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きれいな手で  作者: 灯屋 いと


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1/7

#1 駆除

 どうして、有害なものは排除されなければならないはずなのに、それが人間であるというだけで、罪になるのだろう。

 命を無闇に奪ってはならないと、ずっと昔に誰かが言っていた。施設の職員だったか、もっと前の記憶なのか、もう判別がつかない。けれど同じ口で、職員はゴキブリを見つけると躊躇いもなくスリッパで叩き潰していたし、夏にはベランダに殺虫剤をまいていた。スズメバチの巣ができたときは業者を呼んで駆除した。そういう風に生まれてしまっただけで、人間の営みに害を成しているという理由で殺される生き物は、いくらでもいる。

 では、有害な虫と有害な人間を分けるものはなにか。

 思考するからだろうか。思考能力があるから更正の余地がある、だから殺してはならない、そういう理屈だろうか。それならば、更正の余地すらない人間は、どうすればいいのだ。わかりやすく法を犯す人間はまだいい、逮捕されて社会のシステムに回収される。質が悪いのは、法の外側で金と権力を使って人を潰し、それが露見しそうになれば別の誰かに罪を被せて、何事もなかったように生き続ける連中だ。

 朔はその種の人間に対して、嫌悪を感じることすらなかった。嫌悪というのは感情であり、感情とは対象を自分と同じカテゴリに置いたときに生まれるものだ。朔にとって、その種の人間はシステムの正常な稼動を妨げるバグであり、削除すべきデータでしかなかった。

 ただ、[ruby=れい]嶺[/ruby]の近くにそのバグが存在し続けている限り、放置することができなかった。それだけのことだった。


*****


 十一月の初めの、湿度の低い午後だった。

 事務所のテレビは朝からつけっぱなしで、誰も見ていないまま昼のニュースに切り替わっていた。雑居ビルの四階、嶺の個人事務所は窓が一つしかなく、蛍光灯の白い光がデスクやスチール棚を均等に照らしている。朔はソファの端に横向きに座り、膝の上にノートパソコンを置いて画面を見ていた。

 元内閣官房参与の訃報を伝えるキャスターの声が、朔の耳に入った。急性アナフィラキシーショックによる呼吸不全。私的な宴席で発症し、搬送先の病院で死亡が確認された。事故死の可能性が高いとして司法解剖が行われる見込みだと、ニュース原稿の文面そのままに読み上げている。

「朔くん、この人。先週嶺さんに会いに来てた人じゃない?」

 事務所の経理を担当している柚木が、デスクから顔を上げてテレビを指した。三十代前半、嶺が公安を辞めた直後から事務所の実務を回している女で、事務処理は完璧だが朔に対しては基本的に干渉しない。ただし嶺に絡むことになると急に口数が増える。

「そうだっけ」

 朔は画面から視線を上げなかった。柚木の声のトーンには好奇心と微かな警戒が混じっている。嶺の周辺で起きたことに対して、この女は鼻が利く。

「そうだっけ、じゃないでしょ。あなた同席してたじゃない」

 柚木の椅子が軋んだ。身を乗り出して朔の方を見ている気配がある。朔はノートパソコンの画面を見たまま、柚木の視線が自分の横顔に当たっている角度を感じ取っていた。

「面倒くさい会食のことはいちいち覚えてない。記憶領域の無駄」

 ノートパソコンの画面から視線を剥がさずに朔はそう返した。画面にはダークウェブのフォーラムが表示されているが、柚木の位置からは角度的に見えない。

 もう一人、事務所にいる水谷がテレビに目をやった。嶺の公安時代の後輩で、退職後に嶺を追うようにして事務所に入った男だ。

「死因が病死方向なら、うちとは関係ないですよ。アレルギーの事故死って、たまにあるじゃないですか」

 水谷の声は軽かった。この男は嶺に比べると感情の表面積が広く、考えていることが声に出やすい。今の声には、面倒ごとに巻き込まれたくないという自己保身がうっすらと混じっている。

「たまにって、人の命の話でしょう」

 柚木の声が一段鋭くなった。朔はその声の変化を耳の端で拾いながら、二人のやりとりに興味を持たなかった。

「いや、そういう意味じゃなくて」

 柚木に睨まれて水谷が口ごもるのを横目に、朔はノートパソコンの蓋を静かに閉じた。

 宴席の酒に甲殻類のエキスを混入させた経路は、もう朔の頭の中では消去済みだった。仕入れ業者の受発注システムに侵入し、納品される酒の一部を差し替えるよう注文データを改竄した。実際の作業はシステム上の数値の書き換えだけで完結している。金粉を添加する体裁を取らせたのは、料亭の仲居に向けた別ルートからの匿名の依頼であり、そこから朔に辿り着くことは不可能だった。

 アレルギーのない他の参加者には何の影響もない。件の男だけが発症し、死亡する。司法解剖をしたところで、酒器はとうに洗浄されている。証拠は残らない。

 朔にとっては、あまりに簡単な処理だった。欠伸が出る。

 ソファから立ち上がり、奥の部屋のドアを開けた。嶺の私室はデスクと革張りのソファと書類棚だけの質素な空間で、窓の外は隣のビルの壁しか見えない。嶺は午前中から外出している。内部告発者との面談が入っていて、戻りは夕方だと朝言っていた。

 嶺のデスクの横にあるソファに横になると、革の冷たい感触が頬に当たった。微かに煙草の匂いがする。禁煙したと言っているくせに、この部屋でだけ吸っている。朔はそのことを知っていて、何も言わない。嶺も、朔が知っていることを知っていて、何も言わない。

 目を閉じた。

 殺した男のことは、もう朔の中のどこにもなかった。

 朔が人を殺した後の状態は、常に同じだった。何も感じない。後悔もない。高揚もない。達成感すらない。ゲームをクリアしたときのような小さな満足もなく、ただ「処理が完了した」という状態変化のログが残るだけだ。殺した相手の顔も名前も、すぐに記憶の優先度が下がって、必要がなければ想起されなくなる。

 朔の共感性の低さは、施設の心理士がカルテに記録していた特性だった。「他者の感情を推測する能力に著しい偏り」「共感的反応の欠如」「特定の対象への強い執着と、それ以外への無関心」心理士はそれを問題として記録したが、朔にとってはそれが自分の仕様だった。バグではなく、設計。

 ただし、嶺に対してだけはその仕様が機能しない。嶺の声のトーンの変化、嶺の肩の力の入り方、嶺が煙草を吸いたくなっているときの口元の動き。朔は嶺のことだけは、データ以上の解像度で感知してしまう。それがなぜなのかは、五年経った今でもわからない。

 消去されたデータが記憶領域を占有することはない。残るのは、嶺の周囲から有害因子が一つ減ったという状態変化の記録だけで、それさえも朔にとっては報告の必要すらない些末な処理結果だった。

 社長室のソファの革は、嶺の体温の名残りをほんの少しだけ残していた。朔はその温度の残りに頬を押しつけて、まもなくすうすうと寝息を立て始めた。


*****


 眠りから引き上げられたのは、頭に触れる手のひらの重さだった。

 緩く、何度も、髪を梳くように動く指先。これは嶺の手だ。他の誰とも違う圧と温度で朔の頭を撫でる手のひらは、世界に一つしかない。

 いつの間に戻ったのか。どれくらい眠っていたのか。そんなことを思いながら、瞼を上げるよりも先にその手に擦り寄る。後頭部から耳の後ろへ、嶺の指がゆっくりと移動する。

「起きたか。また業務を放棄して寝てたのか」

 嶺の声は頭の上から降ってきた。低くて、平坦で、小言の形をしているが叱責の温度はない。朔がソファで寝ていることに対して、嶺は本気で怒ってはいない。声の末尾がほんの僅か上がっている。それは嶺が安心しているときの微細な癖で、朔以外の人間には聞き取れないだろう。

「今日は俺の出番が必要な依頼なんてなかった」

 寝ぼけた声で返すと、嶺の指先が朔のこめかみのあたりを一度だけ軽く弾いた。

「それを決めるのはお前じゃない」

 朔はようやく目を開けた。窓の外はもう暗くなりかけていて、蛍光灯の光が嶺の輪郭を浮かび上がらせていた。三十五歳の顔に刻まれた表情の薄さは、元公安の男の職業的な癖だろう。感情を表に出さない訓練を受けてきた顔。

 ただし朔が見ているこの距離では、嶺の目尻のほんの微かな緩みがわかる。怒ってはいない。

「嶺。今日の晩メシなに」

 朔がソファの上で目を擦りながら言うと、嶺は朔を見下ろしたまま、ほんの僅か眉を寄せた。眉間に浅い皺が入る。食事の話をされたときに出る皺で、朔がまた食事をとっていないことを察知したのだろう。

「起き抜けにそれか」

「腹減った。ちゃんと減った。朝から何も食べてない」

 嶺の顎の角度が変わった。少し下を向いて、朔の顔を覗き込むようにしている。嶺が朔の体調を確認するときの仕草だった。目の下のくま、唇の色、頬の肉の落ち方。嶺はそういうところを見る。

「朝食べろと言っただろう」

 嶺の声が平坦さを保ちながら、圧だけが上がった。朔が食事を抜いたことに対する嶺の反応は常に同じだ。声は変えない。ただ、視線が鋭くなる。

「食べる暇なかった」

 朔がそう返すと、嶺の口元が微かに動いた。嘘を見抜いたときの動き。唇の片側だけがほんの一瞬引き上がって、すぐに戻る。

「嘘つけ。俺が出る前にお前はソファで寝ていただろう」

 嶺の声がほんの半音低くなった。苛立ちの初動だ。まだ声量は上がらないが、語尾の切れ方が鋭くなっている。朔は嶺の声の変化を耳で追いながら、嘘がバレたことに対して特に動揺しなかった。嶺に生活態度の嘘がバレることと、殺しの嘘がバレることは、朔の中でまったく別のカテゴリに入っている。

「……それは寝てた」

「飯を抜くな。何度言わせる」

 嶺がデスクの脇に立てかけてあったコートを手に取った。帰り支度を始めている。嶺の動作は淀みなく、コートの袖に腕を通す動きにも無駄がない。

「帰ったら食べるから」

「帰ってから考える」

 嶺は朔の頭からゆっくりと手を離した。その手が離れた瞬間の、胸の奥がすう、と冷える感覚を、朔はいつも持て余す。なぜそうなるのかがわからない。嶺の手のひらの温度がなくなると、朔の中の何かが微かに不安定になる。重力が一瞬ずれるような、足元が頼りなくなるような感覚。

「ところで朔。先週会食した元参与のことは覚えてるか」

「嶺を脅してきたおっさんでしょ。覚えてるけど」

 嶺の肩が微かに動いた。「脅し」という単語に反応したのだろう。嶺はあの会食の席で、男の態度を「脅し」とは呼ばなかった。けれど朔が「脅し」と名づけたことに対して、否定はしなかった。嶺の口元が一瞬だけ引き結ばれ、すぐに元に戻る。

「脅し、か。まあそう取られても仕方ないが。あの男が亡くなった」

 嶺の声から温度が一段下がった。「亡くなった」という言葉の選び方に、嶺の複雑さが滲んでいる。嫌っていた相手の死を、それでも丁寧な言葉で伝える。嶺はそういう男だった。

「昼にニュースで見た」

「お前はどう思う」

 何気ない口調だった。けれど嶺のこの問いかけ方を、朔は知っていた。嶺は何気なく聞いているのではない。朔の情報分析の目に意見を求めているのだ。そしてその問いかけの裏には、これは本当に事故なのか、という疑いが薄く透けている。

「どうもこうもない。甲殻類アレルギーの人間が宴席でうっかり口にしたんでしょ。よくある話じゃん」

 嶺の右手がデスクの上の煙草の箱に触れかけて、止まった。吸いたいのを我慢している。嶺が煙草を我慢するのは、朔の前で弱さを見せたくないときだ。

「よくある、か」

 嶺の声は低く短かった。問いかけの形をしているが、同意を求めてはいない。自分の中の疑念を、朔の口を借りて打ち消そうとしている声だった。

「よくはないけど、ありえない話じゃない。嶺が気にするようなことじゃないと思うけど」

 朔の声は平坦だった。真実を隠す必要すらないほど、朔の中ではこの話題に感情が紐づいていない。事実を述べているだけだ。ただ、述べている事実の中に嘘が含まれている。

 嶺は数秒の間を置いて、小さく頷いた。

「そうだな。考えすぎだ」

 嶺の手が、もう一度朔の頭に触れた。ぽん、と軽く一度だけ叩くようにして、離れた。

 朔の胸の奥で、何かがちくりと刺さった。針の先ほどの痛み。殺した男に対しては欠片も動かなかった朔の感覚が、嶺に嘘をついた、というその一点にだけ反応した。

 その痛みは新しいものだった。朔の中に「良心」と呼べるものがあるとすれば、それは嶺に向けてだけ作動する回路だった。嶺以外の人間に嘘をついても何も感じない。柚木にも水谷にも、世界中の誰に対しても。嶺にだけ、嘘をつくと胸の同じ場所が痛む。

 その痛みを消す方法は二つしかない。嘘をやめるか、嶺と関わるのをやめるか。どちらも朔にはできなかった。嘘をやめるためには殺しをやめなければならず、殺しをやめれば嶺の周囲の脅威は放置される。嶺と関わるのをやめれば、朔は存在する理由を失う。

 だから朔は、針の痛みを抱えたまま嶺の隣に座り続けた。嶺に頭を撫でられながら、痛みを飲み込んだ。

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