6.車窓と雫
ここまで『第1集 星夜の巡り合わせ』を読んでくださり、ありがとうございます。
今日の投稿で、第1集の全7話が完結となります。
最終話で少し長編となりますが、ぜひ最後まで楽しんでいただけますと幸いです。
「巡さん、こんなことを言うと引かれるかもしれないし、俺が言うのは説得力に欠けるかもしれない。それでも言わせて欲しい」
「は……い?」
「巡さん、俺と結婚を視野に入れた交際をしてもらえないだろうか? いや、そうじゃないな。巡さん、俺と結婚前提で付き合って欲しい」
「…………」
――んっ? ケツコンゼンテイ? コウサイ? んっ? そ、それって!!
「えぇ〜!!!」
******
特急列車の車窓から見える景色は日が落ちたせいか、真っ暗で何も見えなかった。ボーっと窓の外を眺めていると、ポツリと窓ガラスに水滴が斜めに流れてきた。
「雨か……」
宿に宿泊していた間、星空や月夜を楽しんでいたのが嘘のように、雨足は早まり、窓ガラスはあっという間に水滴だらけになった。
――あれっ、おかしいな。雨が降ってるのは外なのに、どうして頬が濡れているんだろう。心なしか、視界もぼやけてきたなぁ。
指を頬から目元に当てると、何故だか瞳から大粒の涙が流れていた。
涙は彼との別れ際に枯れ切ったのだと思っていた。
******
彼から思いがけず、結婚前提の交際を申し込まれた。私の頭は完全に思考が停止し、暫くの間呆然としていた。正直なところ、その後も彼が何か話しかけていてくれたのだが、私にそれを拾い上げる余裕はなく、頭は真っ白のままだった。想像もしなかったことが起こったのだから、私の立場だったらきっと誰もが思考停止しただろう。
フリーズした思考力が徐々に戻っていくうちに、自分は夢でも見ているのだろうか、そんな気分になっていた。だが、右手で自分の右頬を強く引っ張ってみるが、何も感じなかった。それで、やっぱり夢だったんだって思い直した。
すると、心配そうな表情をした彼の顔が私に近づいてきた。顔と顔は、手を伸ばしきらなくても彼の頬を容易に触れられる距離間にあった。
「巡さん? 巡さんっ、大丈夫か?」
「へっ?」
夢の中にいたと思いきや、目の前にいる彼は本物だった。彼が本物だと気付いたのは、自分の両頬が、ゴツゴツとした温かい何かに包まれていると知ったからだ。
夢の中から現実に引き戻された私の顔は、彼の両手にすっぽりと包まれていた。
視線が重なると、彼は「ふぅ~」と小さく息を吐いて、私の頬から両手を放した。
「巡さん、君は本当に俺の心を揺さぶるのが上手だよね」
――筧さん、何を言っているの? 心を揺さぶるのはあなたでしょう。私はいつだって、あなたの言葉や行動に揺さぶられてきたのに……。
「――心を揺さぶるのはいつだって、筧さんです……」
「えっ……、あぁ、ほらねっ、今だって俺は君の一言で感情がかき乱されてるんだけど? でも、そうか……君も俺と一緒だったんだね」
「えっ? それってどういうこと?」
「俺は君に感情を揺さぶられた、君も俺に同じ感情の動きを感じていたんだろう? 俺たちはお互いに惹かれ合っていたってこと……」
「そ、そんなこと……」
――そんなこと、簡単に言わないで! 私はずっとあなたへの想いを断ち切ろうと必死だったの。今更、そんなこと言われても……困るのに……。
彼は「はぁ~」と大きな溜息をつくと、スーツ姿のまま私の目の前で片膝をついてしゃがみこんだ。
「何だ、俺は大きな過ちを犯すところだったってことか……」
彼は両目を隠すように片手を顔の上に置いた。2人の間に沈黙が続いた。でも、その沈黙に張り詰めるような緊張感はない。どこかやさしく、温かさを感じる空気感だった。
額に当てた手をどかし、私が座るベンチに両手を置くと、私は彼に囲われる形となっていた。彼の膝が私の膝に触れた。
「何で、俺は気付かなかったんだろうな――。もっと早く君への気持ちに気付いて猛アピールしていたら、こんなに遠回りすることも、苦しむこともなかったのに……」
「…………」
――筧さんも、苦しんでいたの? 私に気持ちを伝えることを躊躇って? どうして? そうか、彼も不安だったんだ。
彼は言っていた。結婚はしない、自信がないからって。あれは彼の本音だったんだと今ようやく気付いた。家庭や結婚への憧れがなかったんじゃない、きっと、想像できなかっただけなんだって。
人は想像できるものを欲しがることはできるけど、想像すらできないものを欲することはできないのだから。
私は両手を伸ばし、彼の両頬を包み込んだ。彼は戸惑いながらも、私の掌に頬を預けてくれた。
「筧さんも、不安だったんですね。私と同じだったんですね。私は、自分だけがあなたに惹かれていて、きっと私なんか相手にされないだろうって思い込んでいました」
私の言葉を聞いて、伏し目だった彼の瞳が真っ直ぐに私の瞳を捉えた。その瞳に迷いや不安はないように思えた。言葉はないが、その瞳が私への想いを伝えてくれているように感じ、私はゆっくりと胸の内を明かした。
「私は自分らしさって何だろうって、ずっと考えていました。本当は違うのに、無理をして相手が期待する自分を演じていたんです。過去の恋愛も、職場の人間関係もうまくいかなくなって、全てから逃げました。私はそれほど心の弱い人間です。でも、だからこそ気付けたこともありました。
無理に理想的な自分を演じている間は、なりたい自分になれないって。
筧さんと出会って、恋愛を意識せずに楽しく会話ができた男性は筧さんが初めてでした。それはきっと筧さんのお人柄なんだと思いますが、自分も長年着続けていた鎧を脱ぎ去ることができた気がしたんです。本当に筧さんには感謝しかありません」
彼の両頬から両手を離そうとした時、彼のがっしりとした両手が私の両手を掴んだ。彼の手によって私は彼の両頬を包んだままの姿勢になった。
彼の瞳は柔らかなものから一段と真剣な眼差しに変わっていた。その瞳から逃れられなかったし、私も逸らすつもりはもうなかった。
「私も、筧さんに出会えて本当に良かった。でも、私は筧さんに相応しくありません」
私の両手を掴んでいた彼の両手がそっと離れていった。
彼は立ち上がって私に背を向けると、長く深い溜息を吐いた。その後、彼は再びベンチに腰を下ろした。
「――巡さんは、どうして俺に相応しくないって思うの? それなら、俺の方が巡さんと釣り合わないじゃないか」
「ど、どうしてそうなるんですか?」
「だってそうだろう? 俺は世間的にはモテるかもしれないけど、好きな女性には選んでもらえない。きっと俺には魅力が足りないんだろうね」
「そんなことありません! 絶対に!」
「俺だって、巡さんに魅力があると思ってる。少なくとも俺にとっては唯一無二と感じている女性だ。巡さんが俺に言ってくれている言葉は、俺も君に思ってることと同じだ」
「……」
「――じゃあ、百歩譲って巡さんが俺と釣り合わない、として、それなら、巡さんはどうなれば俺と釣り合うと思うの?」
「えっ?」
「俺は、巡さんが不安に思ってることを知りたいし、一緒にそれを解消する方法を見つけたい。そうすれば俺たちは晴れて相思相愛だ。そうじゃない?」
――いや、そんなことは……そ、そうなのかな? 私の不安が何か分かって、それが解消できたら私たちは……。でも、やっぱり。
「でも、やっぱり――」
「ストップ」
言葉を言いかけた私の唇を、彼の人差し指が止めた。
「でも、やっぱり、はナシだよ、巡さん。巡さんはそんなに俺と一緒にいるのが嫌なの?」
「い、嫌じゃありません!」
「ふっ、それなら、まずは目の前の課題に向き合おうか? 一緒に考えて解決すればいいんだから」
私が論理的な思考の彼に敵うはずがなかった。彼は言葉にならない私の不安を否定せずに、丁寧に向き合ってくれた。
「つまり、巡さんは自分に自信がない。だから、今は良くてもこの先ずっと俺が君を好きでい続けられるのか分からず不安ということだね」
「うっ……そうなんですけど、何かはっきり言葉にされると、気まずいというか……」
「巡さん、俺たちはもうすでに同じ舟に乗っている。気まずいとか、今更そんなのはナシだよ」
彼はこの状況を楽しんでいるのではないかと思えてきた。少し前までの妙な空気感は一切なく、まるで難解な謎を解き明かそうとしているようにも見える。
「筧さん、何だか楽しんでません?」
「ん? あぁ、とても楽しいよ」
「ちょ、やっぱり面白がってるでしょうっ」
「別に巡さんを揶揄っている訳じゃない。ただ目の前の課題をクリアできれば、俺たちはずっと一緒にいられる訳でしょ。だから、楽しくて仕方がないよ。早く課題をクリアして、君を俺だけのものにしたいから」
「ちょ、かけ……、な、何てことを言うんですかっ。誰かに聞かれたりしたら――」
彼は周囲をキョロキョロと見た後、にっこり笑顔で口を開いた。
「誰もいないから大丈夫だよ、巡さん」
――この人、何でこんなに余裕綽々としてるのよ! 私だけ慌てて、焦って、照れて……。でも、私はこんな面倒な性格なのに、筧さんは嫌な顔1つ見せずに向き合ってくれるんだ。
彼は課題をどうクリアしようか、と完全に思案モードに入ったようだ。ブツブツと時折呟きながら。
「巡さん、俺たち同棲しようか」
「はっ?」
「うん、やっぱり同棲しかないな。これが一番の解決策だ」
――私の不安を解消する答えが、同棲? 意味が分からないし、唐突すぎる! 付き合うかどうかも悩んでいるのに、どうしたら同棲という思考になるのよ!
「かけ――」
「巡さんがいろいろ言いたいことがあるのは分かるよ。でも、その前に俺の話を聞いてもらえないかな?」
――私ってそんなに顔に出やすいのかな? それとも筧さんの相手の心情を読む能力がずば抜けて優れているから?
彼の言葉を否定しようと口を開く度に、彼の人差し指が私の唇を塞いだ。
「――分かりました」
「ありがとう、巡さん」
彼は至って冷静である。私が了承すると、歯を見せながらにっこり笑顔を向けてきた。
――あぁ、何か、このまま彼の口車に乗せられて、何でもOKしちゃいそう……。私はそれで本当にいいんだろうか?
「巡さんの自信がないという悩みを解消するなら、籍を入れるのが手っ取り早いと思うけど……」
「――へっ? ちょ、それ」
「まぁまぁ待ってよ。さすがにそれは巡さんの気持ちを無視することになるし、俺としても互いが納得した上で籍を入れたいと思ってる」
「…………」
「でも、俺は東京で全国を駆け回ってるし、君は静岡だ。俺は東京と静岡を行き来するのは苦にならないけれど、それだと巡さんは不安になるよね?」
「――――」
「そうだな、俺がいつ家にいて、それ以外はどこで誰と何をしてるのか、とか、返信が遅くなって君を不安にさせるとか、俺が忙しくて君に会いに行けないとか、かな?」
――うん、うん。確かに、それは気になるし、見えない、会えない分不安になるのは間違いなさそう。
私は無意識にコクリ、コクリと頷いていた。
「――うん、もしも俺と君が同棲したら、家にいる間はずっと一緒だし、忙しい時でも同じ家に帰る訳だから顔を一目見ることも可能になる。メールでこまめに連絡を取るよりも、会って話した方がその時に湧いた不安を解消しやすい。お互いに顔を見て話せる訳だからね。
もちろん、俺は仕事で家を不在にすることも多いから、同棲しても君の不安を全て払拭できる訳じゃない。それでも、一緒にいればできることは増えるし、不安や悩みも一緒に考えて解決できる。俺はそう考えている。幸い、君の仕事はネット環境とパソコンさえ揃えば何処でだって仕事は続けられる。だから、巡さんと同棲したい。どうかな?」
「――――」
彼の目尻は下がり、やさしい眼差しが私に向けられている。
――こんなにも真剣に考えてくれる筧さんはやっぱり紳士だし、誠実な人だ。筧さんがその場の勢いや下心だけで同棲とか、結婚とか、そんな言葉を言っている訳じゃないことは分かる。筧さんが言ってくれたことも筋が通っていて、納得できる。
でも、きっと同棲しても結婚しても、私自身が変わらないといつまでも不安に押し潰されて、筧さんのことを苦しめてしまうかもしれない。私が変わらないと。
口を開きかけた時、隣に座る彼が小さく笑った。
「ふっ、巡さん、本当に君は強情な人だ。何もかも脇に置き去って、俺の胸に飛び込んできてくれたら良かったのに……」
「――でも、それじゃダメなんです」
「うん、そうだよね。本当はこんな誰にでも言えるような提案をするつもりはなかったんだ。特に君は自分という軸をしっかりと持っている人だからね。俺がどんな言葉で説き伏せようとしても、きっと君は納得してくれないだろう」
「筧、さん……」
「巡さん、君はどうしたい?」
「私、私は、筧さんと離れ離れでも大丈夫な自分になりたいです」
「――離れ離れかぁ、淋しいな……」
彼は腕を組んで、暫くの間空を見上げていた。
明るかった空は日が傾きかけていて、月が一層と輝きを放ち始めていた。
――きっとこんな私にガッカリしてるよね。こんなにも懸命に私のことを第一に考えて話してくれているのに……。
それに比べて私は自分のことばかりで、筧さんのことを何1つ考える余裕すらない。やっぱり私たちは合わないのかもしれない……。でも、その言葉が言えない、どうしても言いたくないっ……。
2人の間に続いた沈黙は数分のことだったが、私には何倍も長く感じられた。彼の提案を受け入れる度量も、潔く彼への気持ちに踏ん切りをつけることもできない。40年以上も生きてきて、自分は何を学んできたのか。こんなにも一緒にいて居心地の良さを感じられる人とこの先も出会える保障はないのに……。
長いと思われた沈黙を断ち切ったのは彼だった。彼が何を言おうとしているのか、自分たちがどんな結末になるのか、ただただ嫌な予感ばかりがしていた。
「巡さん、じゃあこうしよう。今日は一旦それぞれの家に帰ろうか」
――やっぱり、筧さんは私に呆れたよね。彼はできる最善の提案を考えてくれたのに、私はそれを受け入れられないのだから……。きっとこうなるって分かってた。
でも、まだ何も始まっていないんだから、心の傷も浅く済むはず。だから、笑顔で筧さんに「さよなら」を言おう。
「実を言うと、明日から2カ月間、大きなプロジェクトの稼働が決まっててね。自宅には寝に帰るくらいの忙しさになるんだ。正直なところ、巡さんの顔だけでも見れたら嬉しかった。まぁ、それは俺の我儘でしかない。君にそんな無理を強要できないからね」
「……」
「2カ月後、抱えてる仕事を片付けた後、君に会いに行くよ」
「――――えっ! てっきり私のこと……」
驚きのあまり、ベンチから立ち上がって彼の方を向いた。彼はベンチに座ったまま私を見上げている、その顔は至って冷静だった。
「そんなに意外だった? 俺は君を諦めるつもりなんて、これっぽっちもないんだけど?」
「そんな、なんで……どうしてですか? どうしてそこまでして私のことを……ぐすんっ」
私は彼が私のことを諦めるつもりはない、と言った言葉を聞いて、頭が混乱してしまった。同時に、彼の顔は涙でぼやけてしまって分からない。彼が今どんな顔をして私を見ているのか……。
子どものように泣きじゃくる私を、彼の温かくて大きな両手が包み込み、その広い胸に引き寄せられた。頭が真っ白なまま、彼の胸にしがみついて泣き続けることしかできなかった。
これほど人の前で泣いたのはいつぶりだろうか? いや、今までこんな風に人の前で大泣きしたのは初めてだった。
そもそも私は人前で涙を流せる質ではない。周囲の視線を気にしてしまって涙が出てこないのだから。泣く時はいつも1人の時と決まっていた。そのせいもあり、私は周囲からメンタルの強者というおかしなレッテルを貼り続けられていた。
本当の自分は強くない、本当は弱くて仕方がないのに……。そんな心の叫びに気付いてくれる人は誰もいなかった。でも、彼は違った。表面的な私ではなく、内面にも目を向けてくれた初めての人。彼と一緒にいることができれば、きっと私は幸せになれる。私の心はすでに答えを出していた。
彼の広い胸に抱かれていたせいか、安心しきって一心不乱に泣いていた。頬を流れる涙ももう一滴も出てこなくなった。次第に、肩の震えもしゃくり上げて出た声も治まってきた。
――あぁ、こんなに泣いたのは久しぶりだ、ちょっとすっきりしたかも。でも、今のこの状況、どうしたらいいの? いい歳した大人が子どもみたいに泣いて……恥ずかしすぎる! どうしよう、顔を上げられないっ。
「巡さん、このまま聞いてくれる?」
私は顔を上げられない手前、コクリと頷くしかなかった。
「俺はね、これまでの人生に何の未練もないし、この先の未来に希望も持っていなかったんだ。ただ、今、目の前にある自分の役割を全うしていればいい、とだけ思って生きてきた。今考えてもつまらない人間だったと思う」
「――――」
「でもね、巡さんと出会って、誰かと一緒に過ごすのも悪くないって思うようになったんだ。これは俺にとって人生を180度変えるほどの大きな変化だった。俺はずっと1人でも生きていけるって考えてたんだ。
でも、本当はそうじゃなかった。意識はしていなくても、心の底では誰かに愛されたい、誰かに必要とされたい、そう願っていたんだよ。それが、その相手が巡さんで本当に良かったと思う」
――そんなの、私じゃなくたって……。
またもや否定的な考えが頭を過った時、彼は先回りするように口を開いた。
「こんなことを言うと、巡さんは『私じゃなくても他にいたでしょ?』って言うかもしれないけどね――」
「…………」
――うっ、筧さんは本当に私の心を読む力があるんじゃ……!
「きっと、いや、絶対に、巡さんじゃなければ俺はこんな風に自分と向き合うことができなかったと思う。巡さんがその場の勢いで結論を出すんじゃなくて、悩んで、悩んで、それでも答えが出なくて――そんな君だから、俺は一緒にいたいと思うし、そばで支えになりたいと思う。こんな気持ちになるのは巡さん、君だけだから」
彼が私を抱きしめる腕の力を緩め、私の両肩を両手で掴み、自分から私の体をやさしく引き離した。
大泣きしてひどい顔をしているし、恥ずかしいやらで顔を上げられずにいると、彼の両手が私の両頬を包み、そっと上を向かせる。恥ずかしさで抵抗しようとするが、彼の両手はがっしりと私の両頬を包んでいたため、やむなく彼と視線が合わさった。
「俺は、俺のそばにいてくれる女性が欲しくて君に告白している訳じゃない。俺が一緒にいたいのは、巡さん、君だからだ。君がいくら自分に自信がないと言っても、俺に対して不安を抱いていても、それは俺が君を選ばない、という理由にはならないんだ。君が自分のことを嫌いでも、そんな君をひっくるめて、俺は君を好きなんだ」
彼は真剣な眼差しでいて、その瞳には温かくやさし気な光が宿っている。その瞳から目を離せなくなっていた。
すると、再び頬をぽたりと涙が流れていく。だが、その涙にはもう自分を卑下したり蔑んだり貶めたりする感情はない。
彼の真っ直ぐな想いが、幾重にも凍り付いていた心の扉を溶かしてくれたのだろう。胸の辺りがほわっと温かくなったように感じた。
2人は見つめ合っているが、そこに言葉はない。
――筧さん、ありがとう。あなたの気持ちがようやく分かった気がする。私は自信のない自分はダメ、弱い自分はダメ、ずっとそう思っていた。そうでなければ周囲の人に受け入れてもらえなかったから。
でも、あなたは違った。どんな私でもいいと言ってくれた。私は自分に自信を持てなくてもいい、弱くてもいいんだ。それでも筧さんは私を受け入れてくれる。もう、迷わない!
私の中で確固たる決意をした時だった。
彼の目元は下がり、やさしくて穏やかな目になったかと思うと、彼の顔が、彼の両手に包まれた私の顔に近づいてくる。
――えぇっ! こ、これは、き、キスぅ~? ちょ、ちょっと待って、まだ心の準備が! あぁ、もうっ……!
彼の顔が近づくにつれて、私の思考は再び停止した。
「チュッ」
「…………?」
咄嗟に瞑った瞼を開くと、額からじんわりと温かく柔らかい何かが触れた感触が伝わってきた。気付くと、私の両頬は彼の手から解放されていた。右手を額に当てると、彼が額にキスをしたのだと理解した。
「なっ、筧、さん? き、キス、な、何で……?」
「巡さんが俺の心を受け取ってくれたから。本当はここにしたかったんだけどね……」
そう言うと、彼が自分の人差し指を私の唇にそっと触れた。
「でも、そうすると俺は理性が保てなくなる。今日はそこで我慢しておくよ」
「今日は、って……」
「もちろん、次会った時には我慢しないよ。だって俺たちはもう恋人同士だろ?」
彼は少年のようなにっこり笑顔を私に向けた。その笑顔ははにかみながらも、彼の素の姿なのだと思った。
「巡さん、もう一度言うよ。これから、俺のそばにずっといてくれるね?」
彼の気持ちを受け取った以上、私に否定する気持ちは一切湧かなかった。だから、私も彼の笑顔に負けじと、にっこり笑顔で答えた。
「はい、筧さんが嫌だと言ってもずっとそばにいます!」
「あははは……、それは逆だろう? 嫌になるのは俺じゃなくて、君だろう?」
「そ、そんなことはないですよ」
「本当か? それなら、その言葉、絶対に忘れないでなっ」
「えっ、は、はい、もちろん!」
「巡さん、今、一瞬不安になったでしょ? 『私、大変なこと言っちゃった~』ってさ」
「そ、そんなことないですよ、あははは……」
「怪しいなぁ、巡さんは1人で考え込むのが得意だからなぁ。ねぇ、いい? 絶対に1人で悩まないでよ。悩みや不安がある時は一番に俺に相談して? 分かった?」
「はい、先生っ」
「先生って……」
「だって、筧さんの言い方、学校の先生みたいだったもの」
「ぷっ、先生か……せめてお兄ちゃんが良かったな……」
「――お兄ちゃん、なんて言いませんよ」
「ちぇっ、まぁ、でも、巡さんが笑ってくれたんなら、いいかっ」
「あぁっ! もうこんな時間っ。筧さん、明日は何時から仕事ですか?」
「――えっと……始発の新幹線で大阪だったかなぁ……ははは」
「えぇ! 始発って、車なんですから早く帰らないと渋滞にハマってしまいますよ」
「まぁ、そうなんだけれどね……」
私はスマホを出して、自分が乗る最寄駅発の特急列車の発車時刻を確認した。今いる湖は最寄駅と真逆の方向で、車で30分位かかる。さすがにタクシーを拾うのは難しいため、彼の車で最寄駅まで送ってもらうしか選択肢がない。
彼は明日も朝早くから仕事で忙しい。日も落ちかけてきて、東京まで車で戻るとなれば渋滞にハマりかねない。1分でも早く帰路についてほしいと思う。
「筧さん、申し訳ないんですけど、私を最寄り駅まで車で送ってもらえませんか? 今から向かえばそれほど待たずに特急列車に乗れそうです。筧さんも1分でも早く帰った方がいいです」
「――はぁ、俺も特急列車で一緒に帰りたい……」
「筧さんは車があるんですから、車で帰らなきゃ」
「――俺は巡さんと1分、1秒でも離れたくないと思ってるのに、君は随分とサバサバしてるんだな」
「――」
――そんなの、私だって筧さんと離れたくないに決まってるのに! でも、早く帰らないと、筧さんの体の疲れが取れなくなっちゃう……。
「ぷっ、冗談だよ。巡さんは俺の体のことを心配してくれてるんだよね、ちゃんと分かってるから。でもそうだなぁ、好きな女性がそんな風にいじらしいと余計離れ難くなるのが男の性ってやつなんだけどね。
あぁ、もういっそのこと、巡さんを車で送ってからそのまま大阪まで行こうかなー」
「そんなのダメです!」
「どうして?」
「そんなの決まってるじゃないですか」
「ん?」
「私が、あなたから離れるのが嫌になるから、です」
「――――」
彼は突然、ベンチに座って膝に肘をついて、俯いた。すると、大きな溜息が聞こえてきた。ベンチを見ると、彼が困ったような顔をして口を開いた。
「はぁー、巡さん、君は俺を帰したいの? それとも帰したくないの?」
「それは……」
「あぁ、やっぱり、ナシでっ」
「えっ?」
「巡さんの答えを聞いたら、俺は間違いなく家に帰れなくなるから……」
「……」
「特急列車は何時発?」
「えっと、19時15分発です」
「――後45分か……今ここを出ればちょうどいい時間だね。さて、重い腰を上げる時が来たかな」
彼はベンチから立ち上がると、私に自分の左手を差し出した。
「さぁ、そろそろ帰ろうか」
私は彼に歩み寄り、彼の手を取った。
「はいっ、最寄り駅までお願いしますね」
「――はい、はい、分かりましたよっ」
どちらともなく、自然に笑みが零れていた。
彼のエスコートで車の助手席に座った。数回しか座っていない助手席だが、何故か今は自分が座っても違和感がなく、しっくりきている感じがした。それはきっと彼と想いが通じ合って、ここが、彼の隣が自分の居場所だと認識できたからなのだと思えた。
最寄り駅に着くのはあっという間だった。彼は駅の駐車場に車を置くと、後部座席から私の荷物を出し、ホームまで持っていくと言った。私は1人で大丈夫だと言ったが、彼は荷物を持ってさっさとホームへ駆け上がっていった。
「筧さん、早く帰らないといけないのに……」
「巡さん、知らなかった? 俺の疲労は1時間長く自宅に戻ることよりも、君と10分長く過ごす方が癒されるって」
「――っ!」
――こ、この人は! どうしたら空気を吐くように、軽々と殺し文句を次々と言えるんだろう。こっちが恥ずかしくなっちゃうじゃない、もうっ!
彼は悪びれる様子もなく、ホームのベンチに座って、にっこり笑顔を見せてくる。そんな見慣れた彼の笑顔も、あと数分で見れなくなるのだと思うと、急に淋しいという感情が襲ってきた。無言のまま彼の隣に座った。
「――――」
「あっ、そうだ。俺としたことが……」
「えっ?」
「巡さん、名前と連絡先を教えてよ」
「あっ、本当だ、どうして今まで気付かなかったんだろう」
「ねっ? 案外俺たち抜けてるよね?」
「ふふふ……確かに……」
「俺は筧圭一郎です。改めてよろしく」
「私は巡藍です。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
それぞれスマホを出して連絡先を交換した。画面には「筧圭一郎」の名前が表示されている。思わず口元が緩んでしまった。彼に見られていないか、と慌てて顔を戻して彼の方を見る。
彼は自分のスマホに表示された「巡藍」の名前をじっと見つめていた。
「巡藍、か。めぐりあい……いい名前だな、巡さんらしい」
「そうですか?」
「あぁ、俺はそう思うよ? 藍……」
不意打ちのように、彼から下の名前を呼び捨てにされた。
「藍も、俺の名前を呼んでよ」
「かけ、け、けいいち――」
彼の名前を言いかけた時、ホームに特急列車が滑り込むように入ってきた。私の声は列車の風圧でかき消された。
「特急ふじやま~、静岡行き~、この列車は当駅で3分程停車します」
私は立ち上がり、彼の隣に置かれた自分の荷物を片手に持とうとしたが、彼の手によって遮られてしまう。
「藍は列車に乗って、荷物は俺が持つから……」
「う、うん……」
彼はやさしい微笑みを浮かべていたが、私が見ても分かるほど顔は僅かに引き攣っていた。きっと彼も私と同じく、別れが淋しいのだと。
列車に乗って、扉のそばでホームに体を向けた。彼は手に持つ荷物を列車の床に置いた。
「藍、また連絡する。会えなくなるのは淋しいけど、また会える。仕事が片付いたら迎えに行くから、心の準備しといて」
「うん、分かった……」
それ以上言葉にならず、沈黙が続いた。すると、ホームに列車の発車を知らせるベルが鳴り響いた――。
「藍、必ず迎えに行くからな、俺のこと忘れるなよ」
「うん、忘れない、忘れられる訳ないんだから……」
「うん、知ってるよ……」
列車の扉が閉まる寸前、私は彼の名を呼んだ。
「待ってるからっ! 圭一郎さんっ!」
彼は驚いた顔を一瞬見せ、すぐにいつものやさしく穏やかな笑顔を見せてくれた。
私は彼が見えなくなるまで手を振り続けた。
特急列車は週末だというのに、思いの外乗客は少なく、シーンとしている。それが余計に彼との別れを切ない気持ちにする。
床に置かれた荷物を持ち上げ、近くの窓側の席に腰を下ろした。
特急列車に揺られること、30分。夜空には無数の星が瞬いていた。
特急列車に揺られ、雨が降り出す少し前――。スマホの通知音が鳴った。スマホを開くと、大好きな彼からのメッセージを受信していた。
『藍は俺の感情をかき乱すのが得意だと言ったろ? だからきっと、この先君と長くいても一生退屈しないと思うよ。藍は過去の恋愛も、出会った他の男のことも、不安も、全て記憶から消していいよ。
もちろん、俺といても不安になることがあるかもしれない。でも、そうしたらまた今日みたいに一緒に考えて、答えを探せばいい。藍の不安は俺が全部解消してみせるから、心配いらない。
だからずっと一緒にいよう。藍が嫌だと言っても、俺は藍のそばを離れるつもりはないからな。絶対に忘れないで。
俺が好きなのは藍、俺が一生そばにいたいと思ったのは藍、俺が迷惑をかけられてもいいと思えるのは巡藍、唯1人だけだ。
2カ月後、必ず迎えに行く。この星空を思い出しながら、俺のことを待ってて』
メッセージに添付されていたファイルを開くと、彼と出会った日に2人で見上げた満天の星が瞬く夜空の画像がスマホの画面一杯に表示された。
彼の言葉に、彼のやさしさに、涙が止まらなくなった。
――圭一郎さんとならきっと大丈夫。何があっても2人なら乗り越えられる。圭一郎さん、あなたに会いたくて淋しくなったら、この夜空を見た日のことを、一緒に出掛けた時のことを思い出します。あなたが迎えに来てくれるのを、楽しみに待っています。
彼へのメッセージを送信すると、再び夜空の画像を開いた。
――2カ月後、彼に会ったら真っ先に言おう。
「筧圭一郎さん、私はあなたのことが大好きです」と――。
第1集 完
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
『第2集』も執筆中ですので、完成しましたら投稿いたします。
それまでお待ちいただけますと幸いです。




