#5 共犯
嶺の元上官、津島という男が事務所に乗り込んできたのは、十二月の半ばだった。
朔がソファでノートパソコンを叩いていると、エレベーターの扉が開く音がして、廊下を歩く足音が近づいてきた。柚木が応対しようとする前に事務所のドアが開き、グレーのスーツを着た五十代後半の男が入ってきた。嶺の直属の元上官。嶺を暗部の任務に送り込み、任務が破綻した後に切り捨てた張本人。
津島は事務所を一瞥して、嶺の私室のドアをノックもせずに開けた。柚木が「アポなしでは困ります」と言ったが、津島は聞こえないふりをしていた。
朔はソファの上で動かず、パソコンの画面に目を落としたまま耳だけで状況を追った。嶺の私室のドアは開いたままで、中の会話がそのまま聞こえる。
「堂島。久しぶりだな」
津島の声には余裕があった。自分がこの場の支配者であるという確信から来る余裕。声のピッチが安定していて、発話速度がゆっくりしている。人を見下すことに慣れている人間の喋り方だと、朔は嶺の私室から漏れてくる声の振動で判断していた。
「用件を」
嶺の返事は二語。声量は津島の半分以下で、トーンは完全に平坦だった。嶺が感情を完全に格納したときの声。この声を出しているとき、嶺の内側では感情が凝縮されている。圧縮された分だけ、漏れ出したときの威力が上がる。
「相変わらず愛想がないな。いいだろう。うちのグループでセキュリティ部門を立ち上げる。お前の事務所ごと傘下に入れ」
津島の声に命令口調が混じった。要望ではなく指示。嶺の返答を待つ間の呼吸が浅い。自信はあるが、嶺の拒否を想定している呼吸だった。
「断ります」
嶺の声には一切の迷いがなかった。発話までの間がゼロ。津島の話が終わる前に答えが決まっていたということだ。
「まだ話は終わっていないぞ」
津島の声には嶺に対する上から目線が残っていた。かつての上官と部下の関係をいまだに引きずっている。嶺が断ることを想定した上で、別の切り口を用意してきた男の声だった。
「堂島。最近、お前の周りで妙な死が続いているな。俺の関係者が何人も死んでいる。知っているか」
津島の声のトーンが変わった。世間話から本題に移る切り替え。声が半音低くなり、発話速度が落ちた。一語一語を嶺に突きつけるように喋っている。朔はソファの上で、その声の変化を背中で聞いていた。
「ニュースで見る限り、すべて事故死か病死です」
嶺の返事は即座で、平坦で、一切の動揺がなかった。元公安の調査官としての嶺が全面に出ている声だった。この声で話すとき、嶺は感情を完全に格納している。
「そうだな。事故死か病死だ。だが偶然にしては出来すぎている。お前がやっているのではないかと言いたいのではないが、お前の周りには便利な人間がいるだろう」
津島の視線が、開いたドアの向こうのソファにいる朔を捉えた。朔は視線を感じたが、顔を上げなかった。
「氷室朔。犯罪組織の情報インフラに利用されていた少年か。随分便利な駒を飼っているじゃないか、堂島」
「朔は駒じゃない。それ以上その話をするなら出ていってもらう」
嶺の声のトーンが変わった。平坦さの下に硬い怒りが滲んでいる。嶺が他人に対してここまで感情を見せることは珍しい。
「落ち着け。忠告をしに来ただけだ。俺の周りで人が死に続けるなら、俺はそのガキを疑う。証拠がなくてもそうする力は持っている」
津島はそう言い残して、事務所を出て行った。
嶺は私室から出てきた。煙草を取り出して口にくわえ、火をつけようとしてから、事務所だったことを思い出したように手を止めた。煙草をポケットに戻し、朔のそばに来た。
「聞いたか」
嶺の声は低く抑えられていたが、怒りの残滓が声帯に引っかかっていた。嶺の喉仏が一度だけ動いた。唾を飲み込んだのだ。嶺が感情を整理するときの身体的な動作のひとつを、朔は何度も見てきた。
「聞こえた」
「津島のことは俺が対処する。お前はなにもするな」
嶺の手が朔の頭に置かれた。いつもより重い手のひらだった。朔はその重さの中に、嶺の感情の輪郭を探した。怒り。焦り。それから、朔の名前を知らない人間に朔のことを「駒」と呼ばれたことへの、理不尽な痛み。嶺が感じているであろうそれらの感情を、朔は身体的な重さとして受け取った。
「なにもしない」
朔はそう答えた。嘘だった。
その夜、嶺はウイスキーを二杯飲んだ。普段は一杯で止める嶺が、二杯目を注いだのを朔は見ていた。嶺はカウンターに寄りかかって、グラスの中の琥珀色を見つめていた。キッチンの照明だけがついているリビングは薄暗く、嶺の横顔に影が落ちている。
朔はソファの端に座って、嶺を見ていた。嶺が二杯目を飲む夜は、嶺の中で何かが均衡を崩しかけている夜だ。公安時代のことを思い出しているのか、事務所の案件で行き詰まっているのか、朔にはわからない。
「嶺」
朔がソファの端から声をかけると、嶺のグラスを持つ手が一瞬止まった。グラスの中のウイスキーが微かに揺れて、キッチンの照明を受けて琥珀色の光がカウンターの天板に反射した。
「なんだ」
嶺の返事は平坦だったが、朔の方を見た。嶺が朔を見るとき、嶺の瞳の奥に一瞬だけ柔らかいものが浮かぶ。本人は無自覚だろう。朔はその変化を、嶺の瞳孔のほんの僅かな拡張として観測していた。
「眠れなかったら、俺のパソコン使っていいよ。ゲーム入ってるから」
嶺の眉がほんの僅か上がった。予想外のことを言われたときの反応だ。嶺がこの表情を見せることは珍しい。嶺は大抵のことを予測の範囲内で処理する男であり、朔の言動に対して予想外だという反応をすること自体が、この提案が嶺の想定圏外だったことを示していた。
「……なんでゲーム」
「眠れないとき、なにかしてた方がいいでしょ。嶺はひとりで考え込むタイプだから」
嶺は一瞬だけ朔を見て、ほんの微かに口元を緩めた。笑ったのだと思う。嶺の笑い方はいつも小さくて短くて、一瞬で消えてしまう。
「ゲームはしない。だが、ありがとう」
嶺はグラスの残りを飲み干して、シンクに置いた。朔のそばを通り過ぎるとき、朔の頭をぽんと叩いた。
「寝ろ」
嶺の手のひらが朔の頭から離れて、嶺の足音が廊下に向かい始めた。朔はその足音の速度を耳で追った。嶺の足音はいつもと同じ速度だったが、最後の一歩だけほんの少し遅れた。振り返ろうとして、振り返らなかった一歩。
「嶺も」
「ああ」
嶺の足音が廊下を歩いて遠ざかり、嶺の部屋のドアが閉まる音がした。朔はソファの上で膝を抱えて、嶺がいなくなったリビングの静けさを聞いていた。冷蔵庫のコンプレッサーの音。窓の外の風の音。遠くを走る車のエンジン音。
朔が津島に「駒」と呼ばれたとき、嶺の声は変わった。朔が知る限り、嶺が他人に対してあそこまで感情を見せたことはなかった。あの怒りは、朔を侮辱されたことへの怒りだった。朔を「便利な駒」と言われたことが、嶺にとっては許容できなかったのだ。
朔はそのことを、身体の奥の深い場所で受け止めた。嬉しいという言葉では足りない。名前のつけようがない、胸の奥が熱くなる感覚。嶺が朔のために怒ったという事実が、朔の中のすべてのパラメータを揺らした。
だからこそ、津島を消さなければならないと朔は思った。嶺を怒らせるような存在は、嶺の近くにいてはならない。
*****
朔は津島の調査を四十八時間で完了した。
津島には狭心症の既往歴があった。ニトログリセリンの舌下錠を常備している。そして別のクリニックでED治療薬を処方されている。ニトロとの併用は禁忌であり、津島はそのリスクを知りながら二つの処方を使い分けていた。
朔がしたのは、津島のかかりつけ薬局の調剤システムに侵入し、次回の処方データを書き換えることだった。ニトログリセリンの製剤を、効果が強く作用時間の長い硝酸イソソルビドに差し替える。ED治療薬との相互作用で致命的な血圧低下を起こし、急性心不全に至らしめる。
津島は自分のピルケースに入った薬を疑うことなく服用するだろう。処方箋通りの薬だと思って。
朔のキーボード操作だけで完結する処理だった。
津島の死は計画通りに起きた。木曜日の夜、自宅で。急性心不全。持病の狭心症を抱えていた男の突然死として処理された。ニュースにはならなかった。元公安の幹部とはいえ現在は民間人で、報道価値はない。
その夜、朔は嶺と一緒にテレビを見ていた。バラエティ番組が流れていて、嶺は見ていないのに音を流していた。嶺がテレビの音を流すのは、沈黙を埋めるためだと朔は知っている。嶺は沈黙が苦手なわけではないが、朔との間に沈黙が長く続くと、嶺の方が落ち着かなくなることがある。朔はどれだけ黙っていても平気な人間だが、嶺はそうではない。
朔はソファの端に座って、スマートフォンを触っていた。嶺は反対側の端で、マグカップにウイスキーを入れて飲んでいた。今日は一杯目だ。
「朔」
嶺がソファの反対側から声をかけた。テレビのバラエティ番組の笑い声がリビングに流れていて、嶺の声はその合間に入り込む低い音だった。朔は嶺が声を出す前に、嶺の身体が微かにこちらを向いたことを感じ取っていた。ソファのクッションに伝わる振動の変化で。
「なに」
「明日、依頼の件で霞ヶ関に行く。お前も来るか」
嶺のマグカップがローテーブルに置かれた。ウイスキーの残りが少ない。嶺は一杯目をゆっくり飲む。今日のペースはいつもより遅い。津島のことを考えているのか、あるいは朔のことを。
「行かない。面倒」
朔がスマートフォンの画面を見たまま答えると、嶺の呼吸のリズムがほんの僅か変わった。溜息の手前の、短い吸気。
「お前は面倒としか言わないな」
嶺の声にほんの僅かな溜息が混じっていた。呆れているのか、それとも予想通りの返答に安心しているのか。朔にはその区別がつかない。嶺の目が朔のソファの上の姿勢を一瞥して、戻った。
「面倒なんだもん。俺、外に出なくても仕事できるし」
「外に出ろ。日光を浴びろ。ビタミンDが足りてない」
嶺がマグカップを手に取り直して、残りのウイスキーを一口飲んだ。嶺がビタミンDの話をするのは、本当に朔の日光不足を心配しているときと、朔を外に連れ出す口実が欲しいときの二種類がある。今日のは後者だろう、と朔は嶺の声の温度で判断した。嶺は朔と一緒に外出したいのだ。
「嶺、それ先月も言った」
「先月から改善されてないからだ」
そんな会話の後、嶺がテレビのチャンネルを変えて、ニュース番組に切り替えた。津島の死は報じられていなかった。朔はスマートフォンの画面を見たまま、テレビの音声だけを聞いていた。
翌朝の食事の席で、嶺のスマートフォンが鳴った。嶺は短い通話を終えて、コーヒーのマグカップを手に取った。
「津島が死んだ」
嶺の声は平坦だった。感情を排した、報告の声。けれど嶺がマグカップを持つ手の指先が白くなっていることを、朔は見ていた。握る力が強い。嶺の中で、何かが揺れている。
「ふーん」
朔は自分の声が完全に平坦であることを確認した。関心がないのではなく、本当に何の感情も動いていなかった。津島が死んだということは、嶺の周囲から最大の脅威が除去されたということだ。それ以上の意味は朔の中にない。
「心臓発作だそうだ」
嶺がコーヒーを一口飲んだ。飲み方がいつもより速い。嶺が速く飲むのは、口の中に何かを入れることで言葉を止めているときだ。言いたいことを飲み込んでいる。
「持病あったんでしょ」
「……ああ」
嶺はコーヒーを飲んだ。朔はトーストを齧った。
嶺は「偶然か」と聞かなかった。何も聞かなかった。
二人の間に、いつもの朝と同じ沈黙があった。トースターの余熱がちりちりと冷める音。冷蔵庫のコンプレッサーの低い振動。窓の外を走る車の音。日常の音の層が二人の間に降り積もっていく。
嶺はマグカップをテーブルに置いて、朔を見た。朔はトーストの最後のひとかけらを口に入れて、嶺を見返した。嶺の目の奥にあるものが、朔には読めなかった。怒りでも悲しみでもない。もっと静かな、もっと深い何か。
嶺は何も言わずに立ち上がり、食器をシンクに持っていった。洗い物をしながら、朔に背を向けている嶺の肩甲骨のあたりが、微かにこわばっていた。
朔は自分の手を膝の上で見た。何にも触れていない手。キーボードの上だけで七人の人間を消した手。




