第19話 共犯の味
――このことは、秘密だよ。
レオの刻印が露わになって、ソフィアは目を見開いた。呼吸をすることすら忘れてしまったのではないかと思うほどの驚きようだ。
レオが日記へ片手をかざす。なめらかな指先が美しく見えるような、そんな繊細さを持った動きだった。黒薔薇に似た刻印が、その繊細さを、より神秘的に見せている。
ソフィアは、驚きとは違う意味で、息を呑んだ。
ソフィアが知る魔王の刻印は、ひどく禍々しいものだ。レオの腕に刻まれているのは、たしかに魔王の刻印のはずなのに、魔王の刻印はまるでレオの決断を祝福するかのように、清廉な気配を漂わせている。
その景色は、ただひたすらに、美しかった。どんな名画よりも現実的な空気をまとって、現実という重みを知って――ゆえに、神秘的だった。
レオの指先から、炎がほとばしる。赤と白が混ざったような色の炎は、一直線に、しかし炎らしく火を揺らしながら、日記へと到達した。
ソフィアが声をあげるより先に、日記が、ぼう、と燃える。古びた日記は炎に包まれて、まるで天への供物のようだ。
「なぜ、ですか? 燃やす必要など……それに、レオさんのソレは……」
ソフィアが呆然と問いかける。問いかけながらも、心のどこかで、その答えは分かり切っていた。
「僕のコレについては、知ってたほうが、動きやすいでしょ。無理を言って塔に入場したのに、攻略できませんでした、なんて報告したら、何を言われるか分かったもんじゃないから、塔を攻略したっていう報告もしないといけないけど……この日記を提出するのは避けたいし」
魔王が魔王ではなく、つまり脅威ではないと知られれば、人間は戦争を始めかねない。それほどまでに、今の世界情勢は不安定だ。よって、これら真実が綴られている日記を、教会に提出することはできない。
そして、日記という、塔の攻略における報酬を教会に提出できないのであれば、代わりの報酬が必要だ。塔の最上階にあったと説明されても納得できるような、珍しく、強力で、勇者らしい代物である。
――心のどこかで、その答えは分かり切っていた。
だから、ソフィアが本当に聞きたかったのは、どうしてレオは魔王の刻印を自分に見せたのか、という問いへの答えだったのかもしれない。
魔王の刻印は、すなわち、災厄の証だ。いつから、どうして、そう呼ばれ始めたのかも分からない。ただ、人々から忌み嫌われている。
曰く、それは魔王の証である。
曰く、それは魔王と縁を結ぶものである。
曰く、それは魔王の手先である。
曰く――それは、人類の敵である。
「大丈夫だよ」
レオの声は、その無表情に反して、案外、柔らかかった。
どうしてかソフィアの目は今にも泣き出しそうで、レオをじっと見つめている。ソフィアは、レオが次に発する言葉を、ただ待っていた。
予感があったのだ。
この後のひとことが、レオの全てを物語るだろうという、そんな予感があったのだ。
「だって、ソフィアさんは、そういう性格じゃないでしょ」
ソフィアは、その端整な顔をくしゃりと崩した。
泣いているのか笑っているのか分からない顔で、小さく俯く。次いで、沈黙の後に、「……死を、覚悟しました」と、そう言った。
「だって、そうでしょう? 目撃者がいなければ、レオさんの憂いは無くなるのです。聖人さまは、どうやら全てをご存知のようでした……だから私が、私だけが、最初から、邪魔者だった……!」
殺されると思った、と、ソフィアは震える声で言った。知りすぎてしまえば殺される、だから知りすぎないようにする――それが貴族の掟だからだ。
声が震えている理由は、きっと、殺されなかったことへの安堵ではない。殺されるかもしれないことへの不安でもない。生かされたことへの感動でも、未だ残る死の可能性への恐怖でもなかった。
ソフィア自身、その感情に名前を付けることは難しいだろう。だが、強いて言うなら、それは寂しさにも似た同情だったり、憐憫のごとき哀愁のようなものなのかもしれない。
レオは、ソフィアの様子を見て、そして、彼女の言葉を聞いて、困ったように視線を彷徨わせた。
「僕は……いつか、この日記に書かれた真実が、明るみに出ればいいと思う。でも、それはきっと、今じゃない」
レオの言葉を聞いて、ソフィアはより一層、泣きそうな顔をした。その表情の奥には、嬉しさと、悲しさと――己の無力さに対する憎しみが、漂っている。
レオは、人類は愚かにも戦争を起こすだろうと言った。けれど、レオは決して人間を嫌っているわけではない。
レオはおそらく、人類の未来を信じたくて仕方がないのだ。けれど、レオの観察眼が、客観的視点が、その希望的観測を許さない。
だからこそ、レオは、この日記に記された真実が報われてほしいと、そう思っているのだろう。そう思っていながら、日記を燃やす――。
そうして最後に、レオは、ソフィアの善性を信じたのだ。
「ごめんなさい……私は、あなたが冷徹な人ではないと知りながら、あなたが最も非情な決断をする可能性を恐れた……」
「うん」
「あなたが魔王の刻印を持っていると知って、納得してしまったのです。あなたが人類の敵であっても、何もおかしいことはない、と……!」
「うん」
「一瞬でもあなたを恐れた……恐怖してしまった自分の弱さを、レオさんへの恐怖を、魔王の刻印だなんてもので納得しようとした、私は……!」
少し間を置いてから、レオはもう一度だけ、「うん」と頷いた。
ソフィアの背を撫でて励ますわけでもなく、特別に優しい声を出すわけでもなく、ただ常の通りに頷く彼のそれが心遣いであると、ソフィアはとっくに気付いていた。
ソフィアさん、と、レオの声が名前を呼ぶ。その声が、時間が、やけにゆっくりと聞こえた。
「ソフィアさん、君は優しい。でも、その優しさを、全ての人に向ける必要は無い……と、思う。それを、忘れないでほしい」
――ソフィアは優秀だから、きっと、すごい魔法使いになるわ!
「こう在りたいという憧れと、こうあるべきという強制は、まったくの別物なんだ。だから、世界中の人から、ソフィアさんは優しい人だよね、っていうレッテルを貼られたとしても……君がそれに従う必要はない、と、僕は思う」
――ソフィアは真面目だから、きっと、貴族の膿を、この理不尽を、正してくれるのだろうね。
ソフィアは脳内に溢れ出す声たちを――記憶たちを振り切って、レオを真っすぐに見つめた。
こぼれそうになる涙をこらえる姿はさぞ滑稽なことだろうと、脳の片隅に居座る自分が、己をあざ笑っている。
滑稽な己の姿を取り繕うよりも、もっと大切なことがあった。
ここで、レオに伝えたい言葉があった。
震える声で、無様を晒して、けれど、いま、レオに伝えなければならない。
レオの信頼に、信用に、応えなければならない。
「――理不尽は嫌いです。不公平も、不平等も……貴族も、才能も、何もかもが嫌いです」
「うん」
「私は……証明したいです。この日記に書かれていた言葉が真実であると、17歳を過ぎても根源魔法は発現できる、と……可能性は年齢などに縛られないと、証明したいです」
「そっか」
私に、できるでしょうか――そう続けたソフィアに、レオは迷わず、「大変そうだけど、がんばってね」と言った。
レオの顔には、優しい微笑みも、応援の熱も無かった。
けれど、ソフィアは嬉しそうに笑っていた。




