4.焦燥
今日の投稿は筧さん視点です。これまでの2人のやり取りの裏に隠れた彼の心理の答え合わせになると思います。どうぞ楽しんで読んでください。
「少し早く来すぎたか……」
腕時計は約束の時間より30分も前だった。彼女と少しでも長くいたくて、無理を言って朝食を一緒に食べる約束を取りつけた。何故そんなにも必死に彼女と会おうとするのか、最初は自分でも分からなかった。それに比べて、彼女は至って冷静だった。
自分はモテる方だと思っていた。若い頃も、相手から声をかけてくるのが日常だったせいか、自分から誰かを積極的に誘ったり告白したりすることはなかった。
歳を重ねるにつれて、言い寄ってくる女の対応が面倒になり、職場でも冷徹な男を演じるようになった。すると、擦り寄ってくる女も少なくなっていった。それからというもの、随分と恋愛から遠ざかってしまった。
恋人はいなくても欲の発散はそれなりに解消できていたし、元々結婚願望はなかったから、独身貴族も悪くないと考えていた。
だが、この数日で俺の価値観は驚くほどに変わってしまった。長年変わらなかった、いや変わることを選ばなかった俺を動かしたのは、間違いなく彼女だ。
取引先でこの宿のことを聞いて、久しぶりに羽根を伸ばしたくなった。仕事は忙しいが、好きなことをしているからそれほど辛いと感じることはない。
ただ、ふとオフィスで一人になった瞬間、何故か虚しさを感じることがあった。自分の人生に、生活に不満などなかった。同僚から、スマホの壁紙にしている笑顔の家族写真を見せられても、結婚が羨ましいと思ったことはなかった。
それは、きっと俺に何かが欠けていたからなのだろう。その何かとやらを探求しようとも思わなかった。
この宿に予約を入れて、自宅にも帰らず着替えも持たないまま泊まりに来てしまった。挙句の果てに、1人だと言うのに星空観測ツアーにも申し込んだ。
スーツ姿で宿のバスに乗った時、同乗のカップルたちから集まる視線に居心地の悪さを感じ、気付かないふりをしていた。ただ、ひたすらに車窓から見える景色を見続けていた。
バスを降りた時、少し前で空を見上げる女性の姿があった。あまりにも長く見上げていたから、彼女はツアー客の集団から遅れを取り、慌てて走っていった。そんな彼女を見ていた俺も早足で追いかけることになったのだが。
バスに乗った時から気付いてはいたが、辺り一面カップルだらけだった。そのほとんどが地面にレジャーシートを敷き、防寒着をそばに置いて、その上に寝転がっていた。
そこで初めて気付いた、星空観測は寝転がって観るのだと。レジャーシートも何も持たずに来た俺はスーツ姿で地面に座って観るしかなさそうだ。そんなことを考えていると、1人でレジャーシートを敷く女性の姿が目に入った。
――あれは、さっきの。あぁ、そうか、彼女も1人で観に来たのか。彼女はしっかり準備して来てるんだな。
レジャーシートを敷き終えた彼女がこちらを向いた時、彼女の顔は微笑みを浮かべていた。俺の存在には気付いていない。
――カップルだらけの中、随分と楽しそうだな。余程、星空が好きなんだろうか?
最初はただの興味で声をかけただけだった。願わくばスーツを汚さずに星空観測できたら有難いという打算もあって、彼女に声をかけることにした。
彼女は戸惑いながらも、笑顔で俺を迎え入れてくれた。はっきりとした年齢までは分からなかったが、顔にしわは少なく、かといって露出もなく、服装も華美ではない。品の良さを感じ、それなりに歳を重ねているのだろうと推測した。
実際に話してみると第1印象の通り、落ち着いていて柔らかい雰囲気を纏っていた。今まで周囲にいた女とは一線を画していた。それは言葉で言い表せないが、ただ自分の近くにいても居心地の悪さは感じなかった。
ツアーが終わると、彼女はあっさりと宿行きのバスに乗っていった。俺の周りにいた女なら、今頃、「一緒に夕食はどうか?」「明日の予定は?」と聞いてきたことだろう。だが、彼女からそんな言葉は一切なかった。
宿に着いてからも、バスを降りるとその場をすぐに離れようとしていた。そんな彼女を俺は引き留めていた。いつも言わない言葉を、いつもなら自分が言われていた言葉が、自分の口からスラスラと出ていった。
まるで自分ではない別の人間が俺を操作しているかのように。
彼女は急な夕食の誘いにも快く受けてくれた。ホッとする自分に気付き、何をそんなに必死になっているのか、それが分からなかった。
彼女との夕食はとても楽しく、つい自分の翌日の予定を明かし、彼女をドライブに誘った。ここでも彼女はすんなりと快諾してくれた。断る気がないのも、俺と過ごす時間や会話を楽しんでくれているのだと嬉しくなった。
翌日の約束をしても、食事が終わっても話足りないくらいだった。またもや、口からスラスラと言葉が出てきた。大して腹が苦しかった訳でもないのに、食後の運動に、と宿の中庭にある散策路の散歩に彼女を連れ出した。
散策路を一周し終えた頃、夜も更けてきた。さすがにこれ以上彼女を引き留めるだけの言い訳が思いつかなかった。
宿に着くと、彼女は夕食の別料金分を支払った俺に礼を言うと、「また明日」と言って部屋に戻っていった。
翌日のドライブ、初めて助手席に女性を乗せた。仕事で女性を車に乗せることはあるが、助手席には自分の荷物を置き、必ず後部座席に座らせていた。仕事上、相手が女性の場合は特に気を付けなければならない。
すると必ず勘違いしてくる女が出てくる。色恋なんぞに巻き込まれれば、仕事に差し障りが出かねない。それだけは避ける必要があった。その対応が相手に踏み込みすぎない距離感を保つことだった。
それに比べて、俺はすんなりと彼女を助手席に乗せてしまった。いや、自分から進んで助手席のドアを開けていた。まるで彼女がそこに座ることを断ってくるのを避けるかのような振る舞いだ。
まぁ、実際のところ、プライベートで男女が出掛けるのだ。彼女だけ後部座席に座らせる方がおかしな話である。自分が取った行動は当然だ、と自分に言い聞かせて上辺では納得していた。
氷穴の中で彼女が足を滑らせて尻もちをついてしまった。視界が暗かったこともあり、咄嗟に彼女を支えてあげることができなかった。彼女は笑って大丈夫だと言っていたが、ひらひらと振っていた彼女の手を握り、自分の方へと抱き寄せそうになって踏み留まった。
彼女は俺が立ち上がらせるために手を握ったのだと思ったのだろう。自分が取った行動を思い出して恥ずかしくなり、彼女の手をすぐに離した。
だが、彼女の手の温もりが離れて、寂しさを感じた。俺の口はいつから、こうもスラスラと次から次へと言い訳が出るようになったのか、と自分の耳を疑った。
俺は彼女が2度と転ばないため、そんな取って付けたような理由で彼女の手の温もりを自分のものにした。
氷穴の見学はあっという間に終わってしまった。地上に出ると、真夏のように暑く感じて繋いだ手にもじんわりと汗が滲んでいた。それでも彼女の手を握ったままでいたが、彼女が繋いだ手を気にしているように見えた。
諦めたように、彼女の手を解放した。
その後、氷穴そばに散策路があるのを見つけ、彼女を散歩に誘った。散策路を一周した頃、少し早いが、休憩を兼ねて昼食をとることにした。彼女は嫌な顔1つ見せずに俺の誘いに乗ってくれた。
彼女には取引先の人から紹介してもらった店だと言ったが、本当は昨夜部屋に戻ってから慌てて探した店だった。
氷穴に行くのは決めていたが、その後のプランは特に決めていなかった。折角彼女と出掛けるのだから、彼女に満足してもらえる店に行きたいと思った。それであの店を見つけるのに深夜までかかってしまった。
そこはやはり、職業病なのだろうか、料理が美味しいだけでなく、店内の雰囲気や内装、生活感、接客態度、客の口コミなど、仕事のように店の情報を検索し回った。おかげで彼女も喜んでくれたから、苦労して探した甲斐があった。
そんな俺の病的な店を見る視点を、彼女は俺の長所だと褒めてくれた。彼女の言葉が嬉しく、自分には珍しいが、照れ隠しで謙遜するような言葉が口から突いて出ていた。
だが、彼女はそれが俺の魅力だからしっかりアピールした方がいいと言ってくれた。嬉しさのあまり、その時があったら全力でプレゼンする、などとそんな言葉を吐いていた。
――いつもの冷静な俺はどこへ行ってしまったのか?
らしくない自分の言動に戸惑いつつも、甲斐甲斐しく彼女のために動く、そんな自分の知らなかった一面を知って嬉しく思った。そんな自分の新たな一面を知ることができたのも、きっと彼女のおかげだろう。
昼食を終え、会計をしようと立ち上がったが、彼女に先回りされてしまった。ここも自分が支払おうと決めていたのだが、彼女は俺に奢られてばかりなのが嫌だったのか、自分が払うと聞かなかった。彼女の厚意を無下にする訳にもいかず、ここは大人しく引き下がることにした。
俺の周りにいる女は、会計になると財布は出すが、開くつもりがないからか、がっしりと財布を握っていた。俺自身も女性に支払わせるようなことはしまい、という古い考えの人間だからか、そんな女にも嫌な気は持たなかった。
だが、こうして改めて彼女に奢ってもらい、男女でも対等に、という彼女の考えは古い人間の俺から見ても、気持ちいいくらい潔いものだ。これが自立した女性なのだろうと思った。男としての見栄を彼女にへし折られた訳だが、悪い気は一切しなかった。むしろ彼女には好感しか持てなかった。
同時に、すんなりと自分の誘いに乗ってくれた彼女ではあるが、意外とガードが堅いと感じた。それもすぐに、そのガードをどうやって崩そうか、などと不埒な考えが浮かんできた。
食後は彼女が行こうとしていた温泉街へ向かった。温泉街には土産探しに都合のいい店が軒を連ねていた。これも前日の夜に情報収集済みである。
至るところで取引先の名を出しては、あたかも聞いて知っていたという感じで、彼女におすすめの店の話をした。彼女を騙している気がして少し胸が痛んだが、ここは情けない男の見栄とプライドのため、道化を演じることにした。
温泉街では前日に調べた甘味処へ彼女を誘った。彼女は団子が好きだったようで、とても喜んでいた。そんな嬉しそうな顔を見ているだけで胸が一杯になり、飲み物以外喉を通らないと感じ、飲み物だけを注文した。
彼女はとても美味しそうに団子を頬張っていた。お茶を飲む振りをしながら、彼女の笑顔をずっと眺めていた。つくづく団子を頼まなくて良かったと思った。
何もかもがスムーズにいっていると思っていたが、団子を食べ終えた彼女は突然、宿へ戻ろうと言い出してきた。最初は、朝から出掛けたから彼女が疲れたのかと考えた。だが、宿へ戻る時、自分の言動を振り返ると、その理由に思い当たる節があった。
――俺がじっと彼女を見ていたことに気付いて不快になったのか? それとも、俺が有頂天になっていて、彼女が楽しんでいないことを見落としたのか?
そんな負の思考ばかりが頭の中を巡っていた。結局、宿までの貴重な彼女との時間をほぼ会話もなく終えてしまった。気付くと彼女が泊まる離れの前に着いていた。
何とか挽回しよう、と咄嗟に口から言葉が飛び出していた。
彼女の荷物の多さを理由に、チェックアウト後に最寄り駅まで車で送ると提案していた。これまでの彼女なら、一つ返事で快諾していたはずだった。
だが、ここで予想外のことが起きた。彼女は、俺が不用意に男の車に乗るな、と言ったことを挙げて断ってきたのだ。
まさか、自分が言った言葉がブーメランになって自分に返ってくるとは思わなかった。彼女は俺の誘いを誤解していた。俺が彼女を試していると勘違いしているらしい。
彼女の心配をして、そんなキャラでもないが、老婆心で口から出た言葉に苦しめられるとは思わなかった。この時ほど自分の過去の発言を後悔したことはなかった。
これは、男の見栄やプライドと言いながらも、彼女の前で必要以上に格好をつけるために嘘をついた自分への罰だろうか。
――もしもこれが罰なのだとしたら……、いや、俺はそもそも信仰心に厚い人間ではない。そんなことを考えるだけ無駄だ。
翌日は彼女と会える最後の日だ。車で送るという申し出を断られた以上、同じことを提案するのは愚策だ。ここは、時間稼ぎをして何とか策を練ろう。
俺は彼女と会う約束を取りつけるため、翌朝、朝食を一緒にとろうと提案した。彼女がまた誤解しないように、彼女を試すテストではないという言葉も添えて。
彼女は考えた末、頷いてくれた。俺はホッとした。その日はまだ一緒にいたいというのが本音だったが、あまりしつこいと鬱陶しく思われかねない。彼女とは笑顔で別れた。
夕食は割烹料理屋で食べようかと考えたが、彼女もおらず、部屋を出てまで1人で食事をする気になれなかったため、部屋に運んでもらうことにした。
この宿に来た時は1人でのんびり温泉に浸かって、部屋でゆっくり過ごすつもりでいた。それが、彼女と出会って予定も180度変わってしまった。
彼女のことを考えていた時、初日の夕食に出た食前酒を大層気に入っていたことを思い出した。
――あぁ、巡さんにあの食前酒を贈ったら喜んでくれるかもな。
そう思ったら、その先の行動は自分でも驚くほど早かった。すぐに宿のスタッフに事情を説明すると、彼女の意向を聞かないことには勝手に差し入れはできないと言われた。それはそうだろう、自分が逆の立場なら相手によっては不快に思っただろうから。
そこでダメ元でもいいから、彼女の夕食時にあの食前酒を提案してもらえないか、と頼みこんだ。何とか承諾してもらえてホッとしていた。
夕食の膳を下げに来た仲居の女性から、彼女が食前酒を快く受け取ってくれた、と聞いて思わず口元が緩んでしまった。あわよくば彼女が俺のことを思い出してくれたらいいと考えていた。
驚いたのはその彼女から俺にも酒の差し入れがあったことだった。律儀な彼女らしいと思った。彼女の厚意を無下にしたくない、そう思い、彼女と同じ食前酒を選んだ。
これでは自分で酒を買っただけに過ぎないのだが、俺の手にあるのは彼女からの贈り物。それだけで満足だった。
その夜、今まで1度もしたことがなかった月見酒をした。本来なら秋の風物詩だが、今夜はただそんな気分になった。彼女と初日に見た夜空を思い出したくて空を見上げたが、満月が明るすぎて周りの星は霞んで見えた。仕方なく、窓を開けて月を眺めながら、今彼女も呑んでいるかもしれない同じ酒を呑むことにした。
一気に飲み干すこともできたが、彼女からの初めての贈り物だ。何杯か呑んで、残りは持ち帰ることにした。それなら自宅でも彼女のことを思い出せると思ったからだ。
その夜はやけに静かで落ち着かなかった。部屋にある温泉に浸かってから、翌朝に備えて早く寝ることにした。
ロビーに着いて、これまでの彼女との想い出に浸っていると、約束の時間が近づいていた。
腕時計を確認するのは何度目だろうか、時計の針が差すのは午前8時。約束の時間を30分も過ぎていた。
彼女のことだ、きっと寝坊でもしたか、身支度に時間がかかっているのかもしれない。彼女が何も言わずに約束を違えるはずがない、俺は根拠のない確信をしていた。
いや、彼女のこれまでの言動が全てを語っている。彼女は間違いなく、他人を意図的に不快な思いにさせる人ではないと。
腕時計の針は8時半を指し示していた。約束の時間から1時間が過ぎた。さすがに、寝坊や身支度に時間がかかっている、というレベルの話ではない。
いつもの自分なら、こんなに長く待たされたら腹を立てて部屋に戻ってチェックアウトしていたことだろう。
だが、彼女がそんな人間であって欲しくない、いや違う。彼女が俺に不快な思いをさせる訳がない、そうであって欲しくないと願いたかったのだ。
――彼女はそんな人じゃない。少なからず俺に好感を抱いてくれていたはずだ。
俺の足は彼女が泊まる離れに向かっていた。
彼女の部屋の前に来て、彼女が何喰わぬ顔で出てきたら、とそんな思考が働いてか、ドアをノックしようと出した手が止まった。
――彼女はそんな人間じゃない。何を躊躇うことがあるんだ。彼女と過ごした時間は確かに短い、だが俺は知っている。彼女は男に媚びたり、弱さを武器にしたりしない。いつだって彼女は芯がしっかりある人だったじゃないかっ。
きっと何か事情があるはずだ。それにたとえ、彼女が俺の思った通りの人じゃなくても、そんなこと今まで何度も経験してきた。今更傷つくなんてことはないさっ。
今はとにかく彼女の無事だけを確認しよう。その先のことは後で考えればいい。
ドアを数回ノックするが、声も何の音もしない。もう部屋にいないのだろうか?
――いや、俺はずっとロビーにいた。彼女がチェックアウトするなら、必ず見かけたはずだ。まだ彼女はこの宿にいる。
再びノックを数回した後、彼女の名前を呼んでみた。
「巡さん、巡さんっ!」
――やはり何の音も聞こえてこない。まだ眠っているのだろうか。だが、彼女は昨日も朝早くから朝食をとっていた、と言っていた。朝に弱いと言う訳でもなそうだが。
その時、ふと考えたくない思考が浮かんだ。
「巡さんっ、巡さんっ! 大丈夫ですかっ!」
室内で彼女が倒れているイメージが頭に浮かび、慌てて強くノックをしながら、彼女の名を叫んだ。それでも何の反応も見られなかった。
――これはさすがにマズイな。いっそのことドアを蹴破って中に入るか? だが、彼女が無事だった場合……、さすがにこれはないか。仕方ない、フロントまで戻って宿の者に合鍵で開けて中の様子を確かめてもらうしかないか。
彼女の部屋の前を離れて走り出した時、後ろから彼女らしき声が聞こえた気がした。振り返ると、彼女がドアから顔を出していた。
すぐに彼女の元へ駆け寄ると、顔色が悪そうだった。
――やっぱり具合が悪くて寝ていたのか。
彼女の顔色の悪さを見て、すぐに病院へ行こうと言ったが、彼女は頷いてくれなかった。
――まさか、この期に及んで俺に迷惑をかけたくない、とでも思っているのか? そんなの今更だろう? それとも俺に頼りたくないのか?
彼女を心配する反面、煮え切らない彼女の態度に、僅かに苛立ちを覚えていた。俺という人間が信用できない、百歩譲ってそうだとしても構わない。だが、今ここで頼れるのは実際のところ俺しかいない。それなら迷うことなどないはずなのに!
苛立ちが込み上げてきて、怒りの感情を彼女にぶつけそうになった時、彼女は事の顛末を白状した。それは俺の予想を遥か斜め上に行くものだった。
彼女は俺が贈った酒を一夜で全部開け、目覚ましを掛け忘れたまま寝入ってしまったのだと。髪もボサボサで寝ぐせがあり、浴衣も随分とはだけていた。どうやら、さっき起きたばかりの様子。彼女は具合が悪いのではなく、二日酔いで顔色が悪かったようだ。
彼女は寝坊して俺との約束を守れなかったことを酷く悔いているようだった。一通り説明をし終えたかと思ったら、俺がこれまでに見たこともないくらい深く頭を下げて謝罪してきた。
つらつらと彼女は頭を下げながらも謝罪の言葉を述べていた。それほど俺に申し訳ない、と思ってくれたのだろう。
――参ったな、こんな風に謝られたら、怒りたくても怒れないだろう。まぁ、苛立ちはしたが、彼女を本気で怒るつもりは毛頭ない。それにしても、彼女が、こんなにも必死になって謝罪してくれるなんて思わなかったな。やっぱり俺の見立てに間違いはなかったな。
それに冷静になって考えると、実に可愛らしい。俺と同世代の女性に可愛らしい、という言葉は失礼かもしれないが、今の彼女にはぴったりの言葉だ。
だが、寝坊の原因が俺の贈った酒だとはな、考えもしなかった。
不謹慎にも、彼女が気に入った酒を1人で呑んで酔い潰れた姿を想像したら、笑いが抑えられなくなった。実際にその光景を見た訳ではないが、実に微笑ましい光景のように思えた。その場にいられなかったのが残念でならないのだが。
一頻り笑った後、彼女はまだ頭を下げたままだった。慌てて、自分は怒っていないと伝えると、彼女は恐る恐る顔を上げた。彼女の戸惑う表情を見たら、抑えたばかりの笑いが込み上げてきた。
こんなにも腹を抱えて笑ったのは人生で初めてかもしれない。彼女は本当に不思議な人だ。俺の感情を大きく揺さぶってくる。だが、何故かそれが心地良くて仕方がない。
笑いが収まり、いつもの冷静な自分に戻ったところで、彼女の姿が目に入った。彼女は宿の浴衣を着ているが、寝起きで慌ててドアを開けたせいか、身なりを整えないまま出てきたらしい。目のやり場に困るくらい、胸の谷間や太腿がはだけた浴衣から露わになっていた。
気付いてすぐ彼女に忠告も含めて伝えると、顔を真っ赤にして俺に背を向けて、はだけた浴衣を直していた。身なりを整え、こちらを向いた彼女と目が合うと、胸の内に隠していた下心を見透かされるのではないかと焦って、すぐに目を逸らした。
その後は不埒な考えを悟られないよう平常心の顔を作るので必死だった。彼女も恥ずかしがっているし、こちらの顔色を窺う余裕はないだろうと考えていた。
――それにしても、彼女の姿を最初に見たのが俺で良かった。いや、彼女にとっては俺に見られるのも嫌だったかもしれないが。ただ他の男にだけは彼女のあんな姿を見せたくなかった。だから、結果的には俺が最初の目撃者で良かった。
そんなことを考えながら、チェックアウトの時間が刻々と迫っていることに気付いて、再び気持ちが焦ってくる。
――彼女と過ごすはずだった朝食の時間も終わってしまった。彼女はこの後すぐにチェックアウトするのだろうか? あぁ、そうか、まだその手があったか。
彼女の寝坊を理由に朝食を食べ損ねたことをアピールして彼女の退路を消しつつ、チェックアウト後にブランチの約束を何とか取りつけることに成功した。
――ちょっと卑怯ではあるが、俺も1時間待ったんだ、これくらいの我儘は許して欲しい。今度こそ彼女と過ごせる最後の時間だ。このまま気まずい空気のまま帰らせたくない。
ブランチの約束をした別れ際に、この気まずさの残る空気を変えたくて、わざと彼女を揶揄うことを言った。彼女は予想通り、頬を膨らませながら怒っていた。
そんな顔を見られるのも後どれくらいだろうか。妙にしんみりしてしまって、そんな顔を見られたくなくて、彼女に背を向けたまま手を振ってその場を後にした。
――できることなら、彼女を持ち帰りたいが、それは叶わないだろう。
俺のような軽薄な男を彼女が選ぶはずがないのだから。仮に彼女と付き合うことができたとして、その先は?
俺は生涯独身だと決めているし、そんな我儘に彼女を付き合わせることはさすがにできない。俺なんかよりも、もっと彼女に相応しい男がいるだろう。
自分が彼女を幸せにできたら、どんなに良かっただろうか。だが、そもそも俺に幸せな家庭像なんてものは存在しない。
生まれた時から母と2人で生活してきた。母は生活のため、家にいることがほとんどなかったし不器用な人間だったから、俺はこれっぽっちも母の愛情を感じたことがない。
そのせいだろうか、世に言う真実の愛だとか、幸せな結婚なんてものに1ミリも心が動くことはなかった。むしろ冷めた感情で世の中にそんなものが存在する訳がないとさえ思っていた――。
俺の隣には、見栄えのいい女が後を絶たなかった。高校時代は外車に乗る年上の女を連れ回すことで優越感に浸っていた時期もあったが、数カ月で化けの皮は剥がれるものだ。
所詮、中身は10代の少年だ。見かけは大人っぽく見られても、子どもと付き合って満足する女がいるはずがなかった。
社会人になってからも付き合っては別れる、そんなことを繰り返していた。去っていく者は追わなかった。すぐに他の女が纏わりついてくるから、自分で苦労して探す必要もなかった。
ある程度の社会的地位を手に入れると、社内だけでなく、他社からもつまらない女が寄って集ってきた。仕事に差し障りが出るのを恐れ、信頼する上司に相談したところ、冷徹な人格を装う、という結論に至った。
演じると言っても、大して普段と代わりはなかった。元々俺は他人にやさしい人間ではなかったから。建前として、付き合いとして、仕事の一部として気遣いのできる男を演じていたに過ぎなかった。
――こんな男を彼女が好きになるものか……。そんな奇跡が起こるはずもない。俺が余計なことを言って、彼女との最後の時間を壊してしまったら、彼女にとってこの3日間は思い出したくない過去になってしまう。それだけは絶対に避けたい。
「彼女への想いは胸の奥にしまえっ! 未来を見るな! 考えるなっ! 今だけを見ろっ!」
自分に何度も言い聞かせるように、心の中でそれらの言葉を吐いた。
――彼女には良い思い出として、俺のことを記憶していて欲しい。この想いが彼女に見透かされないことを祈るばかりだ。
きっとやれる、これまでも自分を騙し、周りの人間を騙してきたんだ。今更、どうってことないさっ。そうだろう?




