第16話 異界の地図
「うん、僕は異世界人だよ。ただし、勇者じゃない、ただの一般人だけどね」
「一般人……?」
困惑の声をあげるソフィアに、レオは「そこなの?」と疑問符を浮かべる。
「えぇと……つまり、レオさんは異世界の人だから、勇者に会いたい、と……同じ世界からの来訪者だから……」
「うん。弟だね。双子の弟」
ソフィアは放心したように、「弟さんですか……」と呟いた。どうやら、これらの話は、ソフィアの脳内で処理できる容量を超えてしまったらしい。
「出身地、ねぇ……これは、レオに向けた問題なのだろうね」
私たちの出身地は、この地図には載っていないわけだし――未だに頑張って頭を回しているのだろうソフィアを置いて、クロニクルが誰にともなく話し出す。
「さぁて、この塔は、いったい何をしたいんだか」
クロニクルは大げさに肩を竦めた。
「最初から分かってたんじゃないの?」
「まさか! 私ができるのは、仮説を立てることだけだよ。ただの憶測に過ぎないさ」
レオが、「あぁ、そう」と呆れ気味に呟く。レオの視線は、既に地図へと向けられていた。
この世界の住民にとって、異界の地図というのは、ただの凹凸、ただの紋様に過ぎない。
レオはじっと壁の一点を見つめてから、おもむろに凹凸の中のひとつに近付いた。
「ここ。僕の出身地は、ニホンだよ。……あ、これ、ジャパンって言ったほうが良いのかな」
言いながら、レオはその凹凸――ブロックを、押し込んだ。
「おや、ブロック式だったとは……レオも、よく気付いたね」
「わざわざ出っ張ってるから、押し込めるようになってるのかな、って思って」
「なるほどねぇ。やはり、君の観察眼と分析能力は、優秀だね」
ずず、と重い音を立てて、石が壁に沈み込む。
押し込まれたブロックを中心にして、光の線が広がった。まるで、古代遺跡の謎解きに挑んでいるかのような気分だ。
光の線はしばらく壁の上を踊っていた。やがて、不思議な幾何学模様を模っていく。
横に長く連なっていることから、それはきっと異界の文字なのだろう。
「なんて書いてあるんだい?」
クロニクルがレオに問いかける。レオは心の底から、嫌そうな顔をしていた。
文字の内容が分からないクロニクルは、内心で首を傾げる。純粋な疑問を宿すクロニクルの視線に、レオは、より一層、嫌そうに顔を顰めた。
「三回、その場で回って」
「うん」
「……犬の鳴き真似をしろ、って書いてある」
クロニクルとソフィアは、目を瞬かせた。
「それは、何かの儀式ですか?」
「違う」
「それなら、何か、こう、神聖な意味が……?」
「ない」
ソフィアは困惑した様子で、「では、この行動の意味は一体……?」とレオに問いかける。レオはソフィアから顔を背けて、「そんなの、僕が聞きたいよ」と言った。
レオが顔を背けた先では、クロニクルが俯いて、肩を震わせている。どうやら、笑いをこらえているらしい。
「ふ、ふふ……これはスラングだよ。相手をバカにするときに使うスラングだね」
「スラング、ですか?」
「そう。庶民の、俗物的な言い回し、とでも思っておけばいいさ。異世界にも存在したのだねぇ」
クロニクルの言葉を理解して、あら、と言いながら、ソフィアは口元を押さえた。
その仕草はいかにも貴族らしく、ソフィアの育ちの良さが滲み出ている。スラングなどとは、まったく無縁の生活を送ってきたのだろうことは、想像に難くない。
「えぇと……」
ソフィアは気まずそうにレオを見た。言葉に迷ってから、小さな両手に、軽く拳を作って見せる。
「がんばってください!」
ソフィアの言葉に、笑いをこらえていたクロニクルは、とうとう腹を抱えて笑い出した。
「いやぁ、良かったね! こんなに可愛く応援されたら、レオもきっと張り切ってくれるだろう!」
「えっと、ほ、本当ですか……?」
もちろんだとも、と宣うクロニクルを、レオは恨めしそうに見た。クロニクルの言葉に何を思ったのか、ソフィアが嬉しそうにしていることも、レオは何となく気に食わない。レオは、もはや、文字で指示された内容よりも、クロニクルの言動のほうにこそ、悪意を覚えている。
もっとも、クロニクルの言葉に悪意がないことを、レオは分かっていた。クロニクルは、ただ無邪気に、子どものように純粋に、相手を揶揄って遊んでいるだけなのだろう。
そして、悲しいかな、多くの場合、遊ばれるのはレオなのだ。
「ほらほら、レオ、がんばって!」
「うるさいよ」
苦虫を嚙み潰したような顔をしながら、レオが言う。心なしか、声には覇気が感じられない。
レオは、くるり、と、綺麗に三回まわった。妙に様になっているのは、せめて相手の思い通りに無様を晒してなるものか、という、レオなりの抵抗だったのかもしれない。
「……わん」
レオが無表情で、声を絞り出す。クロニクルは、「ぶふぉ」などという間抜けな音を噴射しながら、笑い転げた。
クロニクルとしては、無表情で犬の鳴き真似をするということが――無表情であること、それこそが、よほど面白かったらしい。もしレオが顔を顰めていたならば、あるいは怒りをその表情に乗せていれば、クロニクルは小さく笑いを吹き出す程度の惨事で済んだだろう。
一方でソフィアといえば、何を思ったのか、「おぉー……」などと感嘆の声をあげながら、小さく拍手をしている。それに気付いたクロニクルは、とうとう笑いながら床をたたき始めるという奇行に走り、ソフィアに心配されている。
レオは不満を隠そうともせず、恨めしそうな目のままに、再び壁の上を走るように踊り始めた光の線を睨みつけている。
しばらくレオはそうしていたが、次の文字らしきものが模られてから、ぱちくりと、ゆっくり目を瞬かせた。
そうして、ふ、と、どことなく勝ち誇ったような表情を浮かべた。表情の変化は些細なものだったが、僅かに口角が上がっている。
「ニック」
「……え? それ、私のことかい?」
「うん。長いから」
「ふふ、ニックって、私の、んふふ、あっはは!」
今は何を言われても笑ってしまうらしいクロニクルに、レオが話しかける。
レオの表情の変化に、クロニクルもソフィアも、まだ気付いていない。
「全員やるらしいよ」
ぴたり、と、笑い声が止まった。代わりに、すぅ、と息を吸い込む音が、やけに大きく広間に響く。
「……嘘だろう?」
クロニクルの笑顔は、珍しくも引きつっていた。
そして、レオのほうも珍しく、口元に笑みを浮かべていた。




