#3 偶然
二人目を処理したのは、最初の殺害から二週間後のことだった。
嶺の元上官の側近で、民間の警備会社の役員に転じていた男。嶺のもとに「相談がある」と偽って接触し、実際には嶺を旧い世界に引き戻すための偵察をしていた。朔は男が事務所に来た日に、男の素性を二十分で洗い出した。嶺がトイレに立ったわずかな時間で、男のスマートフォンの通信ログを傍受し、直近の通話相手と送受信メールの内容から、嶺の元上官との関係を特定した。
男には二型糖尿病の持病があった。通院先の電子カルテシステムに侵入するのに三十分。処方されているインスリンの種類と用量を把握した後、かかりつけ薬局の調剤管理システムに入り、次回の処方データの用量を書き換えた。過量のインスリンが処方され、男は通常通りに自己注射し、低血糖ショックで死亡した。独居だったため発見は翌日。死因は自己注射の過誤。事故死として処理された。
朔のキーボード操作だけで完結した処理だった。朔の指先以外は何にも触れていない。
その夜も嶺と普通に食事をした。水谷からもらったという惣菜のコロッケを嶺が温め直して出し、朔は三個食べて嶺は二個食べた。朔がコロッケにソースをかけすぎるのを嶺が咎め、朔が「味がないよりまし」と反論し、嶺が「塩分を取りすぎだ」と説教した。
翌朝、嶺が朝食の席でコーヒーを飲みながら呟いた。
「最近、俺の周りで人が死にすぎる気がする」
嶺はマグカップを両手で包んで、朔の方を見ずにそう言った。キッチンの窓から差し込む十一月の朝の光が、嶺の横顔を白く照らしている。
「偶然じゃない?」
朔はトーストを齧りながら答えた。声は平坦だった。
「偶然か」
嶺は一拍の間を置いて、もう一度コーヒーを啜った。
「ああ……偶然だろうな」
自分に言い聞かせるように繰り返して、嶺はその話題を終わりにした。
朔の胸の奥で、前回と同じ針の先ほどの痛みが走った。同じ場所を、同じ針が刺す。殺した男に対しては何の機微も感じないのに、嶺に嘘をつくという行為だけが、朔の中の壊れかけた良心に触れる。
嶺と暮らし始めた最初の冬のことを、朔はよく覚えている。
犯罪組織と施設しか知らなかった朔が、嶺のマンションで迎えた十二月。暖房の使い方がわからなくて、パーカーの上からブランケットを巻いてソファの上で丸まっていた。夜中の二時に嶺がリビングの明かりをつけたとき、朔はまだ起きていた。寒くて眠れなかったのだ。
嶺はリモコンを朔に渡して暖房の操作を説明した。それだけで十分だったはずなのに、嶺は暖房が効くまでの間、朔の横に座った。
「手を出せ」
言われるままに手を出すと、嶺が朔の両手を自分の手のひらで包んだ。嶺の手のひらは大きくて、朔の手がすっぽり入った。犯罪組織にいた頃、誰かに手を握られたことはなかった。施設でも、職員は業務として朔に触れることはあっても、手を握ることはなかった。
嶺の体温が指先に移っていく感覚を、朔は初めて知った。人に触れられて温かいということを、十三年間知らなかった。
「これから寒かったら暖房つけろ。つけかたがわからなかったら俺に言え」
嶺の声は静かだった。叱っているのではなかった。嶺の手のひらの温度が朔の指先に移っていく速度と同じくらい、ゆっくりとした声だった。
「……うん」
朔の返事は小さかった。声を出すと、嶺の手のひらの温度に集中できなくなりそうだったから。
「いい子だ」
そう言って嶺が朔の頭を撫でた。
あのときの手のひらの感触を、朔は五年以上経った今でも正確に覚えている。データではない形で、身体が記憶している。朔の中で、嶺の手のひらの記憶だけが、データベースに保存できない種類の情報として存在していた。
*****
三人目。嶺が保護している内部告発者に圧力をかけてきた元公安の幹部。朔は男が使用しているCPAP装置のメーカーのクラウドサーバーに侵入し、ファームウェアのアップデートに悪意のあるコードを仕込んだ。装置は一見正常に動作するが、特定の呼吸パターンを検知したときに加圧を停止する。男は睡眠中に呼吸が止まり、突然死として処理された。
四人目。嶺の過去の任務で犠牲になった協力者の遺族に接触し、遺族を使って嶺を脅迫しようとしていた元政治家の秘書。朔はその男が毎週使っているホテルの予約システム経由で、部屋番号と宿泊日を特定した。ホテルの空調管理システムの脆弱性を突き、男が宿泊する部屋だけに一酸化炭素を流入させた。事故死。
一人消すたびに、嶺が「偶然か」と問いかける。朔が否定する。嶺が自分を納得させる。
繰り返しだった。
三人目を殺した週、嶺は朔を連れて深夜のコンビニに行った。
嶺が急にアイスが食いたいと言い出したのだ。朔は嶺がそういうことを言うのを初めて聞いた。嶺は甘いものをほとんど食べない人間だった。深夜一時、コートを羽織って二人で近所のコンビニまで歩いた。十二月の夜の空気は冷たくて、吐く息が白かった。
コンビニの蛍光灯が夜道に四角い光を落としている。嶺はアイスの棚の前で腕を組んで、三十秒ほど真剣な顔で選んでいた。元公安の調査官がアイスの前で悩んでいる姿は、朔にとっては奇妙で、同時にどこか安心する光景だった。
「嶺、ハーゲンダッツにしなよ」
朔が棚の上段を指差すと、嶺は視線だけを上に向けて、それからまた手前のスーパーカップの列に戻した。蛍光灯に照らされた嶺の横顔が、コンビニの白い光の中で妙に生活感があった。
「高い」
「俺が出す」
朔が財布を出そうとすると、嶺の手が朔の手首を軽く押さえた。ほんの一瞬の接触で、すぐに手は離れた。嶺の指先は冷たかった。外を歩いてきた分だけ冷えている。
「お前に金は出させない。どこから出てきた金かわからないだろう」
嶺の声には冗談の響きはなかった。朔の収入源に対する嶺の警戒は常に一定で、緩むことがない。朔が合法的な収入だけで生活していることを、嶺は信用しきれていない。
「バイト代だし」
「データ入力の時給で生活できないだろう」
嶺がスーパーカップのバニラ味を手に取った。迷わない。嶺は食べ物に関しては直感で選ぶ。仕事では慎重で分析的なのに、食べ物だけは迷わない。それが朔には不思議だった。
「できてるし。嶺がメシ作ってくれるから」
嶺は結局スーパーカップを選んで、朔にはチョコモナカを買った。朔は頼んでいなかったが、嶺は朔がチョコモナカを好きなことを知っていた。以前コンビニに一人で行ったとき、朔が買ったアイスの袋を嶺が見ていたのだろう。
帰り道、並んで歩きながらアイスを食べた。嶺が大の男が深夜にアイスを食い歩きしているのは情けない姿だな、と言い、朔が嶺は情けなくないよ、と返した。
「お前は俺に甘いな」
嶺がスーパーカップのスプーンを口にくわえたまま言った。白い息と一緒に笑いが混じった声だった。嶺が朔に対して「甘い」という言葉を使うのは珍しい。大抵は「生意気」か「口の減らないガキ」だ。冬の夜道の冷たい空気の中で、嶺の声は普段よりほんの少しだけやわらかく聞こえた。
「甘くない。事実を言ってるだけ」
嶺は小さく笑った。朔の横を歩く嶺の歩幅に合わせて、朔は少しだけ歩幅を広くしていた。嶺は気づいていないだろう。朔も意識してやっているわけではない。ただ、嶺と歩調が合うと、朔の中の何かが安定する。
アイスを食べ終わって、マンションのエレベーターに乗った。嶺が朔の口元を見て、「ついてる」と言って、親指で朔の口の端のチョコレートを拭った。
一瞬の接触だった。嶺の親指の腹が朔の唇の端に触れて、離れた。嶺はそのまま視線をエレベーターの階表示に戻した。なんでもないことのように。
朔は嶺の親指が触れた場所に、じわりと熱が残っているのを感じた。
四人目の後、嶺の問いかけ方が少し変わった。「偶然か」ではなく、「お前はどう思う」になった。言葉が変わっただけで構造は同じだ。朔が「偶然でしょ」と答えると、嶺は黙って頷く。でも、その黙り方が前より長くなっていた。
嶺は偶然だとは思っていない。朔にはそれがわかった。偶然にしては出来すぎている、嶺の周辺で、嶺に関わりのある人間ばかりが死んでいる、そのことに嶺は気づいている。
気づいていて、問い詰めない。
嶺が問い詰めないのは、朔を信じたいからだ。朔の言葉を信じることで、嶺は自分の疑いを封じ込めている。信頼が蓋になっている。朔が「大丈夫」と言えば、嶺はその蓋を閉じて、中を見ないようにする。
朔はその構造を理解していた。理解していて、利用していた。利用しているという自覚が、朔の中にあったかどうかは定かではない。ただ、嶺に嘘をつくたびに胸の同じ場所が痛むことだけが蓄積されていった。
*****
五人目を処理した夜、朔は洗面台の前に立っていた。
蛇口から水を出して、手を洗った。石鹸をつけて、指の間まで丁寧に。爪の先まで。朔はこんな洗い方を普段はしない。蛇口の水をざっとかけて終わりにするのがいつもの朔だった。
手を見た。白くて細い、傷のない手。キーボードを叩くための手。何にも触れていない手。
なのに、洗っても洗っても、何かがこびりついている気がする。
朔はその感覚を言語化できなかった。汚れている、とも思わない。ただ、この手で嶺の頭を撫でたら嶺を汚すのではないかという、根拠のない予感のようなものが胸の底にあった。
嶺が撫でてくれるのは構わない。嶺の手のひらは朔の髪の上で重くて温かくて、朔の中のあらゆるパラメータを安定させる。でも、朔からこの手を伸ばして嶺に触れることは、何かが違うと感じる。何が違うのかはわからない。
棚に嶺が買ってきたハンドクリームがある。秋口になると朔の手が荒れることを嶺が気にして、黙って買い足してくる。朔は面倒くさくて使わない。でも捨てもしない。嶺が朔の手のことを気にかけているという事実だけが、そこに形を持って存在していることが、朔にとっては十分だった。
先週、嶺が朔のささくれに気づいた。朔が気にもしていなかった右手の人差し指の爪の横に、小さなささくれができていて、そこから微かに血が滲んでいた。嶺は朔の手を取って、指先を確認して、棚からばんそうこうを出して貼ってくれた。
「爪切りを使え。自分で噛むな」
嶺の声は低く、叱るというより諭す口調だった。朔の指先を持つ嶺の手は安定していて、力の加減が均一だった。壊れやすいものを扱うときの嶺の手つき。嶺は朔の指を、精密機器でも扱うように丁寧に持っていた。
「噛んでない。勝手にできた」
朔が言い訳をすると、嶺の眉が僅かに動いた。嘘を見抜いたときの微細な反応だ。嶺は朔の嘘を、大きいものも小さいものも同じ精度で検知する。ただし、検知した後の対応が違う。生活上の小さな嘘は正面から指摘する。
「嘘つけ。お前は考え事をしてるとき無意識に爪を噛む。前からだ」
朔はそんな癖があることを自覚していなかった。嶺に言われて初めて気づいた。嶺は朔のことを、朔自身よりもよく見ている。
嶺がばんそうこうを貼ってくれた指先を、朔はしばらく見つめていた。嶺の指が朔の指に触れた時間は十秒もなかっただろう。でもその十秒の間の、嶺の指先の圧と温度が、朔の記憶に残った。嶺は朔の指をとても丁寧に扱った。壊れやすいものを持つときの手つきで。
蛇口を止めた。タオルで手を拭いて、洗面所を出た。
廊下の向こうからリビングのテレビの音が微かに聞こえる。嶺がいる。嶺がいつもと同じようにウイスキーのグラスを傾けて、テレビの画面を見ていないのに見ているふりをしている。
朔はリビングに向かった。ソファの端、嶺から離れた位置に座った。二人の間にいつもの一人分のスペースがある。




