#6 綻び
年が明けた。一月。
嶺と朔の生活は表面的には何も変わらなかった。嶺が朝食を作り、朔がそれを食べ、一緒に事務所に行き、仕事をして、帰って夕食を食べて、嶺が「寝ろ」と言って朔が「あとで」と言い、嶺が「いい加減にしろクソガキ」と怒鳴る。その繰り返し。
ただ、朔は嶺の変化に気づいていた。嶺が朔の頭を撫でる手のひらの圧が、以前より確かめるようになっていた。通りすがりに軽く触れるのではなく、頭蓋骨の形を確認するように、手のひらの全面を使って撫でる。朔がまだここにいることを、毎回毎回、確かめている。
嶺はまた煙草の本数が増えていた。禁煙しているという建前は崩さないが、ベランダに出る回数が一日に三回から五回に増えた。朔はそれを数えていた。数えることに意味はなかったが、嶺のストレスの度合いを測る指標にはなった。
そして嶺は、「偶然か」と聞かなくなった。津島の死以降、嶺は朔に不審死に関する問いかけを一切やめた。
問いかけが消えたことの意味を、朔は正確に理解していた。嶺はもう自分を騙す必要がなくなったのだ。真実を知っている。知った上で、朔のそばにいることを選んでいる。問い詰めないのは、問い詰めたら答えを出さなければならなくなるからだ。嶺は答えを出すことを先送りにしている。
その先送りは、嶺なりの優しさなのだと朔は思った。あるいは、臆病さなのかもしれない。
いずれにしても、嶺と朔の間に薄い膜が一枚増えた。透明で、何も変わっていないように見える膜。でもそれが増えるたびに、嶺の顔がほんの少しだけ遠くなる。
津島の死後に嶺に接触してきたのは、佐久間という男だった。
三十代半ば、津島の系列の人間で、津島の死後にその役割を引き継いだ。津島のような老獪さはないが行動力があり、嶺の事務所が保護している内部告発者のリストを入手しようと動いていた。
朔は佐久間の処理を計画した。佐久間が毎週末に通っているスポーツジムのサウナ室の温度制御システムに脆弱性を見つけ、遠隔操作で温度を致死レベルまで上昇させる手筈を整えていた。
しかし、朔が計画を実行に移す前に、佐久間が動いた。
ある日の午後、朔は嶺の指示で柚木と一緒にクライアントとの打ち合わせに出ていた。事務所に戻ったのは夕方で、嶺の私室のドアが閉まっていた。中から声が漏れていた。
「堂島さん、あなたの周りで人が死にすぎるのは、あなたもお気づきのはずだ」
佐久間の声だった。朔は廊下で足を止めた。
「証拠はありませんよ。あの子供は天才だ、証拠なんか残すわけがない。でも状況証拠はある。死んだ人間は全員、あなたに接触した直後に死んでいる」
朔は壁に背をつけて、呼吸を殺した。
「堂島さん、あなたはわかっているんでしょう」
沈黙が長く続いた。朔の鼓動が速くなっている。嶺がどう答えるのか。
「……帰ってくれ」
嶺の声が聞こえた。静かで、平坦で、それ以上の感情を押し込めた声だった。
「それ以上は聞かない。帰れ」
「気づいていて止めなかったあなたも共犯者ですよ、堂島さん」
佐久間の最後の言葉と、椅子を引く音が重なった。朔は咄嗟にメインフロアに戻った。佐久間が嶺の私室から出てきて、朔の顔を見た。
「やあ、氷室くん」
朔は佐久間を見返した。表情は動かなかった。
「知らない人に話しかけられても返事しないって言われてるんで」
「賢い子だ」
佐久間は事務所を出て行った。
嶺は私室から出てこなかった。
朔はソファに座って、嶺が出てくるのを待った。三十分、四十分。柚木と水谷が先に帰った。事務所に朔一人が残った。外は暗くなっていて、事務所の蛍光灯だけが白く光っている。
ようやく嶺の私室のドアが開いた。嶺が出てきた。嶺の顔は普段と変わらなかった。変わらないように見えた。
「朔。帰るぞ」
嶺の声は短く、低く、乾いていた。蛍光灯の光が嶺の顔を白く照らしている。嶺の目の下にうっすらと影があった。疲労なのか、それとも別の何かなのか。朔にはわからなかった。嶺の感情のうち、朔に関するものだけが、朔の読解能力を超えていく。
「うん」
嶺は朔のそばを通り過ぎるとき、朔の頭に手を置いた。くしゃ、と一度だけ髪を掻き混ぜて、手を離した。
その手のひらの圧が、今日はいつもと違った。強くもなく弱くもなく、ただ手のひらの全面が朔の頭蓋骨に密着するような、確かめるような触れ方だった。朔はまだここにいるか。朔はまだこちら側にいるか。
車の中で、嶺がハンドルを握ったまま口を開いた。
「朔。佐久間という男のことは俺が対処する。お前はなにもするな。約束しろ」
「……わかった」
朔の声は小さかった。嶺のハンドルを握る手の甲に、浮き出た血管が見えた。フロントガラスの向こうは暗く、信号の赤い光だけが車内を断続的に照らしている。
「約束しろと言った」
嶺の語尾が、ほんの僅かに震えた。朔はその振動を耳の奥で拾った。震えている。嶺の声が震えるのを、朔は今まで一度も聞いたことがなかった。嶺が怒っても、困っても、疲れ果てても、声だけは平坦さを保つ男だった。その制御が、今、朔への一言で崩れている。
「約束する」
嶺の声が、僅かに震えていた。朔の知る限り嶺の声が震えたのは初めてだった。嶺が何を恐れているのか、朔には正確には読み取れなかった。ただ、嶺が朔のことを心配しているのではなく、朔がまた手を汚すことを恐れているのだと、身体のどこかで感じた。
嶺は知っている。全部知っている。
*****
朔は約束を守る気はなかった。
約束した夜、朔は自分の部屋のパソコンの前に座って、モニターの光の中で考えていた。嶺が「約束しろ」と言ったときの声が頭の中で繰り返されている。あの声は震えていた。朔の知る限り、嶺の声が震えたのはあれが初めてだった。
嶺が何を恐れているのか。朔が殺されること、ではない。朔が誰かを殺すこと。朔がまたキーボードの前に座って、誰かの生命維持システムに侵入して、数値を書き換えて、人を消すこと。嶺はそれを恐れていた。
朔にはその恐怖の意味が、完全には理解できなかった。朔にとって殺しは処理であり、嶺の周囲のバグを修正する作業だ。嶺がそれを恐れるのは、嶺がまだ「正しい側」に行こうとしているからだろう。嶺の中にある倫理の基準が、朔の行為を罪だと認識している。
でも嶺は問い詰めなかった。「お前がやったのか」とは聞かなかった。知っていながら聞かなかったのは、聞いてしまえば嶺自身も答えを出さなければならなくなるからだ。朔を警察に突き出すのか、それとも見て見ぬふりを続けるのか。
嶺はどちらも選べなかったのだ。朔を手放せないから。
そのことが、朔の胸を締めつけた。名前のない痛み。嶺が朔のために苦しんでいるということ。朔が嶺を守ろうとした行為が、嶺を苦しめているということ。
それでも朔は止められなかった。佐久間が嶺のクライアントの情報を持っている。それが外に出れば、内部告発者の命に関わる。嶺はその脅威を自力で対処すると言った。けれど嶺のやり方は元公安式だ。脅して、交渉して、時間をかけて追い詰める。その間に佐久間がリストを使えば手遅れになる。
朔はサウナ室の計画を破棄した。佐久間が嶺を名指しで「共犯者」と呼んだ以上、佐久間が次に死ねば嶺に疑いが向く。間接的な手法では嶺を巻き込むリスクがある。
だから、朔は別の方法を選んだ。佐久間のスマートフォンとパソコンのすべてのデータを遠隔で破壊し、内部告発者のリストを消去する。殺すのではなく、データを消す。佐久間が持っている武器を、無力化する。
それだけで済むはずだった。
けれど、佐久間のスマートフォンに侵入したとき、朔は佐久間が嶺に宛てたメールの下書きを見つけた。まだ送信されていない。
メールの内容は、内部告発者のリストの一部だった。五名の名前と所在と告発内容。添付ファイルとして保存されている。佐久間はこれを嶺に送りつけて、「お前が傘下に入らなければリストを公開する」と脅すつもりだった。
朔はメールの下書きを削除し、添付ファイルを破壊した。佐久間のクラウドストレージにアクセスしてバックアップも消去した。パソコン側のデータも遠隔で完全消去をかけた。
これで、佐久間の手元にリストは残らない。殺す必要はなくなった。
そこで止めればよかった。
けれど朔はもう一つ、佐久間のメールの受信箱の中に、津島の部下から佐久間宛てに送られたメールを見つけた。そのメールには、嶺の公安時代の任務記録の断片が添付されていた。嶺が一線を越えた任務の詳細。嶺がもっとも触れられたくない過去。
佐久間はこの情報も武器として使うつもりだった。嶺の過去を暴露すると脅して、嶺を屈服させるために。
朔の中の何かが、ぐらりと傾いた。
データを消すだけでは足りない。佐久間がこの情報を知っている限り、いつでも同じことができる。佐久間の頭の中にあるデータは、遠隔では消去できない。
朔は佐久間のマンションの住所を特定した。セキュリティシステムの脆弱性を調べた。エントランスの電子錠、エレベーターの防犯カメラ、部屋のスマートロック。すべてのデータが揃った。
金曜日の夜、朔は嶺に「コンビニ行ってくる」と言って家を出た。
佐久間のマンションに侵入したとき、朔の手は震えていなかった。電子錠を解除し、防犯カメラの映像をループさせ、部屋に入った。佐久間はまだ帰宅していない。朔はパソコンのハードディスクに物理的にアクセスし、データの完全破壊を確認した。
あとは部屋を出るだけだった。
玄関のドアが開いた。佐久間が帰ってきた。予定より一時間早い。
暗いリビングの隅に朔は身を潜めた。佐久間が明かりをつけ、キッチンで缶ビールを開ける音がした。テレビをつける音。ソファに座る気配。
朔は窓から脱出する経路を計算した。バルコニーに出て、隣の部屋のバルコニーに移り、非常階段まで。十五秒で可能。
佐久間が立ち上がった。廊下に出てきた。パソコンのある書斎に向かっている。書斎を通り過ぎなければバルコニーに出られない。
朔は動いた。佐久間が書斎のドアを開けた瞬間、朔の背後を通り過ぎようとした。
「誰だ!」
振り向いた佐久間の目と、朔の目が合った。
「氷室……朔」
佐久間の表情が変わった。恐怖ではなく、確信の顔だった。
「やっぱりお前か」
佐久間がポケットに手を入れた。スマートフォンを取り出そうとしている。
朔の体が動いた。理性ではなく反射だった。佐久間の手からスマートフォンを叩き落とし、そのまま佐久間を押し倒した。廊下の壁に佐久間の背中がぶつかり、二人ともバランスを崩して床に倒れ込んだ。朔が佐久間の上に覆い被さり、両手を佐久間の首にかけた。
首に手をかけた瞬間、佐久間の喉仏が手のひらの下で動いた。人間の首は柔らかい。こんなに柔らかいのかと、朔は思った。力を込めれば呼吸を止められる。それだけのことだ。キーボードの上で数値を書き換えるのと、結果は同じだ。
手が、止まった。
力が入らなかった。首にかけた手が、そのまま固まった。朔の指は佐久間の首の皮膚に触れていた。体温を感じていた。脈を感じていた。生きている人間の体温と脈拍が、朔の指先に伝わっていた。
この手は、嶺に撫でられてきた手だった。
嶺が毎日、何度も、朔の頭に置いてくれる手のひらを受け取ってきた手。嶺が冬の夜に包んで温めてくれた手。嶺の頬に触れたいとずっと思っていた手。この手で人の首を絞めることを、朔の身体が拒絶した。頭ではなく、指先が。キーボード越しに何人も消してきた手が、直接人の肌に触れた瞬間に動かなくなった。
佐久間が朔を突き飛ばした。朔は廊下の壁に叩きつけられ、後頭部を打って一瞬視界が白くなった。
そのとき、玄関のドアが外側から蹴り開けられた。
嶺だった。
嶺がドアの向こうに立っていた。コートも着ずに、家から走ってきたような格好だった。
嶺は一瞬で状況を把握した。暗い廊下でもみ合っている佐久間と朔。破壊されたパソコンのある書斎。
嶺は佐久間と朔の間に入り、佐久間を壁際に押しやった。
「内部告発者のリストの件は、こちらで法的に対処する。お前が不正に入手した経路は俺が把握している。今夜は何も起きなかった。異論があるなら、お前自身の取引記録を全部表に出す」
嶺の声は公安時代の声だった。事実を述べるだけの、感情を排した声。佐久間の顔から血の気が引いた。
「……わかった」
佐久間の声が小さくなった。嶺は朔の腕を掴んで、マンションを出た。
エレベーターの中で、嶺は朔の腕を離さなかった。朔は嶺の横顔を見上げた。嶺の表情は読めなかった。怒りなのか安堵なのか失望なのか、嶺の目は真っ直ぐ前を見ていて、朔と目を合わせなかった。
エントランスを出て、路地に止めてあった車に朔を押し込むように乗せた。嶺が運転席のドアを閉めた音が、夜の静けさの中でやけに大きく響いた。
*****
車の中は暖房が入っていなくて、吐く息が白かった。
嶺はエンジンをかけたが、すぐには発進しなかった。ハンドルを両手で握ったまま、フロントガラスの向こうの暗がりを見ていた。路地の街灯の光がフロントガラスに薄くかかっている。朔は助手席で、自分の手を見ていた。佐久間の首にかけた手。初めて人を殺そうとして、殺せなかった手。
「約束しただろう」
嶺の声は平坦だった。いつもの平坦さではなく、感情を全部飲み込んだ後の空白の平坦さだった。
「……ごめん」
「お前がどうやって俺の周りの人間を殺してきたか、俺は知っている」
朔の呼吸が止まった。
「とっくに知っていた」
嶺はそれだけ言って、ハンドルを握る手に力を込めた。指が白くなるほど強く握っている。フロントガラスの向こうで、路地の街灯が薄い光を落としている。嶺はその光を見つめたまま、次の言葉を絞り出すのに時間がかかった。
「お前が偶然だと言うたびに、自分に蓋をした。佐久間の言った通りだ」
嶺がそれ以上を言わなくても、朔にはわかった。共犯だ、と嶺は言いたいのだ。知っていて止めなかった自分は同罪だと。
「嶺は何も悪くない。全部俺が勝手に──」
「止められたのは俺だけだ」
嶺の声が遮った。短い一文だった。それだけで十分だった。お前の周りに俺以外に誰がいると、嶺は言わなかった。言わなくても、朔にはわかった。
車内に沈黙が落ちた。エンジンのアイドリングの微かな振動だけが、二人の体に伝わっている。嶺の呼吸が少し乱れている。朔はそれを音で感じ取っていた。
「嶺」
「黙ってろ」
嶺は片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手で目元を拭った。嶺が目元を拭う動作を朔が見るのは初めてだった。嶺は泣く人間ではないと朔は思っていた。泣く回路が嶺の中にあるということ自体が、朔にとっては新しい情報だった。
嶺は公安時代に一線を越えた人間だ。命令で人を殺した。それを朔は知っている。嶺が事務所を作ったのはそこから離れるためで、正しい側に行こうとして、でもやり方は結局あの頃から抜けきれていない。今夜だってそうだ。佐久間を脅して黙らせた。
嶺と朔は同じ場所にいる。正しい側ではない場所に。
長い沈黙の後、嶺が助手席に手を伸ばした。朔の手を取った。朔の冷えた手を、嶺の大きな手のひらが包んだ。
「もう殺すな」
その声は静かだった。朔が食事をとらないときに叱る声と、まったく同じ温度だった。
「邪魔な人間が来たら俺に言え。俺が対処する。お前は何もするな」
朔は嶺の手のひらの中で、自分の指が温まっていくのを感じていた。嶺の手は温かかった。朔が十三のとき、暖房のつけかたがわからなくて凍えていた夜に、嶺が朔の手を両手で包んで温めてくれた。あのときと同じ温度だった。
「嶺」
朔の声は小さかった。嶺の手のひらの温度に包まれたまま、声を出すと身体の奥から何かが一緒にこぼれそうになる。
「なんだ」
「俺、嶺のことが」
言いかけて、止まった。言葉が出てこない。
朔の中にある感情は、名前がつかないまま胸の奥に詰まっていた。何年もかけて蓄積されてきたもの。嶺の手のひらの温度の記憶。コンビニの帰り道で口元のチョコレートを拭われたときの、唇の端の熱。嶺の声に安心する理由がわからないまま安心し続けてきた年月。嶺の包丁の音を聞いているだけで呼吸が深くなること。嶺に嘘をつくたびに同じ場所を刺す針の痛み。嶺に触れたくて触れられない、その理由すら自分の中から引き出せない苦しさ。
それらのすべてを束ねる言葉を、朔は持っていなかった。ずっと持っていなかった。持たないまま、嶺の周りの人間を七人殺した。嶺を守るためだと思っていた。嶺のそばにいるためだと思っていた。でもそれは正確ではない。朔が殺し続けたのは、嶺なしには朔が存在できないからだ。嶺がいなくなったら、朔のシステムは停止する。それは恐怖に似ているが、恐怖とも違う。もっと根本的な、存在の条件のようなもの。
「俺は、嶺を」
声が掠れた。目の奥が熱くなった。泣いたことは、記憶にある限り一度もなかった。
「嶺を、愛してる」
初めて口にした言葉だった。自分の感情に貼ったことのないラベルを、今初めて声にした。正しいのかどうかもわからない。「愛してる」が正確な名前なのかも、朔にはわからない。ただ、嶺の存在なしに朔のシステムは稼動しない、嶺がいなければ朔は社会的にも精神的にも存在できない、嶺の手のひらの温度なしに朔は生きていけない。それを「愛してる」と呼ぶのだとしたら、そうなのだろう。
嶺は朔の手を握ったまま、長く黙っていた。
それから、もう片方の手で朔の頭を撫でた。くしゃくしゃと、乱暴に。不器用に。
「俺もだ」
嶺の声は掠れていた。
「帰るぞ。泣くな」
嶺の声が日常の声に戻りかけていた。掠れたままで、でも朔に命令する声のパターンに戻ろうとしている。嶺は感情的な状態から日常に引き戻すために、朔への命令を使う。「泣くな」は、嶺なりの緊急脱出手段だった。
「泣いてない」
朔の声は鼻声だった。泣いていないと主張する声自体が泣いている証拠だということを、朔は自覚していた。嶺もわかっているだろう。
「泣いてるだろう」
嶺の声にほんの僅か笑いが混じった。泣きながら笑うような、壊れかけた声だった。朔は嶺のその声を初めて聞いた。嶺がこんな声を出すことがあるのだということ自体が、朔にとっては新しい発見だった。
「嶺だって目赤い」
「うるさい」
朔は目元を袖で拭った。車内はまだ寒くて、吐く息が白い。嶺がヒーターのスイッチを入れた。送風口からぬるい空気が出始めて、少しずつ車内が暖まっていく。
「嶺」
朔は袖で目を拭いながら、嶺の横顔を見た。嶺はヒーターのスイッチに手を伸ばしていた。朔を温めようとしている。泣いた後の車内で、まず朔の身体のことを気にする。嶺はいつもそうだった。感情よりも先に、朔の身体の状態を管理しようとする。
「なんだ」
「いつから気づいてた」
嶺はしばらく黙っていた。ヒーターの送風音が車内を満たしている。温まりかけた空気が、二人の間を循環している。
「二人目あたりからだ」
短い答えだった。それ以上を嶺は言わなかった。偶然にしては出来すぎていたこと、朔以外にあの精度で人を消せる人間を知らないこと。言わなくても、朔にはわかった。嶺は朔の能力を誰よりもよく知っている。
「嶺」
ヒーターの温風が朔の頬に触れた。冷えた車内が少しずつ温まっていく。嶺の手はまだ朔の手を握っている。握ったまま、ハンドルを片手で操作している。離す気がないのだと朔は思った。
「なんだ」
「俺が嶺のスマホ覗いてたの、知ってた?」
嶺はちらりと朔を見た。
「知ってた」
朔は息を呑んだ。通話履歴を確認していたことも、嶺に近づく人間のリストを作っていたことも、嶺は全部知っていたのだ。知っていて何も言わなかった。
嶺はフロントガラスの向こうを見つめたまま、小さく、ほとんど呟くように言った。
「お前がいなくなるのが、怖かった」
その一言の後、嶺はもう何も言わなかった。嶺が自分の弱さを口にしたのを、朔は初めて聞いた。嶺の横顔は前を向いたままで、表情は暗くて読めなかったが、ハンドルを握る指が微かに震えているのを、朔は見ていた。
嶺はエンジンをかけ直して、車を発進させた。




