世界と自分を救うためには、小さな犠牲を払わなくていけない
温かいシャワーと、野菜や肉のおいしそうな料理で、わたしは、正直に言って、幸せな気分を味わっていた。わたしは、洗脳されてはいないけれど、洗脳される気分は分かる。これは、気がつかないうちに、思考をコントロールするテクニック。つまり、マインドコントロール。
賞と罰のシステム。
『トランステクノロジー』の考え方と同じように出来れば、褒美がもらえて、そうでなければ罰を与えるシステム。
パブロフの犬。
そのことに気がついていれば、これが何を意味するのか分かるけれど、そうでなければ、きっとわたしは素直に懺悔をするのはいいこと、と思っていただろう。
栄養が回ってきて、わたしの脳は、普段の働きを取り戻しつつあった。それでも、顔には出さないように気をつけた。演技を続けなくては。わたしの思考はコントロールされないけれど、わたしの自由は制限されたままなのだ。
食事の後で、あの絵画とアンティークの部屋に通され、それから、あの男が現われた。
「懺悔したそうだね」
えっと、鳥井だったっけ?
「とても、あなたは純粋で素敵な方だ。蓮田さん、あなたは、これから生まれ変わるのですよ、ここでトレーニングをして」
わたしは微笑んだ。はっきり言って、気分が悪かったけれど。
「私達のトレーニングは、心理学の教授も賞賛している素晴しいものです。蓮田さん、あなたは努力しなくてはいけませんけれど、きっと生まれ変わることができるはずです」
わたしは頷いた。何か言ったら、叫びそうだったからだ。正直に言って、この現実感の無さは、気が狂いそうになる。それに、何か間違いを犯せば、地下室に逆戻り。今度は出られないかもしれない。
「蓮田さん。どうぞ、そこに座って」
あんまり、わたしの名前を呼ばないでよ。気分が余計に悪くなる。わたしは、そう思いながら椅子を引き、静かに座った。
「世の中は、どんどん悪くなっていっています。世界中でテロが起こっています。アメリカでも、イラクでも、イスラエルでも。そして、テロから何が生まれるでしょう?」
そこで、鳥井は言葉を切った。そして、わたしの方を見て、
「そう。戦争です。殺し合い。憎しみが世界に溢れているのです」
と告げた。そうね、世の中、最低ね。
「日本は大丈夫?」
いちいち、わたしの反応を確かめるように言葉を切らないでよ。必死で演技しているんだから。不安な気持ちを、必死に抑えているんだから。
「日本だって、安心して暮らせないほどひどい状態だ。通り魔、十四か十五の子供が、平気で人を殺す。世田谷の一家殺人。あれは、だれがやったのか知っていますか?」
え?わたしは慌てて首を振った。
「悪魔です。世界中に悪魔がはびこっている。人間の顔をした悪魔だ。テロをするのも悪魔。誰かを殺そうとするのも悪魔」
だから、いちいち、わたしの反応を確かめないで。わたしは不安そうな顔をした。これは得意だけれど。演技する必要も無い。
「蓮田さんは、新聞を読みますか?」
突然の質問に、わたしはとまどった。
「え、たぶん、時々」
満足そうに頷くと、
「失業、倒産、自殺、戦争、テロ、そんな記事ばかりでしょう。それなのに、どうして、みんな気がつかないんでしょう。この世界は滅びるのだ、ということに」
鳥井は、悲しそうな顔で歩き回った。
「我々は、それを止めなくてはいけない。これは使命なのです。誰かがやるのを待っていても、誰も出来ないのです」
そう言うと、静かに立ち止まった。
「何故か」
突然大きな声で鳥井は言った。
「それは、自分達の罪を認めないからです。わたしは悪くない、そう思っているからです。自ら進んで罪を懺悔しなくては世界を救うことは出来ないのです」
それから、今度は窓際に行った。そして、カーテンをさっと引き開けた。太陽の光が差し込んだ。
「蓮田さん。あなたは罪を懺悔した。そして生まれ変わるのです。我々は、同士です。仲間です」
わたしは頷いた。
「わたし、生まれ変わるわ」
かなり、無理をして、わたしはそうつぶやいた。顔、ひきつってなければいいけど。
鳥井は、うれしそうに笑った。
「明日からトレーニングです。今日は、ゆっくり休んでください。部屋を用意してあります」
わたしは、立ち上がろうとした。
「ちょっと待って」
鳥井は、デスクの中から、一枚の紙を取り出した。
「その前に、手紙を書いてください」
「手紙?」
わたしは、立ち上がろうとした変な姿勢のまま聞き返した。
「蓮田さんの、もとの友達達に手紙を書くんです」
「どういう手紙ですか?」
「しばらく戻らない、と言ってあげないと、心配するでしょう」
わたし、「ああ」と言った。
「でも、手紙を受け取っても、彼等は蓮田さんのように、罪を認めて生まれ変わろうとしているわけではない。だから、あなたのことが理解できないかもしれない。そうでしょう?」
「そう、ですね」
「だから、こう書かなくてはいけない」
鳥井は、人さし指を立てた。
「わたしは、旅に出ました。心配しないでください。あなた達とは、一緒にいることは出来ない、考えが違うから。もう、飽きたのです」
わたしは驚いて鳥井の顔を見つめた。開いた口がふさがらない、と言うのがよく分かった。
「彼等は怒るでしょう。でもそれでいいのです。世界と自分を救うためには、小さな犠牲を払わなくていけない。あなたは、彼等を捨てなくてはいけない」
はっきりとした口調で、鳥井は、そう言った。
「それが終わったら、ゆっくりと休んでください。わたしは、あなたを見守っています」
そう言うと、鳥井はペンと紙を差し出した。わたしは、仕方無く、それを受け取った。
わたしの書く文字を見つめながら、
「蓮田さん、字がきれいですね」
と言った。
「考えが違うから、です。そう。飽きた、です。そう」
わたしが手紙を書き終わると、鳥井は直ちにそれを封筒に入れ、それからわたしに住所を書かせた。それから手紙を受け取り、切手を貼った。
「これは、わたしが出しておきます。ゆっくりと休んでください」
わたしは立ち上がった。
「小早川さんが、案内してくれます。もうすぐ来ますから。今から、小早川さんと蓮田さんは運命共同体、二人の魂の融合を目指してください。どちらかの失敗は、二人の責任です」
わたしは、その意味を考えた。
つまり、もし逃げたら、友美を痛めつける、と言っているのだろうか。




