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恋愛小説のオムニバス  作者: 蒼井スカイ
桜と橘
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20/32

2.帰路

「はぁ~、何とか買い物できたぁ~」


――それにしても、あの百貨店、めちゃくちゃ高級志向じゃないっ。メンズスーツの店なんか、学生の私にすら上客みたいな対応だったし。実は、橘さんってすごいお金持ちだったりして……。


 ひょんなことから出会った橘というスーツ姿の男。出張先で倒れて知人がいないため、私は彼のお使いと入院生活に必要なものを購入するため、指定の百貨店へ向かった。

 百貨店は一般の学生が気軽に行くような場所ではなく、どのフロアも高級ブランドの商品で溢れていた。客層も大型ショッピングモールに比べて、やや高めである。どこぞやのマダムや上品な着こなしをしている初老の男性ばかりだった。


 男性の下着売り場では恐らく30代であろう男性スタッフが接客してくれ、男性目線で良い下着を選んでくれて助かった。最初に、恋人へのプレゼントか、と聞かれた時は全力で否定した。私の答えを聞いた男性スタッフはくすりと笑っていた。顔が熱かったから、きっと恥ずかしさで真っ赤になっていたのだろう。

 何とかパジャマと下着を購入し、オーダーメイドのスーツを受け取りに行き、ようやく病院への帰路に着くところだ。




 バスの車窓に流れる景色をぼんやり見ていると、バスが赤信号で止まった時に道路向かいにあるコインランドリーが目に入った。


――買ったばかりの下着やパジャマは肌に直接着る物だから、洗ってあった方がいいかもしれないな。そういえば、病室と同じフロアにコインランドリーがあったんだっけ。そこで洗っちゃえばいっか。




 病室に戻った時には日が傾いて外は薄暗くなっていた。買った物を洗濯したのはいいが、乾燥もすると思った以上に時間がかかってこんなにも遅くなってしまった。


――橘さん、帰りが遅いから心配してるかな? 運転免許証を預けてるから、私がお金を持って逃げたとは考えないと思うけど……。病院に戻って来た時に1度顔を見せた方が良かったかな? まぁ、今更そんなこと考えても遅いよね……。



 彼の病室の前に着くと、ドアの鍵を開けてもらうため、ノックをした。


「はい」

「橘さん、私です。佐倉です」


 私が答えると、ドアはすぐに開いた。


「佐倉さん、お帰り。随分遅かったけど大丈夫だった?」

「はい……、遅くなってしまってすみませんでしたっ」

「いや、いろいろと買い物を頼んでしまったから、負担になってないか心配してたんだ」

「いえ、どのお店の方も親切にしてくださって、思ったよりも早く買い物ができました」

「そう……それは良かった。疲れたでしょう、今、お茶でも淹れるよ」

「いえっ! 橘さんはベッドで休んでいてくださいっ。飲み物でしたら、買ってきたので大丈夫です」

「それならいいのだけど……」


 患者用のパジャマを着た彼は大人しくベッドに入り、重ねたクッションにもたれかかるように座った。


「えっと、それで、こちらがスーツです。クローゼットに掛けておきますね」

「あぁ、ありがとう、助かるよ」


 高級スーツは質の良いスーツバッグに入れられていた。スーツバッグのチャックを広げて、スーツに皺ができないようにクローゼットへ掛けた。


「それで、こちらがパジャマと下着です」

「――もう袋から出しておいてくれたの?」

「えっ、あー、その、このフロアにあるランドリールームで洗濯してあります」

「――洗濯?」

「はい、パジャマや下着は肌に直接着るものだから、洗濯しておいた方がいいかな、と思いまして……」

「――――あー、ありがとう……」


――ん? 橘さん、何か様子がおかしい? 私、何か失礼なことでも……! もしかして、潔癖症だったりして……見ず知らずの他人が肌に触れるパジャマや下着を勝手に触ったことを気持ち悪がってるんじゃっ!! あー、どうしよう。私は買った服や下着は洗ってからじゃないと嫌だと思ってたから、てっきり橘さんも同じだろうって勝手に思い込んでた。

 でも、よく考えたら、そういうのって家族や恋人がすることだし、私なんかが橘さんの了承も得ずに、勝手にやってしまって……これはもう、洗濯した物は私が弁償して、新しい物を買いに行くしか……。


「す、すみませんっ! 私、橘さんの了解も得ず、勝手に袋から開けて洗濯したりして……見ず知らずの人間が肌に触れる物を勝手に触ったら気持ち悪いですよねっ!! 私、今日買った分は全部弁償しますっ。また、新しいパジャマと下着を買ってきますね!」


 私が病室を出ようとドアに手を掛けようとした時、後ろから声が聞こえた。


「佐倉さんっ、大丈夫だから!」

「――!」


 後ろを振り返ると、慌ててベッドから立ち上がろうとする彼の姿が見えた。


「でも、やっぱり……」

「佐倉さん……その、ありがとう……」

「えっ?」

「いや、無理を言って買い物をしてもらった上に、洗濯までしてもらえるなんて思ってなかったから……驚いてしまってね」

「でも、私は橘さんの承諾も得ずに、買った商品を開けて洗濯までしてしまいました。よく考えれば、他人が触れた物を身に付けるなんて気持ちが悪いですよね……」

「――そんなことはないよ。本当に驚いただけなんだ。むしろ、君にそんなことまでしてもらって申し訳ないとすら思うよ」

「そんな、申し訳ないだなんて……そんなことはありません」

「そうか、それなら良かった。実は僕も買った物は必ず洗濯してから着る質でね。でも、流石に洗濯まで君にお願いする訳にはいかないからね、どうしようか、と考えていたところなんだ。だから、本当に助かったよ。佐倉さん、ありがとう」

「本当に、気持ち悪いとか思いませんか?」

「もちろんだよ。こんな若くて可愛い女性に洗濯をしてもらえたんだ、願ったり叶ったりというものだろう。文句なんて言ったら、罰が当たるさ」


 彼はやさしい笑みを浮かべていた。その表情を見て、自分がとんでもないことをしてしまったという後悔の念が、水に溶けるように消えていった。


「佐倉さん、悪いけど、パジャマと下着はそこのキャビネットに入れてもらってもいいかな?」

「はいっ」


――あぁ、そうだった。これを渡すのを忘れてたっ。


「あの、橘さん。これは私から橘さんへのお見舞いです」

「――そんな、僕は君に迷惑をかけているのに、お見舞いまで頂くなんて申し訳ないよ」

「あの、でも、本当に大した物ではないので……これは健康サンダルです。病院で用意されたスリッパもあるけど、このサンダルは血行促進とか歩行時の足への負担軽減にいいみたいです。入院中は体力も落ちがちですから、少しでも体にいいものがあった方がいいですから」

「ありがとう、佐倉さん。何から何まで、本当に助かるよ。それにしても、佐倉さんは細かいところまで気配りできるんだね」

「あの、実は私も子どもの頃入院したことがあって……だから、入院生活での苦労とかが少し理解できるっていうか……病院でも快適に過ごしたいですからっ」

「君も入院を? そうか、だからいろいろと気遣いができるんだね。入院生活は長かったの?」

「はい、2週間位です。でも、子どもの頃ってもの凄く長く感じるんですよね……両親は毎日会いに来てくれたけど、面会時間が終わると1人になるし……もちろん、同室の子もいたけど、やっぱり家族がいない環境に置かれるのって寂しくって……」

「それは当たり前のことだよ、子どもなら特にね。幼い頃から辛い経験をしたね……」

「はい、でも、今となっては普通の子にはできない貴重な経験だったのかもしれないって思うんです。独立心みたいなものが芽生えるのも早かったですし、自分のことは自分で何とかしなきゃって感じで……」

「うん、それは大人になる上で大切なことだね。だけど、佐倉さん、大人でも1人ではどうにもならない時がある。そういう時は1人で何とかしようとせず、周りにいる人を頼ることも大事だよ」

「――そう、ですね。えっと、洗った衣服をしまいますね」




――受け取ったスーツはクローゼットに入れたし、洗濯済みのパジャマと下着はキャビネットに畳んだまま入れた。これで、橘さんからお願いされた買い物は完了、っと。あぁ、そうだ。お釣りを渡して、運転免許証を返してもらわないと。


「橘さん、こちらが購入した物のレシートとお釣りです」

「あぁ、ありがとう。預けたお金で足りたみたいで良かったよ」

「あの……それで、私の免許証を……」

「あぁ、そうだったね」


 彼はベッドサイドにある棚の引き出しから免許証を取り出し、私に差し出した。


「はい、預からせてもらった免許証」

「はい、確かに」


 受け取った免許証を鞄の中へしまうと、会話が途切れて室内が静かになった。


――橘さんに渡すもの、返すものは渡したし、私が返してもらうものも受け取った。これ以上話すこともなさそうだし、そろそろお暇しよう。


「橘さん、それじゃあ私はそろそろ――」

「佐倉さんっ」


 私が「帰ります」と言った言葉は、私の名を呼ぶ彼の声にかき消されてしまった。


 彼の視線はあちらこちらへと向き、どこか落ち着きのないように見えた。


――もしかして、まだ何かあるのかな? この際、とことん力になってあげようかっ。このまま何も聞かずに帰ったら、後で気になりそうだし……。


「橘さん? まだ何かお困りごとでもあるんですか?」

「――いや、困りごとって訳じゃないんだけど……。会社からも入院中は仕事をせずに大人しくしていろって言われたんだけど、何もせずにじっとしてるのは苦手でね。佐倉さんが話し相手になってくれたら嬉しいな、なんて考えてたんだ……。

 あぁ、でもこれは流石に図々しいお願いだ。今のは忘れてくれて構わない……。佐倉さん、呼び止めてしまってすまなかったね。気を付けて帰って」

「――あー、はい……それじゃあ……私は、失礼しますね」

「――あぁ、佐倉さん、救急車の付き添いから買い物、洗濯まで本当にありがとう。君のおかげで助かったよ。僕に、親切にしてくれてありがとう」

「はいっ、橘さん。お大事になさってください。では、失礼します」




 置いてきた車を取りに行くため、運転免許センター行きのバスに乗っている。車窓から流れていく風景が見える。通い慣れた景色だが、何故か心に引っかかるものがあるようでスッキリしなかった。


――ふぅ~、今日は長い一日だったなぁ。まさか、運転免許センターで男性が倒れる場面に出くわすなんて、あの時は本当に驚いた。友人や知り合いだったら、もっと慌ててパニックになってたかもしれない……。それにしても、橘さんが最後に言っていたことは本気だったんだろうか?


 学生の自分が大人の男性の話し相手になんかなれる訳がないと思って、あえてそのことには何も触れずに病室を出てきた。だが、ドアが閉まる直前に見てしまった。彼の寂しそうな表情を。


――大人でも1人ぼっちだと寂しい、とかあるのかな? まさかね、橘さんは立派な大人の男性だし、出張先で免許更新とかするくらいの行動力のある人だよ? それに、あんなイケメンなら毎日ひっきりなしに美人の看護師さんとかが訪ねてきて、話し相手には事足りなさそうだし……。


 彼に惹かれるものが無かった訳ではない。自分の周りにいないタイプの大人の男性で、スーツ姿も素敵だった。でも、彼は1週間したら遠い街に帰ってしまう人。このまま過ごす時間が増えて、万が一、彼を好きになってしまったら、別れる時に辛くなる。それなら、取り返しがつかなくなる前に離れてしまった方がいい。もう彼と会うことはないのだから……。



 ******



 ベッドサイドに置いたスマホのアラームがジリリリと鳴った。うっすら瞼を開けると、窓から朝日が差し込んでいる。


「ふぁ~、もう朝かぁ。今日は講義だから、起きないと……」



 昨日は病院を出た後、運転免許センターへ車を取りに行ったが、営業時間はとっくに過ぎていたため、車を置いて自宅へ帰ろうと思った時、建物の中から年配の女性が声をかけてきた。

 その女性は彼が倒れていた時にテキパキと同僚の女性に指示を出したり、彼の意識確認を率先していた人だった。私の車が残ったままで、取りに来るのを待っていてくれたらしい。

 彼が搬送されてから入院するまでの話をすると、その女性はホッとしたようだった。私はその女性にお礼をしてから、自分の車で自宅へ帰った。




 身支度を整え、鞄には教科書とタブレット端末、ノート、筆記用具が入っていることを再確認する。


「よしっ、準備万端っ」


 いつものように自宅のアパートを出て、最寄りのバス停から大学行きのバスに乗る。大学の講義は比較的遅い時間のため、通勤・通学のラッシュアワーを避けられる。

 のんびり1時間程かけて通学する。その間、講義の予習や復習をする日もあれば、スマホにダウンロードしたお気に入りの曲をイヤホンで聞くだけの日もある。


――あっ、橘さんが入院してる病院だ。橘さん、今頃どうしてるかな? 美人の看護師さんに囲まれて退屈してないかも? それとも、1人で何もすることがなくてボーっとしてる? 洗濯物は大丈夫かな? 病院の食事は口に合ったかな? 何か食べたい物や他に欲しい物はあるかな?

 はっ! 私ったら、また橘さんのことを考えて……。やめ、やめっ! 私は学生よ、橘さんは大人なんだから自分のことは1人でできるに決まってる。もう考えるのはやめよう。


 あれから6日が経った。彼の入院期間は1週間で、明日が退院日だ。彼から連絡は一切無いし、もちろん、私から連絡することはなかった。何の連絡がないのも、きっと無事に退院できるのだろうと思うようにしていた。




「咲~、また明日ね~」

「うんっ、またね~」


 キャンパスを出ると、夜空には欠けた月と星が煌々と輝いていた。


「遅くなっちゃったなぁ」


 新入生対象のオープンキャンパスに向けた準備のため、講義修了後は友人と一緒に企画を考えていた。前年度と違う内容で、新入生が楽しめる催しにしようと張り切って考えたのはいいが、決定するまでに結構な時間がかかってしまった。


「もう19時かぁ。駅前で何か食べてく? う~ん、夏のバーベキュー大会までお金を貯めておかなきゃだし、やっぱりコンビニかな?」


 大学前のバス停からバスに乗った。いつも同じ道を行ったり来たりしているが、夜は駅前の繁華街が一層賑やかになっている。今日は週末だからか、いつもより混雑している気がした。


 バスの座席に座り、鞄の中からスマホを取り出し、画面を見ると受信メッセージの通知があった。


――えっ? 橘さん? 今まで連絡が無かったのに、突然どうしたんだろう? もしかして、何かあったのかな?


 急いで受信メッセージを開き、最初の一文を読んで胸を撫で下ろした。


――はぁ~、良かった。明日、無事に退院できるみたいね。まぁ、元々検査が目的の入院だったんだし、退院することは事前に決まっていたものね。えっと、続きは……。


『佐倉さん、無事に明日退院することになりました。君が入院に必要な物を用意してくれたので、入院生活も滞りなく済みました。何から何まで迷惑をかけてしまって、申し訳なかったです。

 もし佐倉さんさえ良ければ、迷惑をかけたお詫びとお礼、僕の退院祝いを兼ねてディナーに誘いたいのだけれど、明日の夜はどうかな? 明日の夜が都合つかないのであれば、別の日でも構いません。僕は休みだから、君の予定に合わせるよ。ちなみに、僕は火曜日に東京に戻る予定です』


――ディナー? お詫びとお礼、退院祝い……かぁ。断るのって失礼なのかな? う~ん、私が橘さんの立場だったら? やっぱりお礼はしたいって思う……かなぁ。はぁ~、どうしよう。

 でも、最後に1度だけ会って、ちゃんとさようならすればいっか。それ以上は何もないだろうから。橘さんも、きっと大人としてのけじめをつけたいのかもしれないし。


「えっと、何て打とうかな……。

『橘さん、こんばんは! 無事に退院が決まって安心しました。退院祝いのディナーに誘っていただけるとのこと、ぜひお受けします』

 ダメダメ、こんなんじゃ、堅苦しすぎ……。

『――安心しました。ディナーのお誘い、受けさせていただきます。明日の夜でしたら、大丈夫です』と、長々送り返すのもおかしいし、これくらいなら失礼に当たらないよね……。よしっ、送信っ」


 数分もしないうちに、受信メッセージの通知を知らせる光が点滅した。スマホの画面を開くと、彼から返信が入っていた。


『良かった。では明日の夜7時に駅の北口で待ち合わせはどうですか?』


――夜7時か、夕食には丁度いい時間だ。明日は土曜日で大学も休みだし、少し早めに行って本屋やカフェでゆっくり過ごしてから待ち合わせ場所に向かうのもアリかな。


「『分かりました! 明日夜7時に! お会いできるのを楽しみにしてます』っと……。う~ん、最後のはちょっとやめた方がいいかな……。

『――夜7時に! 楽しみにしてます』と、これくらいの方がいいかな? よしっ、送信っ」


 コミュニケーションアプリの画面を開いたままでいると、送信メッセージはすぐに「既読」がついた。すると、可愛らしい犬がウインクしてるスタンプが表示された。


――ふふふ、可愛い……。橘さんみたいな大人の男性でも、こんな可愛いスタンプを使うんだ。何だか意外すぎる。


 バスの中でニヤニヤしていると、斜め前に座る年配の女性が後ろを振り返った時に目が合い、不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。視線が合って恥ずかしくなり、緩んだ表情をグッと引き締めながら車窓に映り込む街灯を眺めていた。

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