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アスト

 事務所に戻ると、田辺は、まだ電話をかけていた。

 わたしは、音を立てないようにドアを閉めようとして、ソファーに寝転がっている人影に気が付いた。

「アスト。」

わたしは、思わずそう言った。そう言えば、こいつも5年生だった。このサークルは留年率が高くて、その点でも大学当局に目を付けられている。このままでは存続も危ういかもしれない。

 ま、その留年率を引き上げた、わたしが言うのもどうかと思うけど。

「ん?奈々か?久しぶりだな。」

眠そうな目をこすりながら、町田アストはつぶやいた。

「辞めたんじゃなかったの、サークル。」

アストは面倒くさそうに起き上がった。

「そういうお前も、卒業したんじゃなかったのか?」

「わたしは、頼まれて来ているだけよ。」

「就職、出来なかったわけだ。」

「違うわよ。」

わたしは、そう言いながら、アストの隣に腰をかけた。

「就職活動を少し先伸ばしにしているだけよ。」

「何が違うんだか。」

そう言うと、大きく伸びをして、冷蔵庫に向かって立ち上がった。

「そろそろ夕方だろ?ビールでも飲むか?奈々。」

「わたしは、まだやらなくちゃいけないことがあるから。」

アストは、冷蔵庫を開けてビールの缶を二本取り出した。

「そういうのは、現役のやつにまかせろよ。おまえは部外者なんだから。」

「そういうアストだって部外者でしょ。」

彼は、卒論及び、単位習得のため、サークルを辞めたはずだった。

「ああ。おれも部外者だ。寝に来ただけだよ。」

そう言うと、ビールを一本、わたしの手に置いた。

「乾杯。」

そう言うと、自分の缶を開け、ぐっと飲んだ。

「アスト、落ち込んでいるの?」

わたしは、なんとなく雰囲気が違う様子に不安になって聞いた。

「落ち込んでなんかいないよ。」

そう言うと、立ったまま、わたしを見下ろした。

「座ったら?」

わたしは、自分の隣を指差して言った。

「ああ。」

おとなしく、アストはそこに座った。ふと、最後まで、彼の名前の漢字は聞かずじまいだった、と気が付いた。今さら、どっちでもいいけれど。

 わたしは、何も言わないアストの隣で居心地が悪くなり始めていた。仕方なく、渡されたビールのプルタブを開けた。

「乾杯。」

そう言って、アストの缶にそっと自分のをぶつけた。

「奈々先輩。」

電話を切った田辺が、突然わたしを呼んだ。

「え?何?」

「小早川さんの友人で、こっちにいる人のリストです。このうちの何人かを奈々先輩に会ってきて欲しいんですけど。」

そう言いながら、歩き寄ってきて紙切れを差し出した。

「いいわよ。誰?」

「以前のゼミの人です。奈々先輩のほうが話、しやすいでしょう?」

「そうね。」

「残りは、僕と他のメンバーで会ってきます。」

「分かったわ。」

そう言うと、わたしはリストを見た。そう言えば、こんな名前の人もいたっけ、と思った。

「田辺、奈々に仕事をさせるなよ。もう、卒業しているんだから。」

アストは、田辺を見ながら言った。

「え?いいじゃないですか。せっかく来てもらったんだし。」

「来てもらったんだから、ゆっくりさせてやれよ。」

アストは呆れたように言った。

「そうか、そうですね。じゃあ、町田先輩も手伝ってくださいよ。人が足りないんですから。」

「おれは、部外者だよ。」

田辺は、にやいついて言った。

「そうですか?でも、そのビール、サークルのですよ。」

アストは、まじまじを自分の飲んでいたビールの缶を見た。

「そうだったな。」

「じゃあ、決まりですね。町田先輩と奈々先輩は、そのリストの人に話を聞いて来てください。」

わたしは、ビールを一口飲んで黙っていた。

「奈々を手伝うのか、おれが?」

アストは、ぼそっと言った。

「別に嫌じゃないでしょ、町田先輩。」

そう言うと、田辺はドアを開けて出て行った。

 アストは、どさっとソファーに背を預けた。

「嫌なら、別にわたし一人でいいのよ、アスト。」

アストは、首をひねってこっちを見た。

「嫌とは言ってないよ。」

わたしは、さらに一口ビールを飲んだ。

「だって、アスト、さっきから機嫌悪そうよ。」

「寝起きだからな。知っているだろ、寝起きの悪さ。」

わたしは、ため息をついた。

「ええ。知っているわよ。」

わたしは、だんだんいらいらしてきた。

「アスト、まだ怒っているの、わたしのこと。」

アストは、じっとわたしを見た。

「怒ってなんかいないよ。」

わたしは、むっとして叫んだ。

「じゃあ、もっと機嫌良くしてよ。」

「だから寝起きだって言っているだろ。」

「そんなの関係ないじゃない。」

アストは、ため息をついた。

「悪かった。」

わたしもため息をついた。

「これじゃあ以前のくりかえしね。」

アストは黙っていた。

「ごめんね、アスト。待っててくれたんでしょ、わたしを。」

アストは、ふっと息を吐いた。


 大切なものは壊れやすい、とはだれの言葉だったか。

 何処かで読んだ本の中にあったかもしれないし、わたしが勝手に作った言葉だったかも知れない。

 とにかく、大切なものは壊れやすいのだ。

 例えば、お気に入りのアンティークの腕時計とか、お気に入りのグラスとか。気を付けて扱わないと、すぐに壊れて、取り替えしがつかなくなってしまう。

 例えば、友情だとか、愛情だとか。

 でも、分かっているけれど、やっぱりそれは壊れやすいから、時には取り替えしがつかなくなってしまう。

 アストとの友情は、壊れているのだろうか。

 わたしには、分からなかった。

 それは、ぎりぎりで保っているようにも思えるし、そうで無いようにも思えた。けれども、それの取り扱いを間違えたのは、わたしだったし、原因は、わたしが作ったのだ。

 そうそう、もう一つ格言がある。

 大切なものには、取り扱い説明書が無い、のだ。

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