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恋愛小説のオムニバス  作者: 蒼井スカイ
第1集 星夜の巡り合わせ
4/17

3.残像

 宿への帰り道、彼はいつもより口数が少なくなっている気がした。声をかけても大丈夫だとしか言わなかった。

 きっと彼は私に気を遣いすぎて疲れたのだろう。早めに切り上げて正解だったようだ。


 宿までの数分間、2人とも無言で歩き続けた。




「筧さん、お部屋まで荷物を運んでもらってしまって、すみません。助かりました」

「いえ、僕の部屋はこの先なんでついでですよ」

「意外と私たち、近い棟だったんですね」

「…………」

「筧さん?」

「あぁ、すみません。歳のせいかな? 少し疲れたようです。では僕はここで」

「はい、筧さんもゆっくり休んでくださいね」

「…………」


――余程疲れが溜まってたんだ。なのに私は荷物まで持たせてしまって……。


「では私はこれで、お休みなさい」


 離れのドアの鍵をカードキーで開けた音が鳴った時、背後から彼の声が聞こえた。


「巡さんっ」


 後ろを振り向くと、随分とお疲れな様子の彼がまだそこに立っていた。


「筧さん?」

「――いや、あぁ、明日は何時にここを発つ予定ですか? 明日は僕も帰るだけなので、近くの駅までお送りしますよ」

「えっ、あぁ、でも……」

「ほらっ、荷物も沢山だ。車なら移動も楽だからね。巡さんのことだ、荷物で前が見えなくて転んだら大変だ」

「筧さん、また私のこと揶揄ってますね?」

「あははは、でも僕のことなら気遣いは不要です。仕事で長時間の運転もしますし、取引先の方を乗せて移動することも多いんです。お互いにお一人様同士ですから、助け合いましょう、ね?」


 彼の顔はさっきよりも少し明るくなったように見えた。昨夜会ったばかりの人に、こんなに甘えてもいいのだろうか?


――あぁ、もしや、私がまた疑いもせずに男性の車に乗るのか試してるのかも? それなら、断るのが正解?


「筧さん、おっしゃってたじゃないですか。簡単に男の車に乗るな、と。なので、ご心配なく、1人で帰れますので」

「――あー、参ったなぁ〜。まさか自分が言った言葉をこれほどまでに後悔したのは初めてだな。これはしくじったか……」

「ふふふっ、やっぱり私のこと試してたんですね。それなら、もう心配には及びませんので」

「あははは……、そのようですね。はぁ〜」


――ふふふふっ、筧さん、私もいい大人なのです。その手には2度も引っかかりませんよ。


「――巡さん、ここで出会ったのも何かの縁でしょう。良ければ明日の朝食を一緒に食べませんか?」

「朝食ですか? う〜ん」

「ちなみに、これは何のテストでも試してる訳ではないですからね、お間違いのないよう。あくまでも僕の個人的なお願いです」


――筧さん、何かさっきと雰囲気が変わったような気が……。どうしたんだろう?

 あぁ、もしかして明日で私に会えなくなるのが淋しいとか? 随分と揶揄われたからなぁ。旅の相棒がいなくなるみたいで淋しくなっちゃったのかな? そっか、案外可愛いところがあるんじゃない。

 まぁ、マッサージは予約前だし、今夜予約するとして、温泉は今夜と早朝にでも楽しめばいいか。私も一人旅の最終日だしね、折角素敵な紳士に出会ったんだから最後まで一緒に楽しむというのもアリかな?


「分かりました。じゃあ、明日の朝食はご一緒させてください。筧さんは何時頃行く予定ですか?」

「あぁ、良かった……。時間は巡さんに合わせますよ。朝は女性の方が忙しいでしょうから」

「う〜ん、じゃあ、7時半頃でもいいですか?」

「はい、分かりました。では明日の7時半にロビーで待ち合わせましょう」

「はい、では」


 彼は自分の離れがある方向へ歩いていった。




「ふぅ〜、今日はたくさん歩いたから疲れたなぁ。そうだ、マッサージの予約を入れなきゃ。まだ空いてるといいんだけどなぁ」


 マッサージの予約は残念ながら一杯で取れなかった。その代わり、エステの予約がキャンセルになったそうで、夕食後にそちらをお願いすることにした。



 今夜の夕食は部屋でゆっくり食べることにした。仲居さんが次々と料理をテーブルに運び並べてくれる。


「こちらは裏山で採れた茸と山菜の天ぷらで、こちらは当旅館の畑で収穫した無農薬野菜を使った和え物です。こちらは金目鯛の炊き込みご飯、こちらは近海で捕れた魚のお刺身です。

 こちらが国産黒毛和牛のステーキです。レアでお召し上がりなら、このまま召し上がれます。中まで火を通すなら、こちらのロウソクに火を入れます。如何しましょうか?」

「じゃあ、火をお願いします」

「はい、承知しました。こちらの火が消えたらお召し上がりください」

「どれも美味しそうです。1人で食べるのが勿体ないくらい」

「そう言っていただけると板前も喜ぶと思います。あぁ、そうでした、私ったら」

「ん?」


 仲居さんは部屋の入口に置いたワゴンから瓶を1つ両手に携えて戻ってきた。


「こちらは当宿にご宿泊の筧様から、巡様に差し入れとのことです。筧様が、巡様はこちらの食前酒がお好きだと仰っており、ぜひ夕食の際に1本お贈りされたいと仰られていまして。

 もしも今夜呑まれないなら、お土産としてお持ち帰りになっても構わない、とも仰っていましたよ」

「筧さんが――折角のご厚意ですから、ぜひ呑ませていただきます」

「承知いたしました。ではこちら開封いたしますね」

「はい、お願いします。あの、私もお礼に何かお贈りしたいんですが、筧さんが何を好むのか分からなくって……。宿の方なら分かりますか?」

「そうですね、実はご本人の許可なく勝手にお客様のことはお話できないのです。お役に立てず申し訳ありません」

「そうですか……そうですよね。すみません、お気になさらないでください……」

「……あの、巡様。筧様の情報はお教えできないのですが、こういうのはどうでしょうか?」

「えっ?」

「筧様がお飲みになるお酒を1本だけ選んでもらい、それを巡様からの差し入れとするのです。それでしたら、私共もお客様の情報を他のお客様に教えることもありませんし、巡様も筧様がお好きなお酒を楽しんでいただけます」

「あぁ、確かに! ナイスアイデアです! ぜひ、それでお願いします。あの、お代は私の方へ請求を回しておいてくださいね」

「はい、そのようにフロントにも申し付けておきます」



――美味ひぃ〜。こんなに美味しいお肉を食べたのは初めてかも。あっ、でも昨夜、筧さんと一緒に食べたステーキも捨て難いなぁ。

 筧さんも今頃、同じ料理を食べているのかな? 今日のお昼でも感じたけど、食べる時の所作がとても美しかったなぁ。背筋がピンと伸びていて、お箸の持ち方、食べ方のどこを見ても完璧だったし。

 まさか、筧さんはどこかの御曹司だったりして……。いや、御曹司と庶民の私がそんな簡単に出会える訳がないか。


「筧さん、今頃どんな顔をして食べてるのかなぁ」




「はぁ〜、まるで天国ですぅ〜」

「お客様、肩こりに悩まれていませんか?」

「そうなんです、パソコン作業が多い仕事なので、長時間座ってると肩や首が凝って、腰が痛くなることも多くて……」

「そうでしたか、じゃあ少しだけマッサージしておきましょうか?」

「えっ、でもエステのメニューなのにいいんですか?」

「はいっ、実は私マッサージとエステの両方を担当してるんです。巡様のマッサージのご予約のお電話を受けたのは私なんです。

 生憎今夜は予定が一杯でお断りさせていただいたのですが、ちょうどエステの予約がキャンセルになったので、お話してからマッサージに切り替えようかと考えていたんです」

「そうだったんですか、お電話に……全然気付きませんでした。でも、マッサージしてもらえるなら有難いです。あの、料金は高い方で請求していただいて構いませんので」

「ありがとうございます。では、残り時間はマッサージをさせていただきますね」



「はぁ〜、生き返るぅ〜。うぅ〜、そこ、効きますねぇ」

「だいぶ凝り固まってるみたいですね。痛ければもう少し指圧を弱くしますが、如何しましょうか?」

「だ、大丈夫、です。そのままで――」

「我慢できなければ言ってくださいね」



「はぁ〜、肩が楽になりました。肩の可動域も少し広がった気がする」

「そうですね、肩をこうやって後ろに回したり、両手で後頭部を押しながら、手前に倒したりするストレッチを日頃から習慣づけると肩や首の疲労を解消できますよ」

「へぇ、いいこと教えてもらえたなぁ。明日から早速やってみます」

「はい、お仕事の合間の休憩時間や寝る前がいいですよ。あと、湯船には毎日浸かって全身を温めてからストレッチするのもおすすめです」

「たくさん教えてもらって、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそご予約いただき、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


――エステを予約したのに、マッサージもしてもらえてダブルに美味しい思いができちゃった。


「はぁ〜、今日は温泉にもたっぷり浸かったし、エステもマッサージもしてもらえたし、癒やしの1日だぁ」


 身も心も癒されたと満足感に浸っていると、ふと視線を向けたテーブルの上に白い瓶があった。


「あっ、そうだ。まだお酒残ってたんだっけ」


 ガラス扉越しに夜空を見上げると、煌々と輝く満月がちょうど雲から顔を出し、うっすらと夜空が明るくなった。


「うん、これは月見酒にぴったりな夜だ」


 お酒の瓶とお猪口を持ち、ガラス扉から縁側に出た。月明かりを楽しむため、室内の照明は全てオフにしておいて正解だった。


 縁側に腰を下ろすと床にお猪口を置き、片手に持つ白い瓶を傾けた。チョロチョロと透明度の高い液体がお猪口に注がれていく。

 お猪口を手に持ち、目の高さまで上げると、お猪口に満月が浮かび上がった。


「わぁ、月見酒だ。お味の程はどうかな?」


 お猪口を口元に近づけると、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。一口だけ口内に含むと、鼻腔にも甘い香りがすぅっと抜けていった。


「本当に美味しいお酒……」


 室内は明かりもなく、生活感のある音もない。ただ聞こえてくるのは夏の訪れを知らせる虫の声と、さわさわとそよぐ風の音。


 静かな夜だ。一人暮らしを始めて数カ月、自宅のマンションに1人でいても、こんなに静かな夜はない。

 隣室の住人が玄関ドアをバタンと乱暴に閉める音、週末になると外で酔っぱらいが大声で騒ぐ声、近くの幹線道路を走る救急車のサイレンの音。


 この場所にいると、日常では知り得ない自然の音が聞こえてくる。それは生活に不必要な雑音ではなく、心を癒やしてくれる音楽みたいだ。



 昨夜に見た夜空は満天の星。今日の夜空と格別の差がある美しい空だった。彼と会話を楽しみながら夜空を眺めていたからだろうか、沈黙がこんなにも淋しいという感情が湧き出てくるなんて思わなかった。


「筧さんも今、夜空を見てるかな……」


 彼の顔が頭に浮かんだ。スマートな紳士の品の良い微笑み、自分を揶揄う時に見せる意地悪気な笑み、にっこり笑顔、褒められて照れ隠しで笑った時の顔。

 いろいろな笑顔を見せてくれた一方で、ふと見せる真剣な眼差し。次々と思い出される彼の表情にドクンと鼓動が高鳴った。


 一人旅だったはずが、ひょんなことから彼と楽しむ時間が増えた。時間にすると、それほど長い時間とは言えないが、会ったばかりの人と一緒にいるとは思えない密度の濃い時間だった。


「はぁ〜、もう旅も終わりかぁ。長いようであっという間だったなぁ。でも、いい人に出会えて良かったなぁ。おかげで楽しい旅になったし……」


――明日、この宿を出たら、筧さんと会うこともなくなるんだろうな。何か淋しいな……!


「淋しい?」


――何でそんなこと……。あぁ、そうかっ、私も旅仲間と別れるのが淋しいのか、だから、淋しいだなんて言葉が……。


「今夜は、本当に静かな夜だなぁ。1人だとこんなに静かなのか……」


 お猪口を傾けて残ったお酒を飲み干した。空になったお猪口に再び白瓶のお酒を注いだ。お酒が流れる勢いはなくなり、次第にポタポタと垂れる。


「はぁ〜、1人で瓶を空けたのに、全然酔える気がしないなぁ。このお酒、度数が低いのかな?」


 最後の月見酒をチビチビと呑みながら、そばの柱に背を預けた。空を見上げると、昨夜よりも月が煌々と輝いていて、星の存在感が一層と薄れていく。


「もう一度一緒に観たかったなぁ……」




 突然、全身がカクンと落ちたような感覚を覚えた。目の前は真っ暗で、月明かりだけが夜空を照らしている。


「んっ〜、ふぁ〜」


 何度か瞬いて、ようやく重い瞼をパッチリと開くと、いつの間にか縁側の上で眠りこけていたことに気付いた。


「あぁ、私、こんなところで寝てたのか。不用心にも程があるな……筧さんが知ったら、何て言われるか分からない……ふぁ〜」


 床の上に倒れている空瓶とお猪口を手に持ち、客室へ入った。目についたテーブルの上に空瓶とお猪口を置くと、奥のベッドルームへ直進した、はずだったのだが。


「あれっ? おかしいなぁ、畳の床なのに、やけにフワフワとしてるっ。ひっく、ひっく」


 足の踏ん張りが利かず、足元は心なしかよろよろとしているように感じた。ようやくの思いでベッドルームに着くと、倒れ込むようにベッドの中に潜り込んだ。布団に包まると、すぅっと瞼が重くなり、記憶がプツリと途切れた。




 「……さん、…りさん、巡さんっ!」


――んっ〜、何っ、何だか騒がしい。今何時だろ?


 枕の周囲に手を伸ばしたが、探している物が見当たらない。瞼を擦って上半身を起こし、サイドテーブルに置かれた時計を見ると、針が8時半を差していた。


「何だぁ、まだ8時半かぁ。チェックアウトまではまだ時間がある……もう少しだけ、寝られ、る……」


――何だろう? この違和感は? 何か大切なことを忘れているような…………!


「えっ! 今、8時半? ヤバっ! 朝食!」


 その時、入口のドアを叩く音が聞こえてきた。


「……りさん、ぐりさんっ! 大丈夫ですかっ?」


 自分を呼ぶ声がした気がして、ドアに近づくと。


「巡さんっ! 大丈夫ですかっ!」


――えっ! 筧、さん? どうして? いや、そうか、約束の時間を1時間も過ぎてるんだから、心配して見に来てもおかしくないよね。あぁ、私ったら、何てことを……。


 すると、ドアを叩く音も自分の名を呼ぶ声も止み、バタバタと大きな足音が遠ざかっていく。


 急いでドアを開けて、走り去ろうとする彼の背中を呼び止めた。


「か、筧さんっ! 待って!」


 彼の足音はパタリと止まった。こちらを振り返り、私の姿を確認すると走り寄ってきた。


「巡さんっ、大丈夫なんですかっ?」


 ヘアワックスで整えられた髪は乱れ、取り乱した表情をしている。この3日間で初めて見た顔だった。


「巡さん、どこか具合でも悪いんじゃないですか? 俺が付き添いますから、一緒に病院へ行きましょう!」


 彼はどうやら、私は具合が悪くて寝ているのだと思ったらしい、酷く慌てている。たった数日を共に過ごしただけなのに、何故こんなにも親身になってくれるのか? それが分からなかった。


――私ったらこんな時に何を考えてるのよ! それより先ず、誤解を解かないと。


「巡さん?」

「あの、筧さん、その、違うんです」

「違う?」

「はい、えっと、まず具合は悪くないので心配いりません……」


 彼は私の言葉を聞いても納得していないようで、険しい表情をしていた。


「巡さん、この期に及んで俺に迷惑をかけたくない、とか考えてませんよね?」

「いえ、そうじゃないんです。その……」


――何と言えばいいのか。お酒を呑みすぎた挙句、目覚ましもかけずにぐっすり眠っていたなどと言えようか……。でも、筧さんは本当に心配しているし、誤魔化しきれない。ここはやっぱり正直に白状するしか……。うん、それしかない。


「あの、それが……実は、筧さんから頂いたお酒が美味しすぎて、昨夜、全部飲み干してしまって……そのまま目覚ましもかけずに眠ってしまって……。その、つまり……寝坊、しました……ごめんなさい!」


 一気に言い切った後、90度に近い角度で深くお辞儀をした。沈黙が続き、彼は無言を貫いている。


――もしや、穏便な筧さんでも、さすがに私のこの失態、かなりご立腹なのでは……。


 怒るのは当然だ、約束の時間は午前7時半で私が起きたのはさっき。今は8時半をとうに過ぎている。彼が今ここにいるということは、最低でも1時間は待っていてくれたことになる。それどころか、心配して私が泊まる離れまで足を運んでくれたのだ。遅刻の理由が寝坊だなんて、怒るのも通り越して呆れているかもしれない。益々、顔を上げられなくなっていく。


――ここはひたすら謝るしかない。もしも謝って許してくれなくても、このまま2度と会うことはないんだから、気まずさはすぐになくなるはず……そうだ、今日私たちはここで別れるんだ、2度と会えないんだから……。

 でも、せっかく楽しい思い出になるはずだったのに、私のせいで不愉快な想い出にしてしまった。このまま呆れられたまま、さよならするのは辛すぎる。せめて、最後くらいは笑ってお別れがしたい。よしっ、ダメ元だ、もう一度謝ろう。


「筧さんが怒るのは当たり前です! 全て私の不徳の致すところです。本当にすみませんでした!」


 再び静寂が続くのかと思った時だった。


「くっくっくっ、もうダメっ。あははは……」


 頭上から漏れるような小さな笑い声が聞こえてきたと思ったら、次は堪えきれなくなったのか大きな笑い声が耳に入ってきた。


「あはははっ! ごめん、ごめん。巡さんっ、もう頭を上げてよ。くっくっくっ……! 僕は怒ってませんから」

「へっ?」


 彼の意外な言葉に思わず顔を上げて、変な声が出てしまった。目の前にいる彼はまだ笑っている。それも体を折るように両手でお腹を抱えて。


「あはは……、はぁ〜、こんなに笑ったのは人生初かもしれない。やっぱり巡さんは別格だな」

「筧、さん?」

「あぁ、ごめん。待ち合わせの時間を過ぎても巡さんが一向に来る様子がないから、何か遭ったんじゃないかって思って来たんだ。外から声をかけてもドアを叩いても反応がなかったから、いよいよ焦ってしまってね。

 中で倒れてるんじゃないか、と思ってドアを蹴破ろうかと考えたんだけど。さすがにそれは踏み止まってね。宿の人を呼びに行こうとした時、巡さんが顔を出してくれた。

 はぁ〜、本当に何もなくて安心したよ。何の反応もなくて本当に焦ったよ。ドアを蹴破らなくて良かった」


 彼はいつもの笑顔になっていた。いや、どこか違う気もする。いつもより、何かが違う気がしたが、その変化が何なのかまでは分からなかった。


「それにしても、僕だからいいけど……巡さん、ドアを開ける前に自分の格好を確認した方がいい。こんな色っぽい姿を見たら、どんな男も飛びかかりそうだ」

「えっ?」


 彼は目のやり場に困っているように見えた。


 ふと自分の胸元を見ると、胸の谷間が正面からでも分かるくらいに浴衣がはだけている。下はどうか、と視線をずらすと下着はギリギリ見えないが、逞しい太腿が露わになっていた。


「あっ!」


 慌てて後ろを向いて、はだけている浴衣を整えるが、後の祭りである。自分のとんでもない醜態をイケメンに見せてしまった、そんなことを考えるうちに、顔の温度が一気に上がっていくようだった。きっと顔は茹でダコのように真っ赤になっていることだろう。


――は、恥ずかしすぎるっ! いや、それよりもこんな醜態をスマートな紳士に晒してしまった。とんだ迷惑の追い打ちじゃないっ! 私、とんでもない失態を続けてしてしまった。どうしよう、恥ずかしくて後ろを振り向けない。


「――他の男に見られなくて幸いだった。僕は朝から幸運だ」

「へっ?」


 後を振り返ると、一瞬だけ目が合ったかと思ったら、彼はすぐに視線を逸らした。右手で頭をかく仕草をしている。よく見ると、彼の耳は真っ赤に染まっていた。


「あぁ、そうだ! 朝食バイキングの時間は終わってしまいましたね。折角ですから、チェックアウト後に近くでブランチでもしませんか?」

「えっと、あの、でも……」

「巡さんのせいで朝食を食べ損ねてしまいました。もちろん、付き合ってくれますよね?」


 彼の顔を見ると、にんまり笑顔でこちらを見ていた。一見爽やかそうな笑顔をしているが、私は知っている。彼のこの笑顔は強引に自分の要求を相手に飲ませる時の顔だ。


――筧さん、どうしても断らせるつもりはないのね。そんな言い方をされたら、断れる訳がないじゃない。でも、私のせいで筧さんが朝食を食べ損ねたのは事実だ。最後に笑顔でお別れするためにも、ここは後腐れなく最後の晩餐ならぬ昼餐をしようじゃないのっ!


「わ、分かりました! 筧さんが朝食を食べ損ねたのは全て私の責任です。最後に、ブランチをご馳走させてください!」

「うん、よしっ。では、チェックアウトまでまだ時間がありますし、もう一風呂浴びに行こうかな。待ち合わせはロビーで10時にしましょう」

「はい」

「では、また後で」


 私がコクリと頷くと、彼は笑顔で自分の宿泊する離れの方へ体を向けた。彼の背中を眺めていると、その足は止まったままである。すると彼は後ろを振り返った。


「巡さん、今度は寝坊しないでくださいねっ」

「ねぼ――もう、寝ませんっ!」

「あははは……」


 彼は笑いながら前を向き直り、手をこちらにひらひらと振って歩いていった。


――もうっ、また筧さんに揶揄われたっ! ホントっ、揶揄われてばっか…………。


 彼に揶揄われるのも、この後のブランチの間だけ。食事が終われば今度こそ彼とお別れである。


「はぁ〜、一緒に朝食をして笑顔でお別れ、のはずだったのにな。何だか、これじゃあ、筧さんと別れる時間を私が引き延ばしてる、みたい……」


 その時、胸の鼓動がドクンと高鳴った。


――あぁ、そうか。私、筧さんと別れるのが淋しかったのか……。家でもしない一人酒をして、寝落ちするくらい酔うまで呑んで……。そっか、私はお酒で淋しさを紛らわしてたんだ。2人で過ごす時間が楽しすぎて、あんなに1人で過ごす夜が淋しいだなんて思わなかった。


「あぁ~、もう、完全に()()()()じゃないっ」


 私はこの時、初めて彼への恋心に気付いた。彼にそんな感情を持ったのはいつからだろうか? 心の中では「自分みたいな女が相手にされる訳がない」「やさしい人だから付き合ってくれてるだけ」だと、ずっとそう思っていた。

 自分がこの気持ちに気付いてしまったら、叶わぬ恋だと知った上で本音に気付いてしまったら、きっと傷つくから……。


 彼のような完璧な大人の男性が、何の取り柄も、人目を引くような美貌もない私に惹かれる訳がないのだから。気持ちを伝えたところで、失恋するのは目に見えている。

 楽しい旅の想い出を悲しいものにするくらいなら、この気持ちは胸の奥深くにしまい込んで、鍵をかけてしまった方がいい。私が何も言わなければ、何も起こらない。きっと笑顔で彼とお別れができるはず……。


「筧さんと笑顔でさよなら、するんだ」

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