閉じた。触れた唇は柔らかく優しい。
テオの腕の中、この人に守られ愛されるここが、私の居場所だ。




