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きれいな手で  作者: 灯屋 いと


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7/7

#7 受容

 マンションの駐車場に車を止めて、エンジンを切った。嶺が先に降りて、朔の側のドアを開けた。朔が自分で開けられるのにそうしたのは、朔の手が震えていたのを嶺が見ていたからだろう。

 エレベーターで七階まで上がる間、二人は何も言わなかった。エレベーターの蛍光灯が白くて明るすぎて、二人の目が赤いことを互いに確認してしまった。嶺が視線を逸らし、朔も逸らした。

 玄関のドアを開けて、靴を脱いで、廊下を歩いてリビングに入る。見慣れた部屋の匂いがした。嶺のコーヒーの匂いと、暖房をつけていない部屋の冷えた空気と、微かな煙草の残り香。朔にとって「家」の匂いは、この組み合わせだった。施設にも犯罪組織にも「家」の匂いはなかった。嶺と暮らし始めて初めて、朔は帰る場所の匂いを持った。

 嶺がキッチンの照明だけをつけた。リビングは薄暗いまま、キッチンからの光がカウンター越しにぼんやりと広がっている。

 嶺はキッチンに立って、やかんに水を入れた。コンロに火をつける。マグカップを二つ棚から出す。インスタントのコーヒーの瓶を手に取りかけて、戻して、代わりにほうじ茶のティーバッグを出した。

 朔はソファに座っていた。自分の手を見ていた。佐久間の首にかけて、止まった手。何人もの人間を消したキーボードを叩く手。嶺の手のひらの温度をさっきまで受け取っていた手。

 嶺がマグカップを二つ持ってきて、朔の隣に座った。普段はソファの反対側の端に座るのに、今日は朔の隣だった。マグカップをローテーブルに置いて、ほうじ茶の湯気が細く立ち上るのを二人で見ていた。

「朔」

 嶺の声はリビングの薄暗がりの中で、ほうじ茶の湯気と一緒に朔の耳に届いた。嶺の声のトーンは低く、落ち着いていた。車の中で感情を全部吐き出した後の、空になった声だった。空になった分だけ、一語ずつに重さがある。

「うん」

「お前がやったことは罪だ。そこは変わらない」

 嶺はまっすぐ前を見ていた。朔の方ではなく、窓の外の夜を。嶺が朔を見ずに話すのは、感情が大きすぎて朔の顔を見ると言葉が崩れるときだ。嶺は言葉が崩れることを自分に許さない男だった。だから顔を逸らす。

「わかってる」

 朔はマグカップに手を伸ばして、ほうじ茶を一口飲んだ。香ばしい匂いが口の中に広がった。嶺が選んだほうじ茶。嶺の判断で今夜にふさわしいと決められた飲み物。朔はその選択の中に嶺の感情を読もうとして、読めなかった。嶺の感情はいつも朔の読解能力の外側にある。

「だが、お前を裁く資格は俺にはない」

 嶺はマグカップを手に取って、一口飲んだ。ほうじ茶の香ばしい匂いがリビングに広がった。嶺がコーヒーでもウイスキーでもなくほうじ茶を選んだのは、きっと今夜はカフェインもアルコールも要らないと判断したからだろう。嶺なりの、今夜を特別な夜にしないための選択だと朔は思った。特別にしてしまったら、明日から普段通りに戻れなくなる。

 嶺は窓の外の夜を見た。向かいのマンションの非常灯が白く光っていて、遠くの高速道路のテールランプが赤い線になって流れている。冬の夜の東京は乾燥していて、遠くの明かりまでくっきりと見える。

 嶺はマグカップを口に運んで、一口飲んで、また置いた。嶺が自分の過去を語ることは滅多にない。朔と五年暮らして、公安時代のことを嶺が自分から話したのは、片手で数えられるほどしかなかった。

「俺も同じだ」

 短い一言だった。嶺はそれ以上を説明しなかった。でも朔には、その一言が含む重さがわかった。嶺も人を殺した側の人間だ。命令で。国のためだと信じて。辞めてから、それが誰かの都合のいい駒だったと知った。事務所を作ったのはそこから離れるためだった。でもやり方は変わっていない。今夜だってそうだ。

 嶺は窓の外を見ていた。夜の東京のビルの灯りが、嶺の横顔に細い線を引いている。

「だから二人で行く。正しい方に」

 朔は嶺の横顔を見ていた。キッチンの照明がカウンター越しに嶺の輪郭を照らしている。嶺の目の奥にある光は、鋭くて冷たくて、でも朔にだけは温かい。

「嶺」

 朔の声は小さかった。ほうじ茶のマグカップをローテーブルに戻す手が、微かに震えていた。自分の手が震えていることに、朔は気づいていた。佐久間の首にかけた手とは違う震え方だった。あれは衝撃の震えだった。今のは、怖いのとは違う、名前のない震え。

「なんだ」

 嶺が朔の方を向いた。嶺の瞳に、キッチンの照明の光が小さく映っている。嶺の目は鋭くて冷たいはずなのに、この距離で、この角度で、朔だけに向けられると、鋭さの奥にあるものが見える。朔はそれに名前をつけることができなかった。

「俺の手、嶺に触れてもいい?」

 嶺の呼吸が一瞬止まった。ほんの僅かだけ目を見開いて、それからゆっくりと目元が緩んだ。嶺の表情が変わる速度が、いつもより遅かった。嶺が感情の処理に時間をかけているということだ。

「好きにしろ」

 朔は手を伸ばした。嶺の頬に触れた。初めて自分の意志で嶺の肌に手のひらを当てた。嶺の頬はあたたかかった。朔の手は冷たかった。嶺はその冷たい手を、頬に当てたまま自分の手で押さえた。

「冷てえな。暖房つけろよ」

 嶺の声がいつもの口調に戻った。叱るでもなく、甘えるでもなく、ただ事実を述べるだけの声。けれどその声のトーンに、朔は安堵を聞き取った。嶺が日常の声に戻ったということは、嶺が朔の手を受け入れたということだった。朔の冷たい手を、自分の頬に当てたまま、拒絶しなかった。

「嶺がつけて」

「お前がつけろクソガキ」

 朔はほんの少しだけ笑った。嶺の頬のあたたかさが、手のひらから腕を伝って胸の奥まで届いた。七人殺した手で、嶺に触れている。その手を嶺が受け入れている。

 嶺が朔の手を頬から外して、握った。

「もう殺すな」

 嶺の声が静かにリビングに落ちた。窓の外で遠くの車が走る音がして、それが消えてから朔の返事が来た。

「うん」

「俺に言え」

 嶺の手が朔の手を握る力が、ほんの僅かだけ強くなった。爪が朔の手の甲に微かに食い込んでいる。痛くはない。嶺が力加減を間違えたのではなく、感情が指先に漏れているのだと、朔にはわかった。

「うん」

「約束しろ」

 嶺の呼吸が、ほうじ茶の湯気と混じって朔の頬に触れた。二人の距離がいつもより近い。ソファの一人分のスペースがなくなっている。嶺が朔の隣に座っているから。

「約束する」

「今度は守れ」

 嶺の声の語尾が、ほんの少しだけ上がった。命令ではなく、祈りに近い響きだった。嶺が祈るように何かを言うのを、朔は初めて聞いた。

「……守る」

 嶺は朔の手を握ったまま、もう片方の手で朔の頭を撫でた。いつもと同じ手のひら。いつもと同じ重さ。何も変わっていない。何人殺した後でも、嶺の手のひらは朔の髪の上で同じように動く。

 朔は嶺の手のひらの下で目を閉じた。胸の奥の針が、もう痛まなかった。嘘がなくなったからだ。嶺の前で何も隠していない状態は、朔にとって初めてのことだった。

 ほうじ茶が冷めていく。リビングの暖房はまだつけていない。窓の外の冬の夜が、部屋の隅から少しずつ冷気を送り込んでくる。

 でも、嶺の手のひらは温かかった。

「嶺」

 朔は嶺の手のひらの下で、目を開けた。嶺の顔が近くにあった。嶺の目の端が赤い。泣いた跡。嶺がそれを恥ずかしいと思っているかどうかを、朔は嶺の視線の角度で測ろうとしたが、わからなかった。嶺の感情は、朔にとっていつも最後の数パーセントが読めない。

「まだなんかあるのか」

 嶺の声は掠れていた。泣いた後の声。それでも嶺は朔に「まだなんかあるのか」と聞く。どれだけ疲弊していても、朔が何かを言いたそうにしていれば聞く。嶺はそういう男だった。

「おやすみ」

「風呂入れ」

 嶺の返事が即座に返ってきた。朔が「おやすみ」と言ったのに対して「おやすみ」とは返さず「風呂入れ」と返す。嶺らしい。感情的な言葉の代わりに、朔の生活管理で応答する。それが嶺の言語だった。

「あとで」

「今入れ」

 声のトーンが落ちかけた。嶺のこの声のパターンを、朔は何百回も聞いてきた。「クソガキ」に至るまでのカウントダウンが始まっている。朔はそのカウントダウンが始まる瞬間を、身体の芯の部分で心地よいと感じていた。嶺が朔のために怒ることの意味を、朔はまだ言語化できないが、身体は知っている。

「いい加減にしろクソガキ、って言って」

 嶺の手が朔の頭の上で止まった。完全に予想外のことを言われたときの反応だ。嶺の指が朔の髪の中で固まっている。

「……なんでそんなの言われたがるんだ」

 嶺の声には困惑が混じっていた。嶺が困惑するのは珍しい。大抵のことは動じない男が、朔の予想外の言葉にだけ、こうして固まる。

「わかんない。でも、聞きたい」

 嶺は深い溜息をついた。

「いい加減にしろクソガキ。風呂入ってから寝ろ」

 朔は立ち上がった。嶺の手を離すとき、嶺の指先が朔の指先にほんの一瞬だけ引っかかった。名残のような。離したくないような。

 風呂場に向かう廊下で、朔は自分の手を見た。白くて細い手。何も変わっていない。

 でも、嶺がその手を握ってくれた。嶺の頬に当てることを許してくれた。

 洗面台の前で蛇口をひねった。水で手を洗った。棚にハンドクリームがある。嶺が買ってきたやつ。朔はそれを手に取って、蓋を開けた。少量を手のひらに出して、両手で擦り合わせた。

 初めて使った。

 手のひらがほんの少しだけしっとりして、指の間までクリームが行き渡ると、自分の手が少しだけやわらかくなった気がした。嶺の手のひらに触ったときに、ささくれた指先で嶺の肌を引っ掻かないように。

 風呂場に入ってシャワーを浴びながら、朔はさっき嶺の頬に手を当てたときの感触を反芻していた。嶺の肌は思ったよりやわらかかった。嶺の顎の線は硬くて、でも頬のあたりはやわらかくて、髭の剃り跡が指先に少しだけざらついた。

 あのとき嶺が朔の手を頬に押さえたのは、離すなという意味だったのか、冷たいからくっつけておけという意味だったのか。たぶん嶺自身もわかっていないのだろう。嶺は自分の感情に名前をつけるのが下手な人間だった。朔と同じように。

 湯を止めて、タオルで身体を拭いた。鏡に映る自分の手を見た。クリームを塗ったばかりの手。何にも触れていない手。何も変わっていない手。

 この手で明日も嶺のそばにいる。嶺の作った食事を食べて、嶺に怒られて、嶺の手のひらに撫でられて、たぶんまた嶺の頬に触れる。殺した人間は生き返らない。朔がしたことは消えない。嶺がそれを知った上で朔を手放さないと決めたことも、変わらない。

 朔は洗面台の棚にハンドクリームを戻した。蓋をきちんと閉めて、元あった場所に置いた。嶺が次に買い足す前に、もう少し使うかもしれないと思った。


 リビングに戻ると、嶺はもうソファにはいなかった。キッチンの照明も消えていて、廊下の奥から嶺の部屋の明かりが微かに漏れていた。ドアは少しだけ開いている。朔が帰ってきたことを確認するために開けてあるのだと、朔は知っていた。

 朔は自分の部屋に入って、モニターの電源を落とした。いつもなら深夜までモニターの青い光の中で作業をしているが、今日はそうする気にならなかった。ベッドに横になって、天井を見た。

 天井の染みが、嶺のマンションに越してきた日からずっと同じ形をしている。朔が十五のとき、嶺に連れられてこの部屋に入った日に最初に見上げた天井。そのときは何も感じなかった。ただ天井があるな、と思っただけだった。

 今は違う。この天井の下で五年間、嶺と暮らした。嶺が毎朝コーヒーを淹れる音で目が覚めて、嶺に怒鳴られながら朝食を食べて、嶺の車で事務所に向かって、嶺に「帰るぞ」と言われるまで仕事をして、嶺の作った食事を食べて、嶺に「寝ろ」と言われてこの天井を見上げて眠る。

 朔の人生の中で、嶺と過ごした五年間だけが、記憶に温度を持っている。それ以前の記憶はすべてデータだ。数値と事実の羅列。犯罪組織にいた頃の記憶も、施設にいた頃の記憶も、温度がない。嶺に出会ってからだけ、記憶に手触りがある。嶺が頭を撫でたときの手のひらの重さ、嶺が作る味噌汁の味、嶺が怒鳴るときの声の震え、嶺の煙草の匂い。

 そのすべてを、朔はこの手で守ろうとした。七人殺した。その結果、嶺に嘘をつき続けることになり、嶺に触れることができなくなり、嶺の声が震えるほど嶺を追い詰めた。

 守ろうとして、壊しかけた。

 でも嶺は壊れなかった。朔の手を握って、「もう殺すな」と言って、「俺もだ」と言った。

 朔は目を閉じた。嶺の手のひらの温度を思い出しながら、眠りに落ちた。

 明日の朝、嶺がコーヒーを淹れる音で目が覚めるだろう。嶺が「起きろ」と言い、朔が「あと五分」と答え、嶺が「いい加減にしろクソガキ」と怒鳴るだろう。

 何も変わらない朝が来る。何も変わらないまま、すべてが変わった後の朝が。

 嶺が怒鳴って、朔が従って、嶺が食事を作って、朔が食べて。その繰り返しが明日も、明後日も、その先もずっと続く。朔が殺した七人は帰ってこない。嶺が見て見ぬふりをした時間は戻らない。でも嶺は朔の手を握って「俺もだ」と言った。嶺の手のひらは温かかった。その温かさだけが、朔にとっての確かなものだった。

 目を閉じた。暗闇の中に、嶺の手のひらの温度だけが残っている。

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