0.青のギャラリー
恋愛小説のオムニバスの2作品目として、本日から「青の世界」を投稿いたします。
ぜひお楽しみください。
「俺の名前は桐生青」
「私は安桜澪です」
「これからよろしく!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私は思い立って足を踏み入れた場所で、彼と出会った。この時、彼が私の人生に大きな変化を与えるだなんて思いもしなかった。
遡ること1カ月程前――。
「久しぶりだなぁ、本屋に行けるのはいつ以来だろう?」
自宅のアパートを出た私は久しぶりに予定のない休日を迎えることとなった。そこで中断していた趣味の本屋とカフェ巡りを再開させた。
ここ数カ月は引っ越しや仕事で忙しく、有給消化中は荷物の整理や前職の引き継ぎ対応に消えた。有給消化後は新しい会社での研修が続き、疲労困憊の日々を送っていた。自分でもよく倒れずにやり切ったと褒めてあげたいくらいである。
慣れない土地で新しい生活に仕事、30代という1つの区切りを迎えた訳だが、不安は尽きなかった。それでも新しい職場の同僚達はいい人ばかりで、仕事もやりがいがある。未経験の業界で覚えることは多々あるが、皆のおかげで何とか1人でもこなせるようになった。本当に転職して良かったと思っている。
バスの車窓から見える景色は、この数カ月で随分と見慣れたものになっていた。職場は自宅からバスに乗って最寄駅まで行き、電車に乗り換えて2つ先の駅で降り、徒歩で数分の好立地にある。
新居を探す際、通勤時間を短縮したくて職場のある駅で探したが、人気のある駅で家賃が高くて手が出せなかった。予算内で借りられる物件もあることはあったが、さすがに風呂なしでトイレが共用のアパートに住む勇気はなかった。
その点、今のアパートは職場がある駅から2駅で、自宅から職場まで30分とかからない。その上、オートロック付きで女性専用。さらに、住み込みの管理人が24時間在中ときた。
管理人さんは高齢のご夫婦で、不在時の荷物の受け取りもしてくれるし、何より人柄が良くて顔を合わせる度に笑顔で声をかけてくれる。まるで、本当のおじいちゃん、おばあちゃんのように。まさに、至れり尽くせりの理想的な物件だった。
引っ越し後は特に忙しく心身ともに疲労していて、いつも元気で明るいご夫婦の笑顔に救われた。毎日遅くに帰る私におかずを差し入れしてくれることもあった。管理人さんは「作りすぎて余ったから」と言っていたが、高齢のご夫婦が食べそうもないボリュームのあるおかずばかりだった。
最初は忙しくて余裕がなく、お礼を言うので精一杯だったが、新生活に慣れてくると管理人さんが私のために精のつきそうなおかずを作ってくれていたことに気づいた。
それから、私は出張先や取引先からのお土産、趣味で行ったカフェのスイーツを管理人さんご夫婦にお裾分けするようになった。毎回、物珍しいお土産に喜んでくれているようだった。
今日の予定は駅前の本屋で仕事に役立つであろう専門書を購入し、どこか気になるカフェに入って紅茶を飲みながら、静かに読書でもするつもりだ。久しぶりに、ゆっくりと贅沢な時間を過ごせそうだ。
「あっ、おしゃれな喫茶店がある。本屋の帰りに寄ってみようかな?」
バスは駅まで行くのだが、一度街中をゆっくり散策してみたいと思い、駅から3つ手前の停留所で降りることにした。大通りから1本裏の通りに出ると、おしゃれな飲食店や雑貨屋が軒を連ねていた。
「へぇ、初めて歩いてみたけど、何かいい感じ! これはお気に入りのカフェが見つかりそうな予感がする」
暫く歩くと十字路に差しかかり、少し広い通りに出た。左方向を見ると古びたビルがあり、1階には趣のある喫茶店を見つけた。
――わぁ、いいっ! 今時のおしゃれなカフェとは正反対だけど、このレトロな感じとお客さんの少なさ、静かに読書するのにぴったりだ。
そう、私がカフェを探す際に外せないポイントは、美味しそうなスイーツがあること、そして何よりお客が少なく、長時間でも気兼ねなく読書に専念できるかどうかという点である。
喫茶店に近づくと、ガラス窓から店内の様子を窺った。喫茶店にはお一人様の客が2~3組で、外から見ても静かで穏やかな雰囲気であることが分かった。
――スイーツ以外の条件はクリアね! 後は、また食べたいと思えるスイーツがあるかどうか、それが重要。本屋の帰りに寄るのはこの店にしよう。
立ち寄る喫茶店が決まって、駅前の本屋へ向かおうとした時だった。ある建物が目に入った。
「ん? あれ、何だろう?」
後ろを振り向くと、レトロな喫茶店の斜め向かいに2階建ての真っ白な外壁の箱形の建物があった。建物の幅は狭小住宅を思わせる小ささで、2階には観音開きの青い木製扉のついた窓が1つ。1階にはガラス扉があり、その手前に夏の空のように真っ青なスタンド看板が1つ置かれていた。
まるで白い外壁に青い屋根の建物が並ぶ地中海のおしゃれな島の風景を彷彿とさせた。スタンド看板の爽やかなブルーの配色に目を奪われ、気づくと私は看板の前に立っていた。
看板はコバルトブルーをベースに、数種類の青い油絵具が重ねられていて、その上に透明で薄いアクリル板が重ねられている。アクリル板には文字が刻印されていた。
「個展ギャラリー『青の世界』?」
――個展ギャラリーってことは、絵画か写真の作品が飾ってあるってことだよね。テーマが青ってことかな? 何だかちょっと見てみたいかも。
確か、ギャラリーなら入場料無料が多いんだよね? まぁ、有料でも美術館の入場料とさほど変わらないよね。よしっ、折角だから入ってみようかな!
心が躍るそんな気分で気軽にガラス扉を開けて中に入った。最初に、視界に入ったのは正面の奥に立てられたパーテーションで、「作品はこの裏に展示されています」という案内表示の看板が飾られていた。
左に視線を向けると、腰よりやや高さのあるガラス棚があった。棚には作者のグッズだろうか、ざっと見ても十数種類のグッズが並んでいるように見えた。帰りに寄っていこうと考えていると、そのグッズが並ぶ棚の裏から、にこやかな笑みをこちらに向ける女性が顔を出した。
「ようこそ、青の世界へ」
「あっ、あの、私、こういう個展とか見に来るのは初めてで……入場料はあるんでしょうか?」
「はい、当ギャラリーでは入場料を頂いております。入場料は3千円です」
「3千円っ!」
「えぇ、ですが、当ギャラリーでは今日だけでなく、何度も……」
――3千円って、個展ギャラリーの入場料はそんなに高いの? 無料か有料でも2千円以下だと思ってたのに〜。もしかしてすごい有名な人の個展だったのかな?どうしよう、今日買う予定の専門書は結構高いし、今月は出張先の旅費の立て替えがあって、あんまり金銭的な余裕がないんだよなぁ……。
うーん、中に入った以上は何も見ずに出るのも気が引けるし、それに『青の世界』がどんなものなのか気になる……どうしよう。でも、やっぱり!
「お客様?」
「えっ、あぁ~、はい。すみません、大人1枚お願いしますっ」
「ありがとうございます。作品の展示スペースはあちらのパーテーションの裏にあるので、心ゆくまで何度でも観ていってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
――あぁ〜、つい大人1枚と言ってしまった。うーん貴重な3千円が……。こうなったら、3千円分ゆっくりじっくり観ていって元を取るしかない!
パーテーションの裏へ進むと、左右の壁に作品が展示されていた。展示エリアはロビーの明るさよりも一段と薄暗く、照明は小さな間接照明が天井や足元に埋め込まれている。するとピアノが演奏する優雅なBGMが耳に流れてきた。
展示エリアには私の他に3人の客がいて、年代はさまざまだった。左側の壁の作品をじっと見ているのは、どこか品の良さそうな身なりをした白髪のおじいさんと、奥の展示室から出てきた若い女性だ。
右側の壁の作品を観てる人はTシャツにジーンズのラフな格好をした男性。顎にまで届きそうな長い髪で顔が隠れていて年齢までは分からなかった。その男性は角度を変えては作品をさまざまな視点から観ているようだった。
――さぁ、私もじっくり観ようじゃないの! えっと、順路は右からっと。
私は絵画に精通する知識もなければ、本格的な絵を描いた経験もない、あるのは「青いもの」と風景画に目がないということだけだ。
気になる絵画の展示がある時にだけ美術館に足を運ぶ程度で、美術商やアートに精通した人たちのためにあるような、敷居の高い個展ギャラリーに行くことはなかった。でも、あの青い看板を一目見て、思わずどんな作品が展示されているのか、自分の中の好奇心を抑えることができず、足を踏み入れてしまった。
ギャラリーは外観こそ間口が狭い建物だが、中へ入ると奥行きがあり、思った以上にゆとりのある空間が広がっていると分かった。
3千円の入場料。想定外の出費で、今日は専門書の購入を断念せざるを得なくなったが、気持ちを切り替えることにした。頭の中はすでに、『青の世界』がどんな世界観なのか、それだけで一杯になっていた。
ギャラリー内は薄暗いと思っていたが、最初の作品を観て、部屋の薄暗さの意図に納得した。室内の薄暗さに比べて、作品は照度の高い照明でライトアップされていた。明かりに灯された作品の青い絵具がとても美しく見えたのだ。壁は白無地のクロスで、作品のタイトルや説明書きのようなものもない。壁に掛けられているのは絵画だけである。
――わぁ! やった、大当たりだ。作品は絵画だったんだ。なんて綺麗な青なんだろう。
最初の作品は1輪の青い花の絵だった。背景も同じ青だったが、微妙に色の濃さが違い、まるで花が浮き出ているように見える。油絵具を幾重にも塗り重ねられてできた凹凸は、照明の明かりによって陰影が生まれ、花びらや茎、葉の境界を示していた。
――すごいっ、青い絵具だけで描かれてる! だから、『青の世界』なのね。もしかして、他の絵も青だけで描かれてるのかな? 楽しみだなぁ。さて、次の絵は……。
次の作品は薄い青の背景に、1枚のお皿が描かれていた。お皿は濃い青色で、その上には何も描かれていなかった。
――青いお皿かぁ。綺麗な青だけど、お皿の上に何か食べ物を置きたくなる絵だなぁ。何を置いたら、このお皿はもっと見栄えがするだろう?
お皿の絵を眺めること数分、この青いお皿にぴったりな食べ物を思いついた時、突然男性に声をかけられた。
「もしかして、君にはその絵に別の物が見えてるの?」
「えっ?」




