第6話 交渉
「今は、クロニクル、と名乗っていらっしゃるのですね――聖人さま」
ソフィアの声は、確信に満ち溢れていた。
クロニクルの紫の瞳と、ソフィアの碧眼がかち合う。
ソフィアの目はまっすぐにクロニクルを見つめていて、対するクロニクルは、目の奥に剣呑な光を宿していた。
「……まぁ、隠しているわけでもなかったからね。私の身分が知られるのは、別に構わないのだけれど」
パタリと手に持っていた本を閉じて、クロニクルが、ひとつ息を吐く。
「一応、話を聞こうか。何の用事かな? 手短に頼むよ」
レオは、我関せずとばかりに、ぼんやりと本棚を眺めている。クロニクルが朗読してくれなければ、レオは本の内容を知ることができない。
聖人という言葉が何を指すのかも分からない以上、異世界人だと知られれば面倒なことになると察したのだろう。レオは黙って、ふたりが会話する様子を傍観している。
「この街にある、勇者の塔については、ご存知ですか?」
「もちろん。観光スポットとしては、なかなか悪くない建造物だよね」
クロニクルが、にこりと笑う。その笑顔と声には、わずかな棘が含まれていた。
嫌味っぽいクロニクルの言葉に気を悪くした様子もなく、ソフィアは真面目な顔で話を進める。
「勇者の塔には、先代の勇者が遺した、根源魔法の神髄に関わる何かが眠っていると言われています」
「そうだね。勇者本人がそう言ったんだ、その情報は間違いではないだろうけれど」
クロニクルは、「それで?」と先を促す。
ソフィアは言葉に迷って、視線を彷徨わせた。ゆっくりと目を閉じて、決意とともに目を開く。
「塔の攻略を成功させます。そのために、あなたさまの力が必要です。わたくしと共に、塔へ挑んではいただけませんか」
「断る」
ソフィアの決意など知ったことではない――クロニクルは、彼女のほうを見ることすらせず、即答した。
「私に何のメリットもないじゃあないか。生まれながらにして根源に至っている私にとっては、根源魔法を使うための説明書なんて、そもそも必要無い。つまり、塔の攻略に成功したところで、私が得られるものは何もない」
クロニクルは冷たい声で言い放つと、本の表紙に手を掛けた。ぱらぱらと本をめくって、レオのための朗読を再開しようとしている。
「では、取引をいたしましょう」
「……君も大概、しつこいねぇ」
ソフィアが話し続ける限り、クロニクルが朗読する声は、彼女の声にかき消されてしまうだろう。
レオなら上手く聞き取るのかもしれないが、ソフィアに話しかけられながら朗読をするというのは、クロニクル自身にとって、面白くない状況だった。
「あなたさまは、聖人でありながら、宰相見習いでもありますね。宰相の座に就くためには、貴族の血筋、もしくは、強力な後ろ盾が必要です。あなたさまは、聖人に認定され、伯爵家の養子となった――ですが、その身に流れる血は、貴族のものではない」
話を真面目に聞くつもりはないというアピールのつもりなのか、クロニクルが本を閉じる気配はない。しかし、視線は文字を上滑りするばかりで、彼は、本の内容以外のことに思考を奪われているようだった。
「わたくしは教会に所属する身ではありますが、貴族の娘でもあります。わたくしの貴族としての特権を用いて、あなたさまの後ろ盾となることを約束しましょう。そうすれば――」
「私は宰相になるつもりはないよ」
宰相になるつもりはない――クロニクルの言葉に、ソフィアは驚いて動きを止めた。
「私は確かに有能だ。これは自慢ではなく、客観的に見て、事実だろう。だが、私は宰相の座に興味はないし、誰が推薦しようと辞退するつもりだよ。……で、話はそれだけかな?」
「……いえ、ですが――」
クロニクルの態度は、もはや不機嫌を隠そうともしていない。
取り付く島もない――ソフィアは形の良い唇をきゅっと結んで、悔しそうに俯いた。
「あぁ、でも、君が私ではなく、レオの頼みを聞いてくれるというのであれば、考え直してあげてもいい」
「……レオ?」
クロニクルがレオを横目で見遣る。その視線に誘導されるようにして、ソフィアはレオを見つけた。
「彼が……レオさん、ですか?」
「そうだよ。彼の頼みを聞いてくれるというのであれば、私は君の悲願である、塔の攻略に手を貸そう」
ソフィアは言葉に詰まった。
レオという人物について、ソフィアは何も知らない。よく知りもしない人物の要望を聞き入れるのは、あまりにも危険だ。
クロニクルは、養子ではあるものの、貴族の一員である。それはつまり、貴族社会に対して最低限の理解がある、ということだ。
クロニクルが聖人として活動していた時代においても、クロニクルは規範に従順で、聖人という身分を振りかざすようなことはしなかったと聞いている。
だから、クロニクルが出すだろう要望は、おそらくソフィアの身を脅かすようなものにはならない――ソフィアには、少なからず、そういう打算があった。
しかし、現実は、そう甘くはなかったらしい。レオという人物が何を願うのかについて、ソフィアにはまったく見当がつかない。とんでもない危険を伴う要望を出される可能性があるのだ。簡単に頷くわけにはいかない。
「……わたくしの一存では、決めかねます」
「そうかい。なら、話は終わりだ。帰りたまえ」
これを逃せば、もう二度とチャンスはないと、ソフィアはそう直感した。そして同時に、これは好機でもある。
あちらから持ち掛けてきた交渉だ。話に乗りさえすれば、やっぱりやめた、なんてことは言われないだろう。
ソフィアの心は、クロニクルの提案に同意したいと、そう叫んで止まなかった。しかし同時に、ソフィアの脳内で、冷静な自分が囁きかける――自分はおそらく、クロニクルの手のひらの上で転がされているのだ、と。相手のペースに巻き込まれてはいけない、自分の理性を強く持て、と。
「帰りたまえ、ソフィア。私とて、神聖なる教会で、騒ぎを起こしたくはないからね」
クロニクルが無情にも告げる。その声には怒りも呆れも含まれてはおらず、事務的なそれこそが、ソフィアの心を強く揺さぶった。
ソフィアは少しだけ、泣きそうな顔をした。そうして、なんとか、震える声を絞り出す。
「……お待ちください」
クロニクルはソフィアを急かすこともなく、ただ、黙していた。
ソフィアの脳内は混乱を極めている。しかし、今ははっきりと、この機会を逃してはならない、と――彼女の心が、そう叫んでいた。
「その提案を、受け入れたく思います。ですが……まずはレオさん、あなたの頼み事が何なのか、お尋ねしてもよろしいですか?」
その言葉を聞いて、クロニクルは、満足そうに笑っていた。




