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恋愛小説のオムニバス  作者: 蒼井スカイ
桜と橘
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19/32

1.手足となって

「看護師さんから聞いたよ。君を巻き込んでしまって、済まなかったね」

「いえっ! 私こそボーっとしてて、何もできませんでしたから……」

「そんなことはないよ。僕のバッグには会社の重要書類が入っていたから、君が持っていてくれて助かったよ。ありがとう」

「――はい……。あの、もう歩いても大丈夫なんですか?」

「あぁ……まだ少し頭がふらふらするかな……ははは……」

「えっ! 立ったままじゃ危ないですから、座ってくださいっ」

「――あぁ、ありがとう。そうさせてもらうよ」



 彼の話では、過労による睡眠不足と、食事を抜いたことによる貧血が原因で倒れてしまったらしい。暫く仕事で忙しく、休みも取れていなかったため、これを機に検査入院をして全身の検査をすることになったという。




「大変申し訳ないのだけど、無理を承知の上で1つお願いしてもいいだろうか?」

「お願い、ですか?」

「あぁ、実はこれから入院の手続きをしないといけないんだけど、まだ足元がふらつくから君に病室まで付き添ってもらいたいんだ。もちろん、無理なら断ってくれて構わない」

「――あの、失礼ですが、ご家族かお知り合いの方は?」

「実は出張で来ていてね、1人も頼れる人がいないんだ。仕事の合間を縫って免許の更新に来たのが間違いだったらしい……」


――出張でこっちに? それじゃあ、頼れる人が誰もいなくても仕方がない。病院の中だし、病室まで付き添うだけなら問題はないかな……。それに、私が断ったせいでまた倒れられたら、いい気分はしないしなぁ。


「分かりました。入院の手続きから病室へ行くまででしたら、付き添います」

「本当に? 良かったー、ありがとう、助かるよ」


 彼はにっこり笑顔でお礼を言ってきた。


「そうだ、自己紹介がまだだったね。僕は橘です。よろしくね」

「私は佐倉です。よろしくお願いします」


 自己紹介をしてから、彼が差し出した手を握り、短い握手を交わした。彼の手は大きく温かかった。


「それで、どのくらい入院するんですか?」

「今日の分の養生と、その後の検査入院で、正味1週間というところかな。会社に連絡したら、10日間休めと叱られたよ……」

「10日間、ですか……太っ腹な会社ですね」

「太っ腹……あぁ、確かに、そうかもしれないね。だから、有難く休みを取ることにしたよ。どうせ帰っても仕事しか能がない男だからね、僕は」

「……」


――社会人になる、大人になるって、いろいろと大変なのね……。体を壊すまで休まずに働いていたなんて、私なら無理だなぁ。それに、そこまで必死になってやりたいと思えることもないし……。




 入院手続きを無事に終え、病室へ向かうことになった。車イスを持ってくると言ったが、彼は断固としてそれを拒否し、自らの足で病室まで歩いた。



「橘さんの病室は本館11階の1101号室です。よろしければご案内しますっ」

「ありがとうございます。彼女が付き添いなので、ご心配なく」

「――そう、ですか。何かご用やご不便なことがありましたら、気軽にお申しつけくださいっ」

「はい、ありがとうございます。では僕たちはここで」


 若い女性看護師が残念そうな表情で、私たちを見送っていた。彼はそんな様子も気にせずに、爽やかな笑みを浮かべてナースステーションを後にした。


――ナースステーションの女性看護師さんたち、橘さんの顔を見て皆うっとりしてたなぁ。橘さんの顔をしっかり見てなかったけど、よく見ると女性ウケしそうなイケメンだ。橘さんが看護師さんの案内を断った時なんか、後ろにいた看護師さんたちからの視線が痛かったなぁ。


 彼は160㎝の自分よりも20㎝以上高い高身長で、スラッとしていて足も長い。耳にかかる長さの黒髪は少しウェーブがかっていて、光に当たった部分が明るめの茶色に見える。目鼻立ちは整っていて、誰が見ても美形だと言うだろう。何より体型にフィットした上質な生地のスーツが似合っていた。彼とすれ違う女性が凝視するのも納得できる。


――ん? もしかして、私、女性除けのために橘さんに利用されてる? 足元がふらつくって言ってたけど、車イスに乗るのを拒否してたし、今だってとても足元がふらついているように見えないし……う~ん……。


「佐倉さんはもしかして学生さん?」

「えっ、あ、はい、そうです……」

「今更だけど、今日は大学の方は大丈夫?」

「はい、今日は休講なので問題ありません」

「そうか……それは良かった」

「……?」


――橘さん、やけに嬉しそうな顔をしてるけど、何だろう? 私に迷惑をかけていると思って、気にしてくれてたのかな? まぁ、それもそうか、私は学生な訳だし、普通の大人なら心配するところだよね。


 彼の病室がある11階は本館の最上階の角部屋にあたる個室だった。個室のドアはカードキー対応で、患者とその家族のプライバシーまで守られている。


 病室に入ると、数名の大人が入ってもゆったり過ごせる広さがあり、ダブルベッドとソファベッド、応接セットと大型家具が置かれているのに、十分な余裕があった。部屋の奥にはシャワー室やトイレ、ミニキッチン、冷蔵庫、電子レンジなどの設備が充実していた。


「広ぉ~い! ここって、もしかして特別室じゃ……」

「――あぁ、一般の個室が一杯だったみたいでね。丁度この部屋がキャンセルになったみたいで、差額も払わなくていいらしい。まさかこんなに広い病室だとは思わなかったんだけどね」

「橘さん、ラッキーじゃないですかっ! 特別室なんて、芸能人とか有名人みたいなお金持ちの人が利用する個室ですからっ」

「――そうだね……うん、僕は本当に幸運だった」


 冷蔵庫にはミネラルウォーターやお茶類のペットボトルが入れられている。


――これなら、自販機で飲み物を買って来なくても大丈夫そう、良かった。


「橘さん、ジャケット、クローゼットにかけておきましょうか?」

「あぁ、すまないね。よろしく頼むよ」


 彼からジャケットを受け取ると、クローゼットのハンガーにかけた。クローゼットの中にはパジャマとスリッパが収納されていた。


「中にパジャマとスリッパがありましたよ。ベッドに横になる前に着替えされた方がいいですね」

「あぁ、そうだね」

「わ、私は奥の洗面所で足りない物がないか確認してきますねっ」

「――ありがとう」


――びっくりしたぁ。橘さん、私がいる前でYシャツを脱ごうとしてた……。さすがに、家族でも、彼氏でもない男の人の着替えシーンを見るのはちょっと、ね。今のうちに、入院生活で不便なことがないよう、生活に必要な物が揃ってるかだけでもチェックしておこう。橘さんは知り合いがいないんだから。


 シャワー室と洗面室を確認したが、歯ブラシやクシ、髭剃りなどのアメニティも完備されている。さすがに、ドラム式洗濯機はないが、同じフロアに特別室専用のランドリールームが完備されているため、洗濯のために階下までわざわざ降りる手間もないようだ。


――凄いっ! まるでホテル並みの充実度。とても病院にいるとは思えない。それにこの部屋は最上階の角部屋で、周囲に高層ビルがないから眺めもいいときた。お金があるとないでこんなにも病室に大きな差があるんだ……。


 以前、祖母が入院した時は4人部屋の病室で、室内で用を足す患者もいたため、室内は消毒の臭いがきつかった。壁やパーテーションのような仕切りもなく、隣のベッドとの境界は薄いカーテン1枚だけだ。まるで個人のプライバシーもない環境だった。それに比べて、この特別室は設備もアメニティも充実している。十分なくらいに……。




「佐倉さん?」

「あっ、はい……」


 後ろを振り返ると、病院のパジャマに着替え終わった橘さんが心配そうな表情をして立っていた。


「なかなか出てこないから、心配したよ」

「あぁ、すみませんっ。滅多に見れない特別室だから、隅から隅まで見ていましたっ」

「ははは……何か面白いものはあった?」

「いえっ、でも、ホテル並みに設備やアメニティが揃ってるので、生活に不便はなさそうですよ」

「それは良かった」

「あっ、じゃあ、私はそろそろ失礼しますね」

「――あぁ、そうだったね……」


 彼の表情が少し曇ったのが気になり、思わず声をかけてしまった。


「どうかしたんですか?」

「――いや、実は……、やっぱり止めておこう……」

「……?」

「佐倉さん、今日は迷惑をかけっぱなしですまなかったね。でも、君がいてくれて本当に助かったよ」

「……」


――何だろう? 橘さんは何を言いかけたんだろう? ん~、言いかけて止められると気になる……。何か困りごとでもあるのかな? もしかして、迷惑かけると思って私に遠慮してる?


「橘さん、さっき何を言いかけたんですか?」

「――あぁ、いや気にしないで。流石に、君にこれ以上迷惑をかけられないからね……」

「迷惑……何か困ってるんじゃないですか? 私にできることならやりますっ。遠慮なく言ってください」

「――本当に甘えてもいいのかな?」

「はい、もちろんです。橘さんはお一人なんですから、今日だけでも私を頼ってくださいっ」

「佐倉さん……ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

「はいっ」



 彼は自分のバッグから財布を出し、財布から何かを差し抜いた。


「佐倉さん、手を出してくれる?」

「手、ですか? はい……」


 手を差し出すと、掌の上に1万円札が十数枚乗せられていた。


「えっ? これっ……」

「そう、これで買い物を頼みたいんだけど、いいかな?」

「ちょ、待ってください。こんな大金、預かれませんっ。買い物なら、私がお金を立て替えて買ってきます。商品と引き換えでその時に精算していただければ……」


 思わず手に乗ったお金を彼の手に戻した。とてもじゃないが、学生が気軽に持ち出せる金額ではない。


「カードを渡せたら良かったんだけど、本人以外が使用するのは違法だからね……。それに、佐倉さんにお願いしたいのは割と値が張るスーツ一式なんだ。きっと学生の君が立て替えるのは難しいと思う」

「……」


――高級スーツ一式かぁ……。数万円? いやいや、十数万円するかも。そんなお金払えない。でも、お願いされて買い物をするとはいえ、あんな大金を預かるなんて……。どうしたら……。


「佐倉さんを見る限り、このお金を預けても信用できる人間だと僕は判断した。だから、金額は気にせず、気楽な気持ちでお願いできたらと思ってるんだ」

「でも……」

「まぁ、そうは言っても僕らは今日出会ったばかりだしね。僕は人を見る目はあると自負しているけど、佐倉さんからすると、万が一、紛失するようなことがあったら『責任を問われるかも』と心配になるよね。じゃあ、佐倉さんさえ良ければ、身分証明できる物を僕に預けてもらえないかな?」

「身分証明、ですか?」

「うん、僕としてはそこまでする必要はないと思ってる。でも、佐倉さんがそれで安心して僕のお金を持ち歩けるのなら、お互いにとって公正な取引じゃないかと思う。どうかな?」

「……」


――私が身分証明できる物を橘さんに預ける、私は橘さんのお金で買い物をしてくる。確かに、これなら私は絶対にお金を持ち逃げしたり、故意に紛失したりしないという担保ができる。橘さんだって、口では信用してると言っても、私が絶対に持ち逃げしないという保証はないもの。


「分かりました」


 私はバッグから今日受け取ったばかりの運転免許証を取り出し、彼に差し出した。そして、彼の手から十数枚の一万円札を受け取り、自分の財布に保管した。


「確かに、預かったよ。佐倉さんが買い物に行ってくれている間、運転免許証は僕がしっかり保管しておく」

「はい、お願いします」


 彼から頼まれたのは、駅前の百貨店にある紳士服売り場に頼んであった荷物を取りに行くことだった。その百貨店は彼の得意先の一つで、挨拶がてらスーツ一式をオーダーし、出張のタイミングで取りに行く予定だったらしい。


「そういえば、その……1週間入院するなら、パジャマや下着の替えが必要になるんじゃ……」

「あぁ、確かに。そこまで思いつかなかったなぁ。でも、さすがにそこまでは――」

「私でよければ適当に見繕って買ってきますよ?」

「――うーん……」


――しまったっ。私、出しゃばりすぎたかも……。流石に、男性の下着を買うっていうのは行き過ぎたかな……。でも、下着がないと不便だろうし……。


「何だか申し訳ないな……じゃあ、スーツと一緒に頼めるかな?」

「はいっ」


――良かったぁ、機嫌は悪くなさそう。嫌な顔をされたらどうしようかと思ったけど、良かった。あっ、パジャマはフリーサイズとして、男性の下着のサイズとか、デザインとかはどうしよう……。


「――あの、つかぬ事をお聞きしますが、下着を買うにあたって何かデザインとか、サイズ……とか注文はありますか……?」

「――――」


――あぁ、恥ずかしくて、橘さんの顔を見れないっ! 私、変態とか思われてないかな? でも、サイズが合わない物やフィット感とか不快に感じるとストレスになるかもしれないし……。あぁ、何で下着の買い物なんて言い出しちゃったんだろう……!


「あー、それじゃあ……ボクサータイプのMで……」

「はいっ、分かりましたっ。じゃあ、すぐに行ってきますね!」


――あぁ、恥ずかしいぃ~! このまま橘さんの顔を見ずに、走り去ってしまおう。


「あっ、佐倉さん?」

「へっ?」

「念のため連絡先を交換しておこうか。買い物をした時に困ったら連絡できるし……」

「そ、そうですねっ。分かりました」


 彼と連絡先を交換すると、ふいに下の名前で呼ばれた。


「『さき』ちゃんでいいのかな?」

「あー、普通はそう読みますよね。私の場合、『さき』じゃなくて『さく』って読むんです」

「へぇ、佐倉咲かぁ、春にぴったりの可愛い名前だね」

「か、可愛い……?」


――可愛い? そんなこと、初めて言われた……。フルネームだと、『さくらさく』だから、いつも面白がって揶揄われていたのに……。橘さんは可愛いって思ってくれるんだ。


 自分の名前を可愛いと言われて恥ずかしくなり、彼に背を向けてしまった。


「咲ちゃん?」

「へっ?」


 名前を呼ばれて変な声が出てしまった。恐るおそる後を振り返ると、彼は柔らかな笑顔で手を振っていた。


「気をつけて行って来てね」

「――――はいっ! 行ってきますっ!」


 一瞬、時間が止まったようだった。彼はとても上品で、やさしそうな笑みを浮かべていた。それはそれは、女性を魅了するに相応しい大人の男性の表情だった。私は恥ずかしさのあまり、逃げるように病室を出た。




 ******




結人(けいと)っ、お前なぁ、俺の寿命を減らす気か?」

「あぁ、悪かったよ。まさか、出張先で倒れるとは思わなかった。まだ行けると思ってたんだけどな」

「――全く、仕事が片付いた後だから良かったものの……。それにしても、何ですぐに連絡を寄越さなかったんだよ?」

「あー、まぁーね……」

「何だ? お前、何か隠してるだろう?」



「はぁ? そんな大金を見ず知らずの女に預けたのか? お前なぁ!」

「赤津が言いたいことは分かるよ。でも彼女は絶対に大丈夫だ。俺は人を見る目があるだろう?」

「お前は確かに人を見る目はあるが、それはあくまでもビジネス上での話だ。それに比べて、昔から女を見る目だけはないだろうがっ」

「――あー、そうだったかな……? でも、彼女は大丈夫だよ。心配はいらない」

「はぁー、全く。お前の大丈夫は信用ならないっ」

「そんなに心配なら身辺調査でもすれば?」

「はぁ? 俺はそんな暇はないんだよっ。会社のトップがぶっ倒れたせいでなっ! 挙句の果てに、10日間も休むだと? 正気かっ? お前、秘書の俺を忙殺する気だろうっ!」

「あー、うるさいな、全く。赤津、俺のバッグの中に入ってる封筒を出して」



「封筒? あぁ、コレか」

「中を開けてみろよ」

「ん? おいっ! コレって! マジかよっ!! 本当にこんな好条件の契約を締結したのかっ?」

「俺に10日間の休みをくれる気になっただろう?」

「――はぁー。分かったよ、降参だ。後は俺に任せて、ゆっくり休め」

「あぁ、そうさせてもらうよ」

「だけど、俺はこの契約を進めるのに社へ戻らないとな……お前、1人で大丈夫なのかよ?」

「あー、別に病気とか、ケガをしてる訳じゃないし、何とかなるだろう」

「まさか――お前、さっきの女のこと……」

「変な想像するなよっ、別にそんなんじゃない。彼女はいい虫除けになるからな……」

「結人、念のため言っておくが、間違っても女子大生のガキになんか手を出すなよっ」

「出す訳ないだろっ」

「どうだかな……」

「――赤津、そろそろ社に戻った方がいいぞ? これから忙しくなるんだからな」

「はいはい、分かりましたよ、社長っ。私は社長の秘書ですからねー」

「俺が復帰したら、次はお前が休みを取れよ。家族サービスでもしてやればいい」

「――休みなんか取れる訳がないだろうがっ! 知ってて言ってるのかよ、本当に意地が悪いな、お前は昔からっ」

「お互い様だろ」

「はぁー、俺は忙しいからもう行くぞ」

「赤津、心配するな。俺もできることはここでするから」

「お前はいいっ! さっさと寝て体を休ませろっ、いいなっ!」

「あーはいはい、分かりましたよ。社内一優秀な秘書さん」

「心にもないことを言いやがって……全く。じゃあな、何かあれば連絡寄越せよっ」

「はーい」

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