お出かけ
鏡の前でくるりと回ってみる。普段着よりも軽い布が空気を含んでふわりと浮き上がり、裾に施された刺繍が光を反射して微かに煌めいた。布も糸も木賊色で揃えられた服は一見地味だが、丁寧な縫製に質の良さが滲む。
「変じゃないかしら……」
「お似合いですよ。お嬢様の瞳の色がよく映えて、お綺麗です」
ソフィはそう言ってくれるけれど、自分ではよく分からない。
「そんなに気になりますか?」
「ええ……」
ソフィがブラシを構えたので、ドレッサーの前に座った。今日は街へ出かけるため、周りに溶け込む控えめな色合いの服を身に着けているのだ。普段なら気にもとめないのに、なんとなくそわそわしてしまうのはやっぱり。
「テオドール様とのお出かけですものね」
からかうような言葉に、鏡の中の私が僅かに頬を赤らめた。背後でソフィがくすくす笑っている。けれど手はブレずに髪を梳かしてあっという間に綺麗に結んでしまうから、流石の仕事ぶり。すぐにメイクを始めてくれる。
「よかったですわ。顔合わせの前はあんなに緊張してらしたから、どうなることかと心配していたのですけれど。お嬢様を明るい顔にしてくださる方で本当によかった」
「ソフィ……」
父親も母親も多忙でほとんど顔を合わせない我が家で、ずっと私の傍にいてくれたのは侍女を始めとした使用人達だった。特にソフィは、母の侍女の娘ということもあり、幼い頃から私に仕えてくれている。私の一番の理解者だ。私の幸せを心から願ってくれる人。
「……なんとなく湿っぽくなってしまいましたね。さ、準備完了ですよ。大丈夫、今日もマリ様はお美しいです」
ぽん、と優しく背中を押してくれる手。その手はいつも私を支えてくれる。
「ありがとう、ソフィ」
立ち上がって、軽く裾を払った。背中はしゃんと伸ばして、視線は真っ直ぐ前。見守ってくれる人たちの誇りでいられる自分であるために。
「それに、恋をしているお嬢様は世界で一番素敵ですよ」
「……!」
言われたことに一瞬頭が追いつかなくて、すぐどうしようもない恥ずかしさが襲う。顔が熱い。勢いのまま振り返った先、ソフィはニコニコと楽しそうな笑みを浮かべていた。
「そうそう。お嬢様、今回は私も同行いたしますが、馬車を降りてからは数歩下がって付いていきますので」
「え?」
「大丈夫です、お嬢様とテオドール様の邪魔はいたしませんから」
「ええっ!?」
「ほら、お時間ですから参りましょう」
「ちょっと、ソフィ!?」
私の胸中なんて全てお見通しですと言わんばかりに笑っているソフィ。彼女に力強く背を押されて、胸の内側に熱を抱えたまま部屋を出た。
街の中心部、大きな広場の端に馬車は止まった。テオドール様が差し出してくれる手に掴まって降りる。その手は私の手をすっぽり覆ってしまうほどで、包まれる体温に心臓が跳ねた。動揺が顔に出ていませんように。
「では、ここで待機をお願いします。アマリル嬢、行きましょうか」
「あ、はい! こちらです」
御者を待たせて歩き出す。今日は私の買い物にテオドール様が付き合ってくださるのだ。
「アマリル嬢はよく街へ来るのですか?」
「そうですね……頻繁に、というほどではありませんけれど、貴族の令嬢としては多いほうだと思いますわ。やはり、自分の目でひとつひとつ確かめて買いたいので」
「こだわりがあるのですね」
「趣味の範囲ですけどね。でも、趣味だからこそこだわりたいんです。それに眺めているだけでも楽しいのです、こういったお店は。こちらです」
大通りの一角にある、レモン色の建物。オレンジの三角屋根が可愛らしいそのお店は、王都で一番大きい手芸店だ。通りに面した大きな窓からも店内にある色とりどりの布が見える。
「本当についてきてくださってよかったのですか? 退屈では……」
「気にしないでください。言ったでしょう? 貴女のことが知りたいと。貴女の好きなものも知りたいんです」
(口説いている……訳ではないのよね……)
至極真面目な顔で、耳に心地よく響く声で、なかなかのことをおっしゃっていると思うのは私だけなのだろうか。ただでさえ一緒にいるだけでも私は緊張してしまうのに。さりげなく高鳴る心臓を押さえる。
「お嬢様、私は外で待機しておりますね」
「え、あ、そうね。お願い」
「どうぞ、アマリル嬢」
テオドール様が開けてくれたドアをくぐり中へ踏み出した。視界に広がる布と毛糸が所狭しと並べられた棚、店内は宝箱のように輝いて見える。
(また素敵な柄の布が入っている……! つい見てしまうけれど、あまりポーチばかり作っても使わないのよね……。あ、あの毛糸、色が好み! いい深みの紅だわ。やっぱり編み物もしてみようかしら……)
ついつい目移りしてしまいながらも、奥の刺繡糸が並んでいるスペースへ足を進める。ひとつひとつ手に取っていたら日が暮れてしまう。さっさと目当てのものを買わなくては。
一番奥、刺繡糸のみが並ぶ棚の前で見本を見比べる。萌える若葉の緑も、夜を織り込んだような紺も、夕焼けの赤も、ここには様々な色合いの糸があるのだ。見ているだけでも楽しい。
ふと、傍らを見上げる。興味深そうに辺りを見回していたテオドール様は、すぐに視線に気づいてくれた。手元を覗きこむように屈んでくれる。
「テオドール様、実は、寝室のカーテンに刺繡を施そうと考えていますの。テオドール様は好みの色はございますか?」
「好み……考えたことがないですね。そういったものは、模様を決めてから色を決めるのではないのですか?」
「そのほうがスムーズではありますけれど、色から図案を決めて作るのも楽しいのですよ。特に、テオドール様も使う寝室なのですから、好きな色で飾られている方が目の保養になるでしょう?」
「そう、ですね……」
「深く考え込まなくても、直感でいいんですよ。もちろん、どれでもいいのでしたら無理に決めなくても大丈夫ですけれど」
赤、黄、青。橙も緑も様々。色の奔流なのに、ひとつひとつが品よく主張していて不思議と調和して見える。なにげなく手に取った赤に目を奪われた。
(これ、もしかして)
こっそり隣に立つ人を見つめる。真剣な眼差し、その色。焔のような赤と、手元の糸は、よく似た色をしていた。
(何度見ても、綺麗な赤)
「あ、これ」
うっかり見入っていたせいで、上がった声にびっくりしてしまった。なんでもない顔を装い、テオドール様の手元を覗き込む。その手のひらの上には、夜明け前の一瞬を切り取ったような紫の糸。
「これ、貴女の目の色に似ていますね」
「え……」
どくん、と身体の内を叩く音がする。
「この色がいいです」
これが良いと選び取ったのが、互いの目の色なんて。それってなんだか。
「駄目でしたか?」
「あっいえ! 違います、何を刺繍したら映えるかなと考えてしまって!」
不安そうに聞かれてしまい、慌てて返事をした。差し出された糸を受け取る。この綺麗な艶のある紫を、この人が私の目に見ているのだと思うと、どうしようもなく嬉しい。
「あの、アマリル嬢。俺、やっぱり外出てますね」
「分かりました。付き合ってくださりありがとうございます、もう少し待っててくださいね」
他にも何種類か糸を手に取り、布を見ている最中に声を掛けられた。テオドール様はやっぱりと言うべきか、居心地悪そうに身を縮めていて、応えるとそっと外へ向かっていく。やっぱり男の人に手芸店を付き合わせるのは止めたほうがよかったな。嫌な思いをさせてないといいのだけど。
(あ、いいリネン。ハンカチ用なのね。また新しく刺繍をしようかしら)
どうしても欲しくなってしまった布数点と、ハンカチ用の真っ白な布、刺繍糸。揃えた物をレジへ持っていく。
「いつもありがとうございます。今日は護衛の方も一緒なんですね」
「あ、ええと……」
頻繁にではないけれど、定期的に来るのでお店の人ともすっかり顔見知り。私が貴族出身とは察しているけれど深く聞かないあたり、人が出来ていて私としてはとてもありがたい。
「その……大切な人なの」
「ああ、なるほど」
これだけで分かってくれるのだ。あまり婚約者だとか貴族っぽい話をしたくないので助かっている。
「では、こちらの刺繍用図案も一緒にどうですか?」
そう言って出してきたのは、アイリスやオリーブなどの図案。
「ご存知でしょうが、騎士の方へ贈るのにおすすめの図案ですよ。個人的におすすめはこれですね、ローズマリー。細長い葉を連ねる柄は爽やかな凛々しさがあって騎士の方向きですし、細い花を散らすのは結構大変ですがその分気持ちをこめられます」
買うつもりの糸と家にある糸の色を思い出して、頷いた。緑も青もあるからすぐ取り掛かれる。
「そう、ね。それもいただくわ。商売上手ね」
「ありがとうございます!」
にこやかに荷物を手渡してくれた店員さんに軽く会釈をして出口へ向かう。なんとなく、腕の中の袋を抱きしめた。
「買い物の後はいつもこのカフェに入るのですが、テオドール様はこういった場所は大丈夫ですか?」
「勿論。是非ご一緒させてください」
街の中心部にある二階建てのカフェは、意外と二階席が空いていたりする穴場スポットなのだ。場所柄、同じようにお忍びの貴族がちらほら来ることもあり、美味しいお茶とお菓子が評判になっている。
店の奥の階段を登った先、差し込む光で明るい二階席はそれなりに混んでいた。最近暑くなってきたので涼を求めて訪れた人が多いのだろう。空いている席を見つけて座る。ソフィが気を遣って荷物を持って馬車に戻ってしまったから、今は二人きり。
「なんだか、少し意外です。貴女は下町に慣れているのですね」
「慣れているというほどではありませんわ。いつもはソフィに助けてもらってばかりですから」
他の令嬢よりかは慣れているでしょうけど。一般人の前世の記憶があるから未知への恐れは無いし……などと言えるわけはないが。それでも一般常識は違うところも多いから、ソフィに頼りきりだし。
でも、一般的な貴族令嬢は、そうそう庶民に混じって買い物をしない。それは分かる。人によっては顔を顰められるような行動であることも。
「……私がこういう場に来るのは、テオドール様はお嫌でしたか?」
「いえ! そうではなく、本当にただ意外だっただけです」
テオドール様は大きく首を振った。それでも私の不安が顔に出ていたのか、言葉を続けてくれる。
「むしろ、親しみを感じます。たしかに貴族のご令嬢はこういった場に来ることはあまりないのでしょうが……街を歩く貴女はとても楽しそうでした。上手く言えませんが、それは良いことだと俺は思います」
「……そう、言ってくれるのですね」
「誰がなんと言おうと、俺は貴女を非難したり咎める気はないですよ。それよりほら、メニューをどうぞ。おすすめを教えてください」
本当に優しい方だ。真っ直ぐ、丁寧に言葉を紡いで伝えようとしてくれる。見た目は騎士らしく厳ついけれど、その優しく包みこむような低い声で発される言葉はどこまでも誠実で、安心感を抱かせる。
この人のそういう温かさに触れる度、移ったように私の心も温かくなる。
「そうですね、やっぱりこのお店はブレンドティーがおすすめですわ。季節ごとに美味しい茶葉を厳選して、マスターが美味しい配合を作っているそうですよ」
「なるほど……ではそれで。アマリル嬢は他に何か頼むのですか?」
「私はいつも、この季節のデザートのセットを頼むのです。ブレンドティーは単体でも美味しいのですが、デザートと合うように作られているので一緒に食べるととても美味しいのですよ。私、これを楽しみにこのカフェへ通っているのです」
「貴女がそれほど言うなら、美味しいのでしょうね」
話している間に、テオドール様が手を挙げて店員さんを呼んでくれ、私が何か言う前に注文をお願いしてくれた。サラリとそういうことをこなす気配りができる人だなんて、頼もしくて格好いい。
(恋をしている)
不意にソフィの言葉を思い出して、どうしようもなくむず痒い。なんと思おうと私は、もうこの人に恋をしているのだろう。素直に格好いいと思ってしまうくらいには。目が合うと、つい逸らしてしまうくらいには。心臓が立てる音が聞こえてしまわないか不安になってしまう。
「大丈夫ですか?」
「えっ」
顔を上げると、テオドール様は真剣な目でこちらを見ていた。その目には私を案じる色が浮かんでいる。
「随分顔が赤いですよ」
「えっ、そ、そうかしら……」
思わず頬に両手を当てる。熱い。頬だけじゃなく手も耳も熱い気がする。テオドール様は心から心配してくれているのに、その視線にすらドキドキしてしまってどうしようもない。
「お待たせしました」
ちょうどよくお茶とケーキが運ばれてきてホッとした。テーブルに並べられたのは、真っ白なティーセットとブルーベリーのタルト。
「今日も美味しそう……! いただきます」
ポットから注がれるお茶は明るめの飴色。ふんわりと鼻を掠めるのは涼やかな香り。そっと口をつけると、すっきりした味わいが駆け抜けていく。後味もさっぱりしていて、全体的に初夏の清々しさを感じるお茶だ。
「爽やかで飲みやすいですね」
「ええ。今回も美味しいわ……」
タルト生地にお行儀よく並ぶブルーベリーは蜜を纏って艶めいている。フォークを入れたときのサクリとした音も楽しい。ブルーベリーは甘みが強くて、さっぱりとしたお茶と良く合う。あまりの美味しさに頬を押さえてうっとりしてしまった。
「本当に美味しそうに食べますね、貴女は」
「あ、す、すみません……私、甘いものに目がなくて……」
優しく言われて、浸ってしまっていた自分が恥ずかしくなる。同行者、それも婚約者をほったらかしにしてしまうなんて。
「なんだか今日は、気を遣わせてしまってばかりですね……」
「いいんです、俺のことは気にしないで味わってください。貴女を知りたくて俺が勝手についてきただけなんですから」
「でも……」
「それに、」
鮮やかな夕焼けの赤が、真正面から私を射抜く。
「夢中になっているときの貴女はとても可愛らしい。俺はその笑顔が見られただけで充分です」
「……!」
向けてくれる声も笑顔も優しくて、でもその温度は私の心を燃やしてしまいそうで。またじわじわと顔が熱くなる。でも。
「……ありがとうございます」
彼に可愛いと言ってもらえるのは、嬉しい。とても。気持ちをこめて精一杯の笑顔を返す。
するとテオドール様は一瞬息をのんで、目を逸らしてしまった。
「テオドール様?」
「あ、いえ、お気になさらず。貴女があまりに……」
発言が聞き取れず首を傾げたけれど、テオドール様は何でもないと手を振って誤魔化してしまった。咳払いをして、別の話題を切り出されてしまう。
「今日は他に何処か行くのですか?」
「いえ、ここで最後ですわ。あまり時間がかかっても良くないですから、手芸店とカフェのみにしているんです。そもそも最初は手芸店のみのつもりだったのですが、このカフェにソフィが連れてきてくれて。それ以来、たまに街に来る時はここに立ち寄るんです」
「そうか、では、このお店は貴女の大事な場所の一つなのですね」
「え……?」
「街に来てから、ずっと生き生きとした顔をしてらっしゃいますよ。普段は伯爵令嬢として楚々と生きている貴女が、息抜きできる場なのでしょう?」
そう、なのだろうか。意識したことがなかった。
「息抜きが必要なほど大変な生活はしておりませんけれど……」
「でも貴女は、アルデンベルグ伯爵家のご令嬢だ。立ち居振る舞いは清楚で美しく、物静かだがとても優しい……評判通りのご令嬢。それも貴女の一面ではあるけれど、今日無邪気に笑っていらしたのも貴女の一面でしょう?」
「……そんなに、表情が違いました?」
「ええ。心から楽しそうに微笑んでらした。とても良いことだと思いますよ」
貴族の一員として、感情を表に出すな。慈悲と威厳を兼ね備えた仮面を被れ。そう言われてきたし、素直に笑えば叱責された。そうやって、いつの間にか自然に感情を押し隠して生活するようになっていた。
こうして、素直な私を肯定してくれる人が現れるとは思ってもいなかった。
「ありがとうございます」
「何がですか?」
「こんな私を認めてくださって」
「……俺にとっては当たり前のことしかしていませんが、どういたしまして。生まれがある以上自由に、とはいかないのでしょうが、少なくとも俺は貴女を縛り付ける気はありませんから。心のままに生きてください」
テオドール様が私の目をしっかり見て、微笑んだ。
「笑っている貴女も素敵ですよ。貴女の大事な場所を教えてくださって、こちらこそありがとうございます」
「……どう、いたしまして」
この人のくれる言葉は優しくて温かくて、凍りついていた心を溶かしていくよう。慎重に丁寧に紡がれた気持ちを、そっと心の奥底にしまった。




