舞踏会
大きなシャンデリアが吊るされた豪奢なホールに足を踏み入れると、自然とため息が漏れた。たっぷりとしたシルクのカーテン、大きな窓には曇りひとつなく、床は人を反射するほど磨かれている。無数のキャンドルが柔らかく照らす中を華やかに着飾る人々が行き交うこの場所は、まさしく御伽噺の世界だ。ゆったりした演奏が流れ、人のさざめきが波のように揺蕩って聞こえてくる。
夏の盛りを過ぎた頃に王家主催で行われる舞踏会は、爵位を持つ家は基本的に参加しなければならない。王妃殿下直筆の招待状が届けられるこの舞踏会は、新成人の社交界デビューの場であるからだ。それと同時に、貴族の結婚を披露する場でもある。
この国には日本で言う披露宴という催しがなく、代わりに年に一回の舞踏会で結婚を披露するのだ。個人の結びつきとしては結婚式を挙げることが区切りなのだが、貴族社会ではこの舞踏会で披露することが結婚という社会的契約が結ばれる区切りなのだそうだ。だから、舞踏会で披露したにも関わらず何らかの理由で婚約破棄などになると、社会的な信用を落とすらしい。
今日はもちろん、私たちは当事者としての参加だ。窓に映った自分の姿を何度も確認してしまう。ハーフアップに結った髪も、この日の為に仕立てたドレスにも乱れはない。ワインレッドのドレスと同じ色の髪飾りが、光を反射して煌いた。
「緊張していますか」
「ええ……大勢の人に注目される中で踊るんですもの」
貴族の令嬢として社交ダンスは体に叩き込まれたし、何も考えずとも動けるくらいには踊れる。けれど、結婚を披露するペアは舞踏会の幕開けに一曲踊る決まりがある。他に結婚を披露するペアがいれば一緒に踊るのだが、今回は私たちだけだ。王家の方々を始めとした出席者の方々に見守られながら踊るのだと思うと、体ががちがちにこわばってしまう。
「大丈夫ですよ」
温かな声に顔を上げると、テオドール様と目が合った。力強い瞳に吸い寄せられる。
「貴女一人ではありません。俺もいますから」
「……そうでしたね」
そう、独りじゃない。これからは、この人と手を取り合って生きていくのだ。
胸に染み入る安心感に顔が自然と綻ぶ。けれど、テオドール様は気まずそうに目を逸らしてしまい、私は首を傾げた。
「……俺はあまり、踊りが得意じゃないんですけどね」
「ふふっ。大丈夫です、私もですから」
そこで素直に言ってしまうのがテオドール様らしい。生真面目な発言に肩の力が抜けて笑みがこぼれる。
一息ついた次の瞬間、ホール内に涼やかな鈴の音が広がった。談笑に興じていた参加者が一斉に礼を取り、辺りはしんと静かになる。国王陛下と王族の方々のお出ましだ。
堂々とした体躯の国王陛下が歩み出ると自然に注目が集まる。風格のある顔に柔和な笑みを浮かべた陛下の声は、場に朗々と響いた。
「皆様、今宵もよく集まってくださった。今年一年、大過なく国を治めることができたのも皆様の尽力のおかげ。協力に感謝すると同時に、今後も共に国を支えていってほしい。」
陛下の言葉に、ホール中から拍手が湧き上がる。陛下はああ仰ったが、今のディーネ王国の安定と発展は、魔石の研究に力を入れることを決めた現国王陛下のおかげだ。賢明な国王を戴くこの時代に生まれて、私はよかったと感じている。
陛下がひとつ咳払いをすると波が引くように静かになる。そして、陛下がこちらを見た。
「そして、今回も目出度い知らせがある。テオドール・ド・ヴァルモン、アマリル・フォン・アルデンベルグ、前へ」
いよいよだ。差し出された腕をとって、ホールの中央へ歩み出る。テオドール様と視線を合わせ、礼をした。
「この度、私、テオドール・ド・ヴァルモンと」
「アマリル・フォン・アルデンベルグは」
「結婚することと相成りました。まだ若輩の身ではありますが、国のため力を尽くす所存です。今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
挨拶を終えると、四方八方からの拍手が温かく私たちを包んだ。目を上げると、アデラ様も溢れんばかりの笑みで手を叩いてくれている。顔が自然と微笑みを浮かべた。
「新しい夫婦の誕生に祝福を!」
陛下の言葉を合図に、楽団の人たちが楽器を構える。私たちも最初のダンスの構えをとった。ホール内を一瞬、静寂が包む。
凪いだ水面に水が一滴落とされるように、音の途絶えた空間にハープの優しくも澄んだ音が空気を震わせ始まりを告げた。それを皮切りに弦楽器や木管楽器など他の楽器も加わり、華やかなワルツの旋律が流れ出す。
(ダンスのコツは、相手に合わせること。型よりも相手の動きを、呼吸を大事にすること)
踊りの先生が繰り返し教えてくれたことを思いだす。頼もしい体に身を任せ、リードのままにステップを踏む。テオドール様は本人の申告とは違いダンスもとてもお上手だった。滑らかに体が動き、合わせてドレスと髪がさらりと揺れるのが視界の端に映る。
私の歩幅に合わせた一歩、導く手の心強さ、『私』を見てくれている人と踊る安心感。必要だからやっている社交ダンスで、こんな気持ちになったのは初めてだった。自然と顔が綻ぶ。
「……楽しい」
「それはよかった」
呟くようにこぼれた言葉を、テオドール様は掬い上げてくれる。それもまた、嬉しい。繋いだ手に少し力を入れると、テオドール様は優しく握り返してくれた。
観衆からの拍手が響いてきてようやく、一曲が終わったこと、今まで周りの音が聞こえていなかったことに気付いた。手が離れていくのがスローモーションのように映る。夢の中にいるようなふわふわした気持ちでもう一度礼をした。拍手が鳴りやむと、次のダンスを踊るために参加者がぞくぞくとホール中央部へと躍り出る。
現実感のない心地のまま、なんとなくテオドール様を見上げた。彼も私を見ていたようで、真っ直ぐに視線が合う。彼の喉がごくりと動くのが見えた。
「もう一曲いかがですか? 貴女ともう少し踊っていたいのです」
誘いに心が躍るのもまた、初めて。
「……喜んで!」
ホールの中は人の熱気が満ちているけれど、扉一枚隔てたバルコニーは涼しい風が吹いていた。縁から下を見下ろすと、淡い魔石の灯りに照らされた庭が見える。目下の広場を囲むように植えられた白い薔薇が温かい光に照らされ、金色に煌めいて咲き誇っていた。灯りに浮かび上がる花々に月明かりが降り注ぎ、なんとも神秘的な雰囲気が辺りを包んでいる。
このバルコニーからの夜景は王城の中でも絶景だと評判なのだが、今は他に人がいないようだ。喧騒から離れると、かすかな風と水の音しか聞こえなくなる。その囁きに耳を傾けていると、自然と呼吸が楽になった。やっぱり、かなり緊張していたようだ。
「大丈夫ですか? 飲み物とか、取ってきましょうか」
「いえ、大丈夫ですわ。テオドール様は平気ですか? 結局、三曲も続けて踊ったのですからお疲れでは?」
「あれくらいは全然、訓練のほうが厳しいですから。でも、お気遣いありがとうございます」
音楽とリードに身を委ねたダンスの光景が思い出されて、自然と胸に手を当てた。柔らかく幸せな気持ちが心に満ちている。
「テオドール様は嘘つきですのね。ダンス、とてもお上手でしたわ。まるで羽根が生えたかのように踊りやすかった」
「それはアマリル嬢がお上手だからですよ。俺も、こんなに踊りやすかったのは、踊っていて楽しいと感じたのは初めてでした」
お互いを褒めあってしまい、目を見合わせてくすりと笑った。どうやら、二人とも考えていることは同じなようだ。
貴方だから、楽しく踊れたと。
相変わらず会話は多くない。でも、気まずい沈黙ではもうない。心地よい静けさがあるだけ。テオドール様も変わらず表情豊かではないけれど、私を見てくれる視線は穏やかでリラックスしているのが分かる。分かるようになった。
積み上げた時間が、今の私達の関係を、春の陽射しに照らされたような暖かさを作っている。
「アマリル嬢。少し、俺の気持ちを聞いてくれませんか」
不意に真面目な声が落とされて、思わず瞬いた。彼はそっと私の手を取り、大きな手のひらで包みこむ。その手のひらは、手袋越しなのに熱い。
「貴女に初めてお会いした時、正直に言うと俺は気後れしました。顔合わせの時の貴女は銀色の髪と深い紫の瞳が神秘的で、光を纏うように輝いて見えて……美しいこの人と結婚するなんて、と」
テオドール様の手は少し震えていた。私は黙って耳を傾ける。
「でも実際に貴女と話してみて、決して近寄りがたい人ではないと知りました。好きなものについて語る時の目の輝きは太陽のようで、眩しくも好ましいと感じました。ケーキを食べた時の貴女の笑顔は無邪気で明るくて、その笑顔にどうしようもなく惹かれて……貴女のその笑顔をもっと見たいと思った。その笑顔を、俺に、向けてほしいと。」
ゆっくり、たまに言葉に詰まりながらも紡がれる気持ちは、テオドール様らしい誠実さに溢れていた。
「率直に言います。俺は、貴女に好意を抱いている。ただ家の為に結婚する相手としての関係ではなく、気持ちを通い合わせる関係になりたい。まだ知り合って日が浅く、お互い知らないことも多いと思います。それでも俺はこう言いたい。」
激しく燃え盛る焔の瞳が私を射抜く。
「貴女を愛している」
真っ直ぐな情熱的な告白は、私の心の奥底深くまで届いた。鼓動が早鐘を打つ。
「勿論、今すぐ同じ気持ちを返して欲しいとは言いません。これから、貴女に俺をもっと知ってもらえるように、好いてもらえるように努力します。今はただ、貴女に俺の気持ちを知っていてほしい。」
一瞬力を込めて手を握られ、やがて優しく下ろされた。
「それだけです、聞いてくれてありがとうございます」
「……テオドール様」
もらった言葉で胸がいっぱいで、私の口はうまく気持ちを話してくれない。口を開いては閉じるを繰り返す私を、テオドール様はじっと待ってくださった。知らず知らずのうちに、指先に力が籠る。
しかし私が何か言う前に、城の鐘が鳴った。舞踏会がお開きになる合図だ。ごぉんと荘厳な音を響かせる鐘をテオドール様が見上げる。
「……帰りましょうか」
「あ、待って!」
思わず、手を掴んで引き止めていた。振り返ったテオドール様の目は大きく見開かれている。掴んでいる私の手もきっと、先ほどのテオドールと同じように震えているのだろう。
「……まだ、何もうまく言えませんが、私は貴方に、愛称で呼んでほしいと思います」
「愛称?」
「どうか、マリと呼んでくださいませんか」
今の私の、精一杯。
「分かりました」
それに対して、テオドール様は優しく頷いてくれた。
「マリ。俺のことも、テオと呼んでほしい」
「テオ様、ですか?」
「様、もいらない。俺達は夫婦になるんだろう?」
「けれど……」
「マリ」
大切な人の声でそっと呼ばれた名前は、まるで宝物のような響きをしていた。
「……テオ」
「ありがとう、嬉しい」
そう言って、テオドール様は――テオは、笑った。その笑顔が本当に嬉しそうで……。私は高鳴る心臓を抱えたまま、彼のエスコートに導かれて帰路についた。




