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恋愛小説のオムニバス  作者: 蒼井スカイ
第2集 青の世界
15/17

5.白のない世界

「はい、紅茶だけど薄めに淹れてあるから」

「――ありがとう」


 青はガラステーブルの上にティーカップを置くと、L字型ソファに座る私の隣に腰をおろした。隣からブラックコーヒーの香りが漂ってきた。


「…………」

「…………」


――沈黙が重すぎるっ。何か、話題……この嫌な雰囲気を明るくするような話題は何かないのっ! こういう時に限って全然思い浮かばない……。


 立てかけられた絵に白い布をかけて部屋を出ようとした時、入口そばの棚と壁の隙間に1枚の絵画が隠すように立てかけられていた。その絵に手を伸ばしかけた時、青が遮光カーテンを全て閉めて入口に歩いてきたため、伸ばしかけた手を引っ込めた。


 ソファのある部屋に戻ると、「紅茶を淹れるからそこに座ってて」と言われ、キッチンに立つ青に背中を向けるようにソファに座って、今に至る。


――そういえば青は以前、スランプに陥ってたと話していたんだっけ……。もしかして学生時代のあの絵とスランプになったことは何か関係があるんじゃ……。

 美大で何かあったとか? もしかして自分よりも凄い才能を持つ人と出会って落ち込んだとか? でも、青の性格からしてそんなことで落ち込むようには見えないし……。

 じゃあどうして? 子どもの頃からあんなに上手に絵を描ける人が、絵の雰囲気も配色も暗く重苦しくなって、画風がガラッと変わってしまって……。


 青の絵の変化の原因は何だろうと勝手に思考を巡らせていると、青が隣に座った。手に持っていたコーヒーカップをガラステーブルに置き、重く閉じた口を開いた。


「――澪にはどんな風に見えた?」

「えっ?」

「あの部屋には、俺が絵を本格的に学び始めてから学生時代に描いた絵まである。特に学生時代の画風はガラッと変わっている。それは誰の目からも明らかなはず……。澪は……澪なら、どう評価する?」

「評価って……私には難しくて分からないよ」

「別に気を遣う必要はない、もう過去のことだ。正直に言ってくれて構わない」

「…………」


――正直に、って言われても……。過去のことだ、なんて言ってるけど、あんなに辛そうな表情をしてたじゃないっ。私が何気なく言った言葉が、青の心をもっと傷つけてしまうかもしれない……そんなこと、できる訳がないじゃない……。


「俺は、澪があの部屋の絵を見て感じたことを知りたい」


 青は無意識なのだろうか、懇願するような色気たっぷりの瞳をこちらに向けてきた。それは(なま)めかしいと表現するのに相違ない表情だった。青のこんな表情は見るのは初めてだった。

 青のマンションで水も滴るお色気満載の上半身裸姿を目の当たりにし、妙な色気を持っていることは分かっていたが、こんな妖艶な表情を隠していたのかと思ったら、何故か胸が高鳴った。


――ん~、もうっ! そんな表情するなんて、狡いじゃないっ。青は男なのに何でこんなに色気があるの? 少しでもその色気を私に分けてほしい……。はぁ~、分かったわよ、私の負けよ。負けを認めて正直に絵の感想を言えばいいのよね? お願いだから、私の言葉で傷つかないでよっ!


「――はぁ~。分かった、正直に話すから……」

「……」

「その前に約束して」

「えっ? 何を……」

「もう過去のことなのよね? それなら、私がどんな感想を言ったとしても、絶対に傷つかないって約束して!」

「――ははは……約束か……それは少し怖い気がしてきたな……」


 青は笑っているが、いつものような元気もなく、弱々し気に感じた。思わず絵を見た感想を話すと決めて覚悟したが、その覚悟ですら簡単に砕け散りそうになった。


「前も言ったけど、私は絵について素人だし、必ずしも青が期待するような答えを持っている訳じゃないからね」

「あぁ、分かってるよ。ただ、澪がどんな風に感じたのかを知りたいだけだ……」

「……」

「分かったよ、約束する。たとえ澪が何を言おうと、傷つかないと約束する。これで話す気になった?」

「――はぁ~、分かった。私は、青の絵を右から順番に観ていったの」

「……」

「肖像画はご両親とお姉さんがモデルなんだよね?」

「あぁ、あれは俺が中学に上がる前に描いたやつだ」

「絵の才能がない私からすると、凄く上手だと思ったし、何より絵から感じた雰囲気というか、空気感というか、青が家族を大切に思っていることとか、絵を描いている時に幸せを感じていたんだと思った……」

「――確かに、周りを見ても俺の絵の方が上手だとは感じていた。まだあの頃は画家になろうとは思ってもいなくて、ただ身近にあるものを描くのが楽しかった……」

「――その次の絵は海外の風景が多かったよね。過去に一度、自分も水彩画にチャレンジしてみようと思って、本屋で水彩画の描き方を写真付きで説明してる本を見つけて、それを買って見ながら描いたことがあるの。でも、うまく描けなくてすぐに止めてしまった。青のこの頃の風景画は本物のプロの画家みたいな絵だと思った」

「あれは中学に入ってからだな。絵画教室の先生が俺の才能を買ってくれて、夏休みに海外へ一緒に連れて行ってくれたんだ。先生は海外でも個展を開くプロの画家で、本物の画家になるならヨーロッパに行くべきだと両親を説得してくれてね。

 中学3年の頃、周りが受験勉強で必死な時に俺はヨーロッパへ短期留学したんだ。ヨーロッパで絵画だけに打ち込めて、貴重な経験をさせてもらった。先生には感謝してる」

「その先生は今もお元気で?」

「いや、俺が美大に入って間もない頃、病気で亡くなった。最期はアトリエで……亡くなる直前に完成した作品は、そのまま先生の遺作になった……。その絵は奥さんが美術館に寄贈したんだ」

「そっか、残念だね……私もその絵を見てみたいな……」

「あぁ、それなら次の休みにでも観に行こう」

「うん」


 和やかな雰囲気の中、私は青の成長記録とも言える彼の絵を見た感想を続けた。


「その次の絵は、可愛らしい少女の肖像画ばかりだった。制服姿だったから、青が高校生の時かな? もしかして、青の初恋の相手だったりして……」

「…………」


 わざと茶化すような言い方をして青に視線を向けると、青はこちらに向けていた顔を正面に戻し、俯いていた。その横顔からは何の感情も感じ取ることができなかった。


――ヤバいっ! もしかして失恋した相手だったりして……。話を、話題を変えなきゃ。


「あぁ~、とにかく、凄く上手だし、生き写しのように見えるほど美しい絵だったと思う。うん、そうっ。それで次は……」

「…………」


――あぁ! 次が一番肝心なところじゃないっ。学生時代の絵はどれも暗くどんよりとしていて、絵の題材も抽象的すぎて分からなかった。青が何を思い、何を伝えたくて描いたのか……。


「学生時代の頃の絵は……正直、私には難しすぎて分からなかった。何て言うか、天才が描く絵って感じ? 素人の私が見てもさっぱりだし、私が感想を言うまでも――」

「――分かる訳がないよな……」

「えっ……う、うん……」

「――何を描いているのか、俺でさえ分からないで描いてたんだから……」

「それって、どういう……」

「――俺はあの頃から白を使わなくなったんだ、いや、使えなくなった、というのが正しいのかも……」


――白を使えなくなった? それって、どういうこと? そういえば、学生時代の絵は全体的に暗い色ばかり使われていたっけ。言われてみたら、白も、白を混ぜた淡い色も、絵のどこにも見当たらなかった……。白を使えない……白を使いたくなくなった? 青はどうして……。


「さっき澪が言ってた少女の肖像画……あれは『真白(ましろ)』という子の絵だ。澪は初恋の相手か、と言ったが、俺にも正直なところ分からない……」


――えっ? 初恋の相手かどうかが分からないって……そんなことある? それは好きかどうか、その子に恋心を寄せていたか分からなかったってこと?


「真白と出会ったのは高2の時で、同じクラスになったことはなかったが、いつからか同じ電車で通うようになって、彼女も絵を観るのが好きだったから自然に打ち解けていったんだ。彼女が、俺の描いた絵を観たいと言ったから、条件を出したんだ」

「条件?」

「そう、彼女が肖像画のモデルになること。それが彼女に出した条件だった。彼女は最初こそ断ったが、俺の絵を観たいからモデルになると言ってきた。それから、1枚描くごとに何枚かの絵を見せることにした。

 彼女は、真白は俺の絵を観て『すごい、上手だ、天才だ』と褒めてきたが、その頃の俺は素直じゃなくて『そんな絵、誰でも描ける』なんて偉そうに言っていたんだ」


 そう言うと、青は冷めたコーヒーを1口啜ると、遠くを見るような目になって、それ以上何も話さなくなった。青の意識はここにはなく、遥か遠くの想い出に浸っているような気がして、声をかけるのを躊躇してしまった。


 長い沈黙の後、現実に引き戻されたのか、青は空になったコーヒーカップを手にしたまま立ち上がり、「紅茶、冷めちゃったな。温かいのを淹れるよ」と言い、私の返事も待たずにティーカップを持ってキッチンへ行ってしまった。

 青はキッチンでお湯を沸かしている間もずっとこちらに背を向け続けていた。




「カフェインに弱い繊細な澪には、カフェインレスの紅茶な」


 青は暫くしてから湯気の立つティーカップをガラステーブルに置きながら、そう言った。


「戸棚の中を探したら、カフェインレスの紅茶が入ってた。これがあったんなら、最初からこれを出せば良かったな」


 青は笑っていたが、その瞳の奥には深い悲しみの色が見えた気がした。しっかり見た訳ではないが、その瞳は赤く充血しているように見えた。


 再びソファに2人が並んで座ると、青が明るい口調で話しかけてきた。


「それで? 学生時代の頃の絵の感想はどう? 澪は何を感じた?」


 青の顔色は暗く、引き攣った表情から緊張で強張っているのが分かった。それでも私を真っ直ぐに見る眼差しは真剣そのもので、これ以上、当たり障りのない上辺だけの言葉を並べるのは無駄だと思った。観念して正直な感想を伝えよう、そう決心した。


「――学生時代の絵は……たぶん、青が心の中で必死にもがいていたんじゃないかって感じたの……。何かを必死に形にしようとしても、それが分からない、それが何なのか知りたい、でも、考えても分からない、ような……。

 青が何に悩んでいたのかは分からないけど、きっとたくさん悩んで、苦しんで、もがいて、悲しくて、切なくて、辛い……人生で最も辛い時期だったんじゃないかって思った……」

「…………! ははは……」


 絵を観て感じたことをそのまま伝えると、隣から乾いた笑い声が聞こえてきた。視線をそちらへ向けると、青はソファの背もたれに背を預け、両手を額に乗せていた。青の表情は両手で隠れていて分からない。


「――そうか、俺は苦しんでいたのか……今頃気づくなんて……愚かだな、俺は…………くっ」


――青は気づいていなかったの? あんなにも暗く冷たい絵を描いていた理由に……。どんな感情で絵を描いていたのかを。


 青は顔を隠していたけど、声を殺して泣いていた。


 私は席を外した方がいいかもしれない、そう思ったけど、何故かその場から動けないでいた。何の根拠もないのに、私は青のそばににいるべきだと感じた。





「――悪いっ、情けない姿を見せたよな……」


 青は落ち着いたのか、いつもよりは弱々しい笑顔だったが、さっきよりも随分と顔色が良くなった気がした。


「ううん、そんなことはないよ。青だって人間なんだから、落ち込むことだってあるでしょ? それに、私なんて空き巣に入られた時に今の青よりももっと酷い姿を見せたじゃない……」

「あははは……確かに、あの時は急に大泣きするから、流石に焦ったな……」

「でも、青がそばにいてくれたから、私は元気になれた……」

「――うん、俺も澪がそばにいてくれて良かった。ありがとな……」


 青は今できる精一杯の笑顔で、私の頭を撫でてきた。その手はすぐに離れ、ガラステーブルに置いたコーヒーを1口、2口と啜り、テーブルにコーヒーカップを戻すと再び口を開いた。


「――彼女は……真白は俺の初恋の相手だったのかもしれない。俺と真白は友人として高校時代を過ごした。高校卒業後、真白は家族の転勤で引っ越してしまった。それから何度か手紙のやり取りをしたけど、お互い大学生活で忙しかったからか、そのうち手紙のやり取りも途絶えたんだ。

 大学1年の夏休みの終わりに実家へ帰省した時に偶然聞いてしまったんだ。真白が闘病生活を送っていて、その夏に亡くなったと……」

「そんな……」

「驚いたよ。真白は手紙でそんなこと一言も書いてなかったし、大学生活を楽しんでいると書いてあったから……。真白は何故俺に何も言わなかったのか、ずっとそればかり考えていた。

 創作活動にも集中できず、単位を落としかけて退学になりかけた時もあったんだ。その時、1人の教授が俺にチャンスをくれて、何とか卒業することができた。後で知ったんだが、その教授は子どもの頃俺に絵を教えてくれた先生の同期だったんだ。

 その教授は、先生が病気で余命僅かと知った時に、『俺の弟子をよろしく頼む』と頼み込まれたんだと言っていた。俺は最期まで、先生に見守られて、結局生きている間に恩返しができなかった」

「…………」



 外は日が落ち、室内は薄暗くなっていた。部屋の入口に照明のスイッチがあるのに気づいて、部屋の照明をつけると、青は驚いた顔をしていた。


「あぁ、もう外は暗くなっていたんだな。すっかり話こんじゃったな……そろそろ帰るか?」

「ううん、青が嫌じゃなければ、話の続きを聞きたい……」

「――分かった。

 真白が亡くなったと知ってから、俺は白い絵具を使えなくなった。今考えると、俺にとって白は……真白の色だったから……」


――そうか、だから学生時代の絵は白のない、暗い絵ばかりだったんだ。青は真白さんの存在の大きさに気づいてなくて、真白さんの死を受け入れられなくて、無意識に彼女を象徴する白い絵具を使うのを避けてたんだ。きっと、その頃の青の見ていたものは、まるで白のない世界だったんだ……。


「澪の言葉を聞いて、ようやく分かった。俺はずっと真白の死を受け入れられなかったんだ。彼女に抱いていた感情さえも全部蓋をして、何も気づかないようにしていたんだ……。

 でも、きっと、真白は最期まで精一杯生きていた……彼女なら、最期まで笑っていたはずだ……。彼女は、真白はそういう人だったから……」


――真白さんはきっと最期まで、元気な姿の自分を青に覚えてもらいたかったのかもしれない。闘病生活で日々弱々しくなる姿を見せるくらいなら、何も伝えず幸せに暮らしていると嘘をつき続けた方がお互いのためだと思ったのかもしれない。

 真白さんが本当にそう思っていたのか、私なんかが勝手に想像して決めつけていいはずがない。でも、真白さんもきっと青のことが……。大切な人を悲しませたくない、自分がいなくなった後に、青に辛い思いをさせたくない……そんな風に考えていたのかも……。

 私が真白さんだったら、同じことができたかな? たった1人で大切な人に何も伝えずにひっそりと最期の時間を過ごす……。そんなこと、私だったらできない……。真白さんは何て強い人なんだろう。何でそんな素敵な人が若くして亡くならないといけないんだろう……。


「澪? 泣いてるのか?」

「えっ?」


 指で頬に触れると、涙が流れていることに気づいた。


「えっ、何で? どうして、涙なんか……」


 次の瞬間、温かいものに包まれた。


「澪、真白のために泣いてくれて、ありがとう……」


 青の声が耳元で聞こえて、青の腕の中にいるのだと気づいた。この腕に抱きしめられるのは、自宅のアパートに空き巣が入った夜以来のことだった。青の温もりが、同じリズムを刻む鼓動が心地良く、自然と瞼が降りていく。


 私はこの時から、心の中で揺らぎを感じ始めていた。その揺らぎが何なのかまでは分からなかったが、そこに不安はなく、むしろ青葉が芽吹くような清々しさを感じていた――。

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