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きれいな手で  作者: 灯屋 いと


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2/7

#2 体温

 嶺と朔が暮らしているのは、事務所の最寄り駅から三つ先のマンションの七階だった。築二十五年の3LDK。嶺が生活空間のすべてを管理している。

 朔の部屋はモニターが三枚とデスクトップパソコンが二台、ノートパソコンが一台、床にはケーブルが蛇のように這い回っていて、嶺が片付けろと怒鳴っても一向に改善されない。嶺の部屋は対照的に物が少なく、ベッドと小さなデスクと本棚だけだった。

 リビングはカウンターキッチンに繋がっていて、ダイニングテーブルに椅子が二脚。嶺が使う方の椅子の背にはいつも上着がかかっている。朔は椅子に座るよりソファに沈み込んでいることの方が多かった。

 その夜、嶺はキッチンに立っていた。フライパンで鮭を焼きながら、隣のコンロでは味噌汁の鍋が湯気を上げている。換気扇の音と、鮭の皮がじりじりと焦げる音。嶺は料理をするとき無言になる。朔はリビングのソファに寝転がり、スマートフォンの画面を見ていた。

「朔。飯できた」

 キッチンから嶺の声がした。換気扇の回転音に混じって、コンロの火を落とす乾いた音が続く。嶺の声は平坦だったが、語尾がいつもより短い。朔の耳はその零コンマ数秒の差を拾っていた。空腹なのか、あるいは朔がまたソファで寝転がっていることへの苛立ちの初動か。

「ん」

「来い」

 嶺のスリッパがフローリングを叩く音が、キッチンの奥から少しだけ近づいた。まだカウンターの向こう側にいる。朔はスマートフォンの画面から視線を上げないまま、嶺の足音の間隔で嶺の機嫌の段階を測っていた。等間隔。まだ猶予がある。

「ん」

「スマホ置け」

 嶺の声が近くなった。カウンターから身を乗り出している気配がする。タオルで手を拭く動作が視界の端に入った。拭き方が荒い。鮭の油が飛んだのか、タオルの端に茶色い染みが見える。

「あと少し」

「今置け」

 声量は変わらない。変わらないのに、圧だけが一段上がった。蛍光灯の白い光の下で、嶺の影がソファの端まで伸びている。

「……ん」

 返事だけして動かない朔に、嶺がキッチンから出てきた。タオルを肩にかけ、腕を組んでソファの前に立つ。朔のスマートフォンの画面に嶺の影が落ちて、文字が読みにくくなった。

「朔」

 朔は嶺の足元を見た。スリッパのつま先が朔の方を向いている。嶺が朔の正面に立つとき、足のつま先は必ず朔を真っ直ぐ指す。他の人間に対しては、嶺は無意識に体を半身にずらす癖がある。朔にだけ、正面を向く。

「あと十秒」

「スマホをテーブルに置いて椅子に座れ。三回目だ」

 嶺の声のトーンが落ちた。普段の低い声からさらに一段低く、声量は変えずに圧だけが増す。他人に対して嶺がこの声を出すことはない。どんなに理不尽なクライアントの相手をしていても、水谷が仕事でミスをしても、嶺の声は常に一定だ。冷静で、平坦で、だからこそ凄みがある。

 朔にだけ、その制御が外れる。

「なんでキレてんの」

 朔がソファの上から嶺を見上げると、嶺の顎のラインが硬くなっていた。噛み締めている。嶺が噛み締めるのは怒りの制御をしているときだが、朔に対する怒りの制御は他人に対するそれとは質が違う。他人には制御が成功して声が平坦になる。朔に対しては制御が失敗して声が崩れる。

「キレてない。飯が冷める。来い」

 短い文が三つ。嶺の言葉が短くなるのは感情が圧縮されているときだ。長く喋る余裕がない。

「わかったって」

 朔はスマートフォンをソファのクッションの間に突っ込んで立ち上がった。嶺は踵を返してキッチンに戻り、味噌汁をよそっている。

 ダイニングテーブルに座ると、嶺が配膳した食事が並んでいた。鮭の塩焼き、味噌汁、冷蔵庫にあったらしいひじきの煮物、白飯。朔は箸を取って鮭を一口食べた。

「味濃い」

 朔が鮭をほぐしながら言うと、嶺の箸が一瞬止まった。止まって、すぐに動き出す。嶺は口の中のものを咀嚼し終えてから返事をする。食事中に口に物を入れたまま喋ることを嶺は絶対にしない。

「お前が薄味だと残すからだ」

 声は平坦だったが、視線が朔の皿の上に移った。朔がどれくらい食べたか確認している。嶺は朔の食事量を毎回目測で計っている。朔が普段の七割しか食べなかった日は、翌日の食事に朔の好きなものが一品追加される。朔はそのパターンに気づいていたが、嶺に指摘したことはなかった。

「残さないし」

「先週、肉じゃが半分残しただろう」

 嶺の記憶力は正確だった。朔が残したものの量まで覚えている。味噌汁の椀を手に取る嶺の指先が、微かに力んでいる。食事の話をしているときの嶺は、仕事の話をしているときより感情が表に出やすい。朔の食事に関することは、嶺にとって任務の中でも優先度が高い。

「あれは量が多かっただけ」

 短い言葉の応酬を交わしながら、二人は食事をした。テレビはついていない。嶺が食事中にテレビをつけることを好まないからだ。換気扇の低い唸り声と、箸が食器に当たる音だけがキッチンに響く。

 嶺は黙って食べている。嶺の食べ方はきれいだった。箸の持ち方も、口に運ぶ速度も、咀嚼の仕方も、育ちの良さが出ている。元公安の調査官になる前に何をしていた人間なのか、朔は詳しく知らない。嶺は自分の過去をほとんど話さない。朔も聞かない。聞かなくても、嶺の日常の動作の端々に、嶺がどういう人間であるかが滲んでいる。食器を丁寧に扱うこと、靴をきちんと揃えること、洗濯物を畳むときに角を合わせること。朔にはそういう習慣がない。施設では生活の「形」を教えてくれる人間がいなかったし、犯罪組織では衣食住は提供されるものであって自分で管理するものではなかった。

 嶺がそれを教えてくれた。箸の持ち方から、靴の脱ぎ方から、ゴミの分別から。嶺は嫌がりもせずに一つずつ朔に教えた。朔が覚えなくても怒鳴りはするが、見捨てはしなかった。

 朔にとって、この時間は世界の中で最も安定した時間だった。嶺が作った食事を、嶺と同じテーブルで食べる。それだけのことが、朔の一日の中で唯一、すべてのシステムが正常に稼動していると感じられる瞬間だった。朔はそれを「安心」と名づけることができない。名前はわからないが、身体が知っている。嶺の向かいに座って食事している時、朔の呼吸は安定し、心拍数は下がり、いつも微かに緊張している肩の筋肉が緩む。

「朔。箸の持ち方」

 嶺が箸を持つ手を止めて、朔の手元を見ていた。朔の箸の持ち方は中指の位置がずれている。嶺が何年も直そうとして、朔が一向に直さない持ち方だった。嶺の視線が朔の指先に注がれている。その視線の角度と圧を、朔は手の甲の皮膚で感じ取っていた。

「別にいいじゃん」

「直せと何度言った」

 嶺の声には諦めが混じっていない。何百回言っても諦めないのが嶺だ。声のトーンは初めて指摘したときと変わらない。嶺にとっては毎回が初めての指摘であるかのように、同じ熱量で朔に言う。

「百回くらい」

「百一回目だ。直せ」

 朔は嶺に言われるまま箸を持ち直した。すぐにまた元の持ち方に戻ることを二人とも知っていて、それでも嶺は毎回指摘し、朔は毎回一度だけ従う。そのやりとり自体が、もう何年も変わらないまま続いている小さな儀式のようなものだった。

 食事を終えて、朔がマグカップにインスタントコーヒーを入れようとすると、嶺がカウンター越しに手を伸ばしてマグカップを取り上げた。

「夜にコーヒー飲むな。寝れなくなるだろう」

 嶺の手がカウンターの向こうから伸びてきて、朔のマグカップをさらった。嶺の手のひらは大きくて、マグカップの取っ手を使わずに側面を直接掴む。朔はその手の動きを目で追った。嶺の手首の内側に、古い傷痕が薄く残っている。公安時代のものだろう。朔はその傷痕がいつできたのかを知らない。聞いたこともない。

「別に俺、何時に寝たって一緒だし」

「一緒じゃない。明日は朝から依頼がある」

 嶺は朔のマグカップに白湯を注いで返してきた。朔はそれを受け取りながら、嶺の指先が自分の指にほんの一瞬触れたことに意識が引っかかった。マグカップの受け渡しで指が触れることなど、日常的にある。なのに、朔はその一瞬の接触を、身体のどこかに保存してしまう。嶺の指先の温度、皮膚の硬さ、触れていた時間の短さ。

 嶺はそのことに気づいていない。朔も、自分がなぜそんなデータを保存しているのか、わからない。

 白湯を飲みながら、朔は嶺がシンクで洗い物をしている後ろ姿を見ていた。キッチンの蛍光灯の下で、嶺の広い肩が左右に小さく揺れる。水の音が途切れて、嶺がスポンジで食器を擦る音に変わり、それからまた水の音になる。嶺の手つきは正確で無駄がなく、同じ食器を二度洗うことはない。一枚一枚を確認するように手で触れて、汚れが残っていないことを確かめてから水切りカゴに置く。元公安の男らしい、と朔は思う。どんな動作にも隙がない。料理も洗い物も、嶺にとっては任務のひとつなのかもしれない、朔の生活を維持するという任務の。

 嶺が朔を引き取った理由を、朔は正確には知らない。公安を切られた後、行き場をなくした保護監視対象の少年を個人的に引き取った、という事実だけがある。嶺がなぜそうしたのか、朔は嶺に聞いたことがなかった。聞く必要がなかったからだ。

 朔にとっての理由はひとつだった。嶺が、朔を初めて人間として扱った人間だから。犯罪組織にいた頃、朔は「道具」だった。処理能力の高いマシンとして扱われていた。嶺だけが朔を道具ではなく人間として見た。

 その一点だけで、朔の世界の中心は嶺になった。理由も理屈もない。朔の感情がまったく動かない人間の中で、嶺にだけ感情が動く。その非対称性を朔自身は理解していない。

 洗い物を終えた嶺がリビングに戻ってきて、カウンターに寄りかかりながらウイスキーのグラスを傾けた。嶺が酒を飲むのは週に二、三回で、いつもストレートでグラスに一杯だけ。

「朔」

 嶺がウイスキーのグラスをカウンターに置いた。グラスの底がステンレスの天板に当たる軽い音がして、琥珀色の液体が微かに揺れた。嶺は朔の方を見ていた。

「なに」

「風呂入ったか」

 嶺の声は落ち着いていたが、問いかけの形をした命令だった。朔はその違いを嶺の息継ぎの長さで判別できる。本当に聞いているときは息継ぎが長く、命令のときは短い。今のは短い方だった。

「まだ」

「入れ」

 二語。嶺の命令は短い。短いほど本気度が高い。朔は嶺の声の圧を肩で感じながら、ソファから動かなかった。

「あとで」

「今入れ」

 嶺の声のトーンが落ちかけた。肩が僅かに上がっている。苛立ちが声に出る直前の身体の兆候を、朔はもう五年分蓄積していた。朔は「はいはい」と立ち上がった。立ち上がるときに嶺の横を通り過ぎる。嶺がぽん、と朔の後頭部に手を当てた。通りすがりの、ほとんど無意識の動作だった。

 廊下を歩きながら、後頭部に嶺の手のひらの重さが残っている感覚を朔は確かめる。いつもより少しだけ強く押された気がした。気のせいかもしれない。

 脱衣所のドアを閉めて、服を脱いで、シャワーを出した。湯が温まるまでの数秒間、冷たい水が背中に当たる。その冷たさに慣れている。施設の風呂は常に生ぬるくて、熱い湯など出なかった。犯罪組織にいた頃は、シャワーを浴びる時間すら管理されていた。

 嶺と暮らし始めてから、朔は熱い湯を好きなだけ浴びられるようになった。嶺が「光熱費が上がっても構わない、お前が風呂を好きになってくれた方がいい」と言ったのを覚えている。朔が風呂を嫌がって三日に一度しか入らなかった頃の話だ。嶺はそれから毎日朔に「風呂入れ」と言い続けて、朔がそれに従うようになるまで半年かかった。

 湯が温まって、背中に熱い水が当たった。肩の力が抜ける。嶺がいるマンションの、嶺が管理している風呂場で、嶺が用意したボディソープで身体を洗う。髪を洗う。朔の生活のすべてが嶺の手の中にある。それを窮屈だと思ったことは一度もなかった。

 湯を止めて、脱衣所に出た。タオルで身体を拭きながら、洗面台の鏡をちらりと見た。鏡の中の自分は、五年前より少しだけ顔つきが大人びていた。でも、身体は相変わらず細くて、嶺の半分くらいしか筋肉がない。嶺が筋トレをしろと言うのを朔がずっと無視し続けている結果だ。

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