#4 反復
嶺が朔の頭を撫でる回数は、一定ではなかった。
朔が最初にそのパターンに気づいたのは、三人目を処理した後のことだ。嶺の周辺で不審死があった翌日、嶺が朔の頭を撫でる回数が増える。普段は一日に二、三回のところが、四回、五回になる。通りすがりに、用もなく、ぽんと朔の頭に手を置く。朔がデスクに向かっているとき、朔がソファで仮眠しているとき、朔が食事している時。
それが嶺なりの確認行為であることは、朔にも感覚的に理解できた。朔がまだここにいることを手のひらで確かめている。あるいは、朔がまだ「こちら側」にいることを。
嶺の手のひらの下で、朔の身体が微かに硬くなることがある。コンマ数秒の硬直。嶺が気づいているのかどうかは、朔にはわからない。
五人目を殺した後から、その硬直が長くなった。嶺に触れられるたびに、胸の奥を針が刺す。殺しに対する痛みではない。嶺の前で何食わぬ顔をしていること、嶺の信頼に嘘で返していること、その一点にだけ朔の感覚は反応する。
嶺の手のひらに擦り寄りたい。でも、嘘をついたまま擦り寄ることが、何か、朔の中の壊れかけた部分に障る。名前のつけようがない不快感。自分の中にそんな回路があることすら、朔には不思議だった。
*****
ある日曜日の昼、朔はリビングのソファでノートパソコンを開いていた。嶺は隣のソファに座って文庫本を読んでいる。窓から差し込む冬の日差しが嶺の手元だけを白く照らしていて、残りの部屋は薄暗かった。暖房の効いたリビングの空気はあたたかく、乾燥していて、加湿器が微かに水蒸気を吐き出す音がしている。
嶺の文庫本のページを繰る音が、等間隔で聞こえる。朔はノートパソコンの画面を見ているふりをして、実際にはその音を数えていた。嶺の読書速度は安定している。一ページあたり約四十秒。乱れがない。それが朔を安心させる。
「朔」
嶺が文庫本のページに指を挟んだまま声をかけてきた。嶺が読書中に声をかけてくるのは、読書に集中しきれていないときだ。ページを繰る間隔が安定しているのに読書を中断するのは、朔のことが気になっているということだった。
「なに」
「飯、どうする」
嶺の声は穏やかだった。穏やかだが、奥に薄い疲労が混じっている。朔はそれを声の響きの厚みで感じ取った。嶺が疲れているとき、声はほんの僅かに薄くなる。響きが減る。
「なんでもいい」
「なんでもいいっていうやつに限って出したものに文句言うんだ」
嶺が文庫本を膝の上に伏せた。背表紙が上を向いている。嶺は本を伏せるとき、常にページの折り目がつかないように気を遣う。ドッグイヤーをつけているのを朔は一度も見たことがない。
「言わないし」
「先週のカレーに入れたナス、どけてただろう」
嶺の視線が朔を捉えた。朔は嶺の視線から、呆れと微かな愛着を同時に読み取った。嶺が朔の偏食を指摘するとき、嶺の目の奥には叱責ではなく「こいつはこういうやつだ」という諦めに似た受容がある。
「あれは……ナスが嫌いなんじゃなくて、カレーに入れるのが嫌なだけ」
「面倒くさいやつだな」
嶺は文庫本を膝の上から避けて立ち上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫を開ける音。引き出しを開ける音。まな板に何かを置く音。
嶺がキッチンに立つとき、朔は嶺の後ろ姿を見る癖がある。見ているというより、視界の端に嶺の輪郭を置いておく、という方が正確かもしれない。嶺がそこにいることを確認するための行為で、意識的にやっているわけではなかった。
嶺が包丁で何かを刻む音がリビングに届く。規則的な、とん、とん、という音。嶺が包丁を使う音は朔にとって安全な音のひとつで、その音がしている間は嶺がこの空間にいて、朔のために何かを作っていて、世界は正常に稼動しているということだった。呼吸が少しだけ深くなる。そういう身体の変化の理由を朔は説明できないが、嶺がいるときといないときで自分のバイタルが変わることは、データとして把握していた。
ノートパソコンの画面に目を戻した。画面にはダークウェブのフォーラムが表示されている。次の標的の行動パターンを分析するための情報収集。嶺の元上官の直系の系列にいた元政治家の資産管理会社の顧問弁護士。嶺の事務所が保護している内部告発者に対して、クライアント企業の代理人として告発の取り下げを迫ってきた男だ。
朔の頭の中では、この男の医療記録、処方薬の種類、通勤ルート、自宅のスマートホームシステムの脆弱性が、すでにマッピング済みだった。男の自宅の給湯システムはIoT対応で、スマートフォンから遠隔操作ができる。そのシステムのセキュリティは脆弱で、朔なら二十分で侵入できる。給湯温度の上限設定を解除し、入浴中に急激な温度変化を起こせば、ヒートショックによる心臓発作を誘発できる。五十代後半、高血圧の持病あり。入浴中の突然死として処理される。
嶺がキッチンから声をかけてきた。
「朔。パソコン閉じて手伝え。玉ねぎ剥くだけでいい」
嶺の声がキッチンから飛んできた。包丁を置く音が先に聞こえて、それから声。嶺はいつも動作を完了させてから声を出す。手を動かしながら喋ることを嶺はしない。一つずつ、一つずつ。
「俺に料理させるの」
朔がノートパソコンの蓋を閉じながら返すと、嶺がカウンター越しにちらりと朔を見た。その視線に、朔がパソコンを閉じたことへの安堵が微かに混じっていた。嶺はいつも朔がパソコンを開いているときに不安を感じている。朔がパソコンの前で何をしているか、嶺は知らないふりをしている。
「玉ねぎ剥くのは料理じゃない」
朔はノートパソコンを閉じてキッチンに向かった。嶺がまな板の横に玉ねぎを二個置いている。朔は言われるままに皮を剥いた。嶺が隣で人参を刻んでいる。二人の肩が時々触れるほどの距離。
朔の指は細くて器用だ。玉ねぎの皮を剥くのは得意ではないが、不器用でもない。剥き終わった玉ねぎを嶺に渡すとき、嶺の手のひらに朔の指先が触れた。
一瞬の接触。嶺の手は温かくて、包丁を握っていた分だけほんの少し湿っていた。
朔は手を引いた。引く必要はなかったのに、反射的に引いた。嶺がちらりと朔を見た。
「どうした」
嶺の声が低く短かった。朔の動きの異変を、嶺は包丁を握ったまま感知している。嶺の手が包丁の上で一瞬止まり、朔の方を向いた。視線が朔の手を追っている。
「なんでもない。玉ねぎ沁みた」
朔は自分の声が平坦であることを確認した。嘘をつくとき、朔の声は平坦になる。嶺に殺しの嘘をつくときと同じ声だ。こんな些細な場面で、同じ技術を使っている自分に気づいて、朔の胸の奥が小さく軋んだ。
「そうか。目、洗ってこい」
嶺の声はすぐに柔らかさを取り戻した。朔の嘘を信じたのか、信じたふりをしたのか。嶺の横顔からは読み取れなかった。
「大丈夫」
朔はキッチンを離れてソファに戻った。自分が嶺の手から反射的に引いたことの意味を、朔は考えないようにした。考えてもわからないことだった。
嶺に触れたい、と朔は思う。嶺の手のひらに自分から触れたい。嶺が毎日何度も朔の頭に置いてくれる手のひらを、朔の方から取って、握りたい。冬の夜に嶺が朔の手を温めてくれたように、朔も嶺の手を温めたい。
なのに、身体が拒否する。嶺に触れようとすると、胸の奥の針が刺す。嘘をついたまま嶺に触れることは何かが違うと、朔の中の壊れかけた回路が告げている。
嶺が一人でキッチンに立って残りの調理を進めている音を聞きながら、朔は自分の右手を左手で握った。嶺の手のひらの温度が、まだ指先に残っていた。自分の手は冷たくて、自分で握っても温まらなかった。
*****
六人目を処理した日、嶺から問いかけはなかった。
テレビのニュースで入浴中の突然死が報じられることもなく、朔の処理はニュースにすらならなかった。元政治家の資産管理会社の顧問弁護士が、自宅の浴室で亡くなった。ヒートショックによる心臓発作。事故死。
朔はその夜、嶺の向かいでパスタを食べていた。嶺がにんにくとベーコンのペペロンチーノを作り、朔が「辛い」と文句を言い、嶺が「唐辛子を入れすぎた」と珍しく非を認め、朔が水を三杯飲み、嶺がコップに水を足してやりながら「お前は辛いものが本当に駄目だな」と言い、朔が「嶺が入れすぎたんでしょ」と返し、嶺が「次からは控える」と言った。控えると言いながら次もまた辛いものを作るのだろう、嶺の味覚は朔より辛さに強くて、毎回その差を忘れる。
食後、嶺が食器を洗い、朔がソファに横になっているとき、嶺がカウンター越しに声をかけてきた。
「朔。明日、スーパーに寄ってくるが、なにか欲しいものあるか」
嶺がカウンター越しに声をかけてきた。洗い物を終えたばかりの手でタオルを畳んでいる。嶺のタオルの畳み方は几帳面で、端と端をきっちり合わせてから三つ折りにする。その動作を手元を見ずにやっている。視線は朔に向いている。
「ない」
「カップ麺はもう買わないからな」
嶺の声に「通告」の色が混じった。相談ではなく決定事項として伝えるときの声だ。嶺が朔の食生活に介入するとき、この声になる。
「なんで」
「塩分。この前の健康診断でお前、血圧の数値が微妙だっただろう。十九で血圧を心配されるなんて恥ずかしいと思え」
嶺が畳んだタオルをフックにかけた。動作が丁寧で正確なのに、声には苛立ちが滲んでいる。朔の健康に関することで嶺が苛立つのは、朔自身が自分の身体を気にしないからだ。朔は自分の身体を装置として扱っている。壊れたら直す、壊れるまで気にしない。嶺はそれが耐えられない。
「別に恥ずかしくない。っていうかあの検診、嶺が無理やり連れていったやつじゃん」
「連れていかなかったら一生行かないだろう」
嶺がカウンターに両手をついて、朔を正面から見た。嶺が正面から見るときの視線は、元公安の調査官の視線と同じ圧がある。相手の反応を一切見逃さないために、正面を取る。朔はその視線を受け止めた。朔はこの視線を怖いとは思わない。嶺が自分のために向ける圧だと知っているから。
「行かなくても死なない」
「死ぬ前に俺が怒る」
そんなやりとりを交わしながら、朔は嶺がシンクの水を止めて手を拭く音を聞いていた。嶺の生活管理は徹底していて、朔の食事内容から睡眠時間から入浴頻度まで把握している。朔がそれを鬱陶しいと感じたことはなかった。鬱陶しいと感じる回路が朔にはないのかもしれないし、嶺に管理されている状態を朔の身体がデフォルトとして受け入れてしまっているのかもしれない。
嶺は何も聞かなかった。「偶然か」とも「お前はどう思う」とも言わなかった。
朔の胸の奥で、針の痛みの代わりに、別のものが生まれた。痛みではなく、冷たい重さ。胃の底に錘を入れられたような感覚。嶺が問いかけを止めたということは、もう自分を騙す努力をやめたということだ。嶺は知っている。知っていて、黙っている。
食後、嶺がウイスキーのグラスを手にカウンターに寄りかかった。朔はソファに座って嶺の方を見ていた。
「嶺」
朔はソファの端に背中を預けたまま、嶺を見上げた。嶺のシルエットがカウンターの照明を背にして、逆光で暗くなっている。グラスを傾ける嶺の手首の角度が、いつもよりゆっくりだった。酒を味わっているのではなく、グラスの中の液体を見つめている。嶺の意識が酒ではなく、別のどこかに向いていることが、手首の動きでわかった。
「なんだ」
嶺の返事は短く、声のトーンは変わらなかった。けれど返事が来るまでにほんの一拍の間があった。嶺が朔の声に意識を戻すのに、一拍かかった。それは嶺が何かを考え込んでいる証拠だった。
「今日、なんかあった?」
「別にない。なぜ聞く」
嶺がグラスを口元から離した。唇が微かに湿っている。ウイスキーの匂いが嶺の呼吸と一緒にリビングの乾いた空気に混じった。
「嶺が酒飲む日は、大体なんかあった日だから」
嶺はグラスの中のウイスキーを見つめた。琥珀色の液体がキッチンの照明を受けて、微かに光っている。嶺は何も言わなかった。グラスを口に運んで一口飲み、朔の頭をぽんと叩いてから、自分の部屋に引っ込んだ。
朔はソファの上で、叩かれた頭の感触を手で触った。嶺の手のひらの圧が残っている。いつもより強かった。
嶺が何を考えていたのか、朔にはわからなかった。嶺の感情を読み取ることは、朔にとって世界で最も難しい計算だった。
翌日、嶺は事務所で普段通りに仕事をしていた。朔も普段通りにソファでノートパソコンを叩いていた。柚木がコーヒーを淹れて、水谷が電話対応をして、嶺が書類に目を通している。蛍光灯の白い光、エアコンの送風音、キーボードを叩く音。すべてがいつも通りで、誰も昨夜嶺がウイスキーを二杯飲んだことなど知らない。
昼になって、嶺が朔の前に弁当箱を置いた。
「食え」
嶺が弁当箱を朔の目の前に置いた。弁当箱は嶺が使っている素朴なアルミ製ので、蓋の角が少し凹んでいる。嶺が何年も使い続けているものだ。
「あとで」
「今食え」
嶺の声が一音だけ低くなった。苛立ちではなく、朔の食事を後回しにすることに対する嶺なりの焦りだ。嶺は朔が食事を抜くことを、他のどんな問題よりも深刻に受け止める。
「お前が昼飯を食わなかったら夜まで何も食べないだろう。それで夜中にカップ麺を食う。それを俺が見つけて怒る。毎回同じパターンだ。今食え」
珍しく長い台詞だった。嶺が三文以上を続けて喋ることは滅多にない。それだけ、朔の食事の問題は嶺にとって感情が動く案件なのだ。嶺の目が朔のデスクの上を走っている。ペットボトルの水しかない。朝から水しか飲んでいないことを確認したのだろう。嶺の口元がきゅっと引き結ばれた。
「……言い方がこわい」
「事実を述べている」
朔は弁当箱の蓋を開けた。鮭フレークのおにぎりが二個と、卵焼きと、ブロッコリー。嶺が朝、朔が寝ている間に作ったのだろう。
「嶺。これ、嶺の分は」
朔はおにぎりを手に取りながら、嶺のデスクの上を見た。コンビニのレシートが一枚、書類の間に挟まっている。おにぎりとお茶の文字が見えた。
「俺はコンビニで済ませた」
嶺の声は何でもないことのように平坦だったが、朔には引っかかった。朔にはコンビニ飯を禁じておいて、自分はコンビニで済ませている。嶺にとっては朔の食事の質が最優先であり、自分の食事は二の次だということだ。朔はそれを不公平だと思う。思うが、嶺にそう言っても聞き入れられないことも知っている。
「それってずるくない? 俺にはコンビニ飯食うなって言うくせに」
「お前と俺は違う。お前は放っておいたら偏食で倒れる」
嶺の声に一切の迷いがなかった。嶺にとってこれは議論の余地がない事実であり、朔がどう反論しても覆らない種類の判断だった。嶺のこういうところを、朔は……なんと呼べばいいのかわからないが、胸の奥が温かくなる。
「倒れない」
「去年倒れただろう」
嶺がデスクの椅子を引いて座りながら、視線だけを朔に向けた。その視線の中に「反論してみろ」という無言の圧がある。朔は嶺のこの視線に勝ったことがない。
「あれは徹夜明けだったから──」
「食え」
朔はおにぎりを一口齧った。鮭の塩気がちょうどいい。嶺の作るおにぎりは、いつも同じ形で、同じ味で、同じ量の鮭が入っている。均一な品質。嶺らしい。
柚木が向かいのデスクから朔と嶺のやりとりを聞いていて、小さく笑った。
「嶺さん、朔くんには甘いんだか厳しいんだかわからないですよね」
柚木の声には笑みが含まれていた。柚木は嶺と朔のやりとりを見るのが好きらしいということを、朔は柚木の口元の角度で察している。柚木が嶺と朔を見ているとき、口の端がほんの少し上がる。
「うるさい」
嶺の返事は短く、平坦だった。朔に怒鳴るときの声とはまったく違う。嶺が声のトーンを崩すのは朔に対してだけだということを、この一言が証明していた。柚木に対しては苛立っていても声は崩れない。感情の制御が維持されている。
「甘いと思います」
柚木が重ねた。水谷がデスクの向こうで小さく笑っているのが朔の耳に入った。
「黙って仕事しろ」
嶺が柚木にそう返す声は、朔に怒鳴るときとはまったく違う声だった。平坦で、落ち着いていて、感情の起伏がない。嶺が声のトーンを崩すのは朔に対してだけで、他の人間にはどんなときでもこの声で話す。
朔はおにぎりを食べながら、嶺がデスクに戻って書類を読んでいる横顔を見ていた。嶺の横顔は、朔にとって世界で最もデータ量の多い風景だった。角度ごとの光の当たり方、時間帯ごとの表情の微差、体調やストレスの度合いによる肌の色の変化。朔は嶺の横顔を五年間見続けてきた。データは膨大に蓄積されている。それでも嶺の感情を正確に読み取ることはできない。
人間は、データだけでは理解できないのだ。嶺が朔に教えてくれたことの中で、それが一番大きな教えだったかもしれない。




