4.同居生活
「きゃ〜!!」
「澪っ、どうしたっ!」
「ふ、服着てっ!」
「あっ? あぁ、何だよ、驚かせるなよ。何か遭ったのかと思って肝が冷えた……」
昨夜、アパートの私の部屋が空き巣被害に遭い、私は一夜にして衣食住の衣と住を失った。管理人さんはお子さんの家に遊びに行き、1週間後でなければ戻って来れず、部屋の鍵の交換ができない。
そこで青の提案で彼のマンションに住まわせてもらうことになったのだが、一人暮らしの男性との同居生活は思った以上に危険を孕んでいた――。
青は家の中で上半身裸のまま歩き回るため、何度も服を着るよう注意する羽目になった。特に入浴後にタオル1枚で歩き回っている姿を見た時は発狂しそうになった。濡れた髪や程良く筋肉質な上半身は普段見る青とは別人で、お色気満載な大人の男性に変貌していた。
――もう〜、目に毒だっ! 青は私の前で上半身裸でも何も気にしてないみたいだけど、男性の裸を見慣れてない私には刺激が強すぎるっ。お願いだから、そのお色気は自分の好きな人に向けてよ〜!
「青は朝ごはんは食べないの?」
「あぁ、朝食べると頭が働かなくなるからな」
「普通、逆じゃないの? 朝ごはんを食べるから脳に必要なエネルギーが生き渡って頭が働くんじゃなくて?」
「俺は違うんだ、朝ごはん食べていた時よりも体の調子が良くなった。その分、昼と夜でしっかり栄養は摂ってるけどな。まぁ、たまにマスターのとこで朝食食べる時もあるけど」
「マスターの朝食っ! いいなぁ、私も食べてみたいなぁ」
「あー、じゃあ明日の朝行くか?」
「えっ、いいの?」
「あぁ、別に構わない」
「やったぁ!」
「子どもかよ」
――わぁ、念願のマスターさんが作る朝食を食べられるなんて、嬉しすぎるっ! マスターさんの料理は何を食べても美味しいからなぁ。
昨夜はどうなることかと思ったけど、青のおかげで何とか生活立て直せそう。今はたくさん迷惑かけちゃうけど、残業も入れて、早く貯金を貯めて1人で生活できるように頑張らないと! いろいろと買ってもらった分も含めて返さないとね。
今日は布団や衣服、食器など、同居生活に不足している物を買うために、青の車で郊外のショッピングモールまでやって来た。
「澪、他に必要な物は無いのか?」
「うん……たぶん」
「たぶんって、お前なぁ。案外抜けてんのな、澪は」
「うっ……! あっ、忘れてた」
「何だ? 買い忘れか? ほらさっさと終わらせて帰るぞっ」
「あの、その……買い忘れたのは、下着……だから、1人で買ってくるから先に戻ってて」
「何だ、下着か。俺は別に着いて行っても構わないぞ」
「な、何言ってんのよ。青は気にしなくても私が気にするのっ」
「何なら俺が選んでやろうか?」
「はっ? な、バカなこと言わないでよっ」
「澪、顔が赤くなってるぞ? 年齢に見合わず、中身はまだお子様なのか?」
「うっ……」
青を何とか言いくるめ、私は1人でランジェリーショップへ行った。青は自分が支払うと言ってくれたのだが、流石に下着を恋人でもない男性に買ってもらうのは気が引けるというもの。全力でお断りした。
――可愛い下着見つけちゃった! ちょっと値は張るけど、ずっと着古してた下着ばかりだったから、新しい物に買い替えて身も心も心機一転できそう。管理人さんのご夫婦が戻ってくるまで、あと5日。気持ちを入れ替えてしっかり頑張るぞっ!
無事に下着を購入し、生活に必要な物は一通り揃えることができた。
青との待ち合わせ場所に向かうと、青は熱い視線を送る女性達に囲まれ、声をかけられていた。
「青って、あぁやって見ると、確かにイケメンかも……」
青の今日の服装は半袖のリネンシャツで胸元に折り畳んだサングラスを引っ掛け、黒のジーンズというラフな格好なのだが、世の女性達の目にはお洒落な大人の男に映っているらしい。
――青、デートのお誘いでもされてるのかな? んっ? 青くん、なかなか素っ気ないではないか。それじゃあ、好きな女性を落とせないぞっ。
そういえば、青には彼女とか好きな人はいないのかな? 他に選択肢が無かったとはいえ、私が青と同居してるって知ったら誤解されるんじゃ……。お願いだから、泥沼の三角関係なんて勘弁してよぉ。うん、後でしっかり確認しておこう!
青が女性達の誘いを断っている様子を少し離れた場所から高見見物していたのだが、青に気づかれたようだ。女性を掻き分けて、こちらに向かって歩いてくる。
「あぁ、バレちゃった……ちょっと面白そうだったのに……」
近づいてくる青の表情は少し不機嫌そうだった。
「おいっ、買い物終わってるんなら声かけろよ」
「えぇ? だって青が女性を侍らかしていたから、お邪魔になるのはイケナイかなって……ちょっと何でそんなに不機嫌そうなの?」
「どう見ても俺が楽しんでいるように見えなかっただろうがっ!」
「えぇ~、そうかなぁ?」
「はぁ〜、もういいっ、くだらない話をするのも面倒だ。買い物終わったんだよな?」
「うんっ、お陰様でいい買い物ができました」
「それなら帰るぞ。どうでもいい女ばかり寄ってきやがって。面倒くせぇったらありゃしない。だからこういう場所は嫌なんだっ」
青は気怠そうな表情でブツブツ文句を言っていたが、買い物の荷物をしっかり持って歩いてくれている。
――最初は変な人だと警戒してたけど、話してみると案外気さくで話しやすくて、一緒にいても気を遣う必要もないし、気疲れすることがないのよね。昨夜も今日も青がいてくれて本当に良かったな。
スタスタと立体駐車場へ向かう彼の背中を追いかけ、声をかけた。
「青、今日はありがとう」
「――別に、俺もたまには気分転換が必要だからな、お前の買い物はそのついでだ」
彼の左隣に並ぶと、ぶっきらぼうな言い方をしていたが、耳が僅かに赤くなっているのに気づいてしまった。
――ふふふ、青も素直じゃないんだからっ。案外可愛いところもあるんだ。
翌朝、雀のチュンチュンという鳴き声で目が覚めた。ボーッとしていた頭は次第に思考力を取り戻していく。
「あっ! 今日はマスターさんの朝食を食べに行く日だ。早く支度しなきゃ」
「美味ひぃ~!」
こんがり焼かれたデニッシュやロールパンは外がカリッと、中はふわっとした食感で、別皿にバターや蜂蜜、マーマレード、イチゴのジャムが添えられている。盛り合わせのパン皿の隣には瑞々しい野菜のサラダと野菜たっぷりのスープ、そしてお代わり自由のオレンジジュースが並ぶ。
「澪、本当にお前は旨そうに食べるのな」
「だって、本当に美味しいんだもんっ」
正面の席に座る青はこちらを見て、呆れたような笑みを零している。
――別に何を言われたって気にしない。だって、こんな美味しい朝食は初めてだから。あぁ、毎日こんな美味しいごはんを食べられるなら幸せなのになぁ~。
マスターさんがオーナー兼店主のこの「喫茶店『アトリエ』」は、早期退職後の趣味の延長で経営しているという。話に聞くと、真向いにあるあのギャラリーのオーナーもマスターさんの所有する不動産らしい。
道理でいつもお客さんがガラガラなのに、長く経営できる訳だ。正直なところ、ずっと不思議で仕方がなかった。こんなに美味しい料理ばかりを提供しているなら、毎日長者の列ができてもおかしくはない。
でも、マスターは利益よりもここに通うお客がゆっくり過ごせる環境を維持し続けることの方が大事だと言っていた。そのため、店には長年通い続ける常連客だけが足繁く通う喫茶店となった。それでも経営は赤字にならずに済んでいるというのだから、マスターはそれは素晴らしい経営手腕をお持ちなのだろうと思った。
「知り合いから新鮮な苺を貰ってね、良かったら食後のデザートにどうぞ」
「マスター、サンキュ」
「ありがとうございますっ」
マスターさんからのサービスで、私たちは大ぶりで瑞々しい苺を食後に頂いた。
「う~ん! 甘くて程良く酸味もあって美味しいっ。子どもの頃は練乳の甘さが好きで苺には練乳が欠かせなかったけど、苺本来の美味しさを知ってから、そのまま食べるのが一番美味しいって思えるようになったんだよねっ」
「おっ、それは俺も同感だ。やっぱり自然本来のものはそのままで食べるのが一番美味しいからな」
「うん、うん。そうだよね、何だか元気が出てきた気がする」
「お前、単純だな」
「いいじゃない、素直にそう思うんだから」
「――あぁ、そうだな」
青は目を細めて、柔らかな微笑みを浮かべた。その表情に、思わずドキリとしてしまった。慌てて、目の前のガラス小鉢に入っている残りの苺を立て続けに口へ放り込んだ。
「あぁ~、一気に食べちゃった……」
――美味しい苺だから、じっくり味わって食べようと思っていたのに、青があんな顔をするから、つい何も考えずに苺を食べちゃったじゃない……。
「澪は案外、食い意地が張ってるんだな」
「へっ?」
青は面白いものを見るような目つきで私を見ていた。私は急に恥ずかしくなり、顔の温度が上昇していくのが分かった。グラスに入った水を口へ流し入れ、片手を団扇のように顔を仰いでみるが、熱くなった顔の温度は下がってはくれなかった。
そんな様子を、青は歯を見せて笑っていた。
「ほら、俺の分もやるよ」
笑っていた青が自分の分の苺が入ったガラス小鉢をこちらへ寄せた。
「それは青のだから……」
「俺はもう十分味わったからいい、残りは澪が食べてくれ」
「そ、そう? 本当にいいの?」
「あぁ」
朝食後、私たちが初めて出会った、あの個展ギャラリーに行くことになった。この時、青から聞いて驚いたのだが、ギャラリーの売り場にいた綺麗なお姉さん――静さん――は青の実のお姉さんだった。静さんも青が住む別のフロアに住んでいる。
さらに驚いたのは、ギャラリーの上の階はアトリエに改造されていて、青が絵の制作をする場所としてオーナーであるマスターから借りているらしい。
「ねぇ、青の絵を見せてよ。お願いっ」
「嫌だと断っただろ。それに俺は製作途中の作品は誰にも見せないことにしている。悪いが、お前にも見せるつもりはない」
「じゃあ、今まで描いた絵ならいいでしょ?」
「そ、それは……」
「ねっ! この通りだから、お願いしますっ!」
「――はぁ、分かった。だけどガキの頃に描いた絵なら見せてもいい」
「ほんとっ? やったぁ~」
「そんなもんを見てどうするんだよ?」
「う~ん、だって知りたいじゃないっ。青がどんな絵を描いているのか、私、まだ観たことがないもの」
「…………」
――もうケチなんだから。確かに制作中の作品を見せてもらうのは無理かもしれないけど、すでに描き終わった絵なら見せてくれたっていいじゃないっ。まぁ、子どもの時に描いた絵でも、美大を出るくらいだから、きっと小さい頃から絵が上手なんだろうなぁ。
あっ、もし青の絵が、子どもが落書きしたような抽象的な絵だったらどうしよう……私の方から見せてと言っておいて、意味が分からない絵だったら何の感想も浮かばないかもしれない……。
う~ん、でも、きっと大丈夫だよね。だって龍青さんのファンってことは、青もきっと似たような繊細な絵を好んでいるはず。うん、きっと大丈夫……たぶん。
そんなことを考えているうちに、あっという間に青のマンションの前まで来ていた。
「青? アトリエで絵を見せてくれるんじゃなかったの?」
「は? ガキの頃に描いた絵をアトリエに置く訳がないだろ。家にあるんだよ」
「あぁ、そうか。それもそうだよね」
マンションのエレベーターに乗ると、青はフロアのボタンを押していた。エレベーターを降りると、そこはマンションの最上階、つまりペントハウスだった。
「えっ? ここってペントハウスなんじゃ……? ここに子どもの時に描いた絵があるの?」
「当たり前だろ、ここは俺のマンションだと言ったろ?」
「…………」
――俺のマンション……。俺が住んでいるマンション……、俺が所有しているマンションっ?
「嘘っ! このマンション全部が青の物ってこと?」
「――あぁ、そうだけど?」
「ちょ、ちょっと待って……やっぱり青って――」
「あー、ごちゃごちゃうるせぇーな。絵を見に来たんだろ? 止めるか?」
「や、止めないっ!」
「…………」
青は不機嫌な表情をするも、長い廊下をズンズンと歩いていく。突き当たりにある観音開きの扉の鍵をカードキーで解錠すると、片方の扉を開き、私を部屋の中へ招き入れた。
室内に入ると、広々とした部屋に黒のL字型ソファとガラステーブルだけが置かれている。質素な部屋だと思いながらも部屋の奥へ進むと、ソファの右隣に横へと広がる空間があった。そこにはカウンターキッチンとダイニングテーブルが置かれていた。
生活のための設備は整っているが、生活感のない空間に違和感のようなものを感じた。
青はソファに座って待っているよう私に声をかけると、キッチンの奥に続く廊下を1人歩いて行った。暫くしてから私を呼びに来た。
案内された奥の部屋には至る所に絵画が立てかけられていた。絵には白い布がかけられており、青が一つひとつの布を剥いでいくと、布に隠れていた絵画が姿を現した。
「わぁ、凄い……これ、全部、青が描いたの?」
「――あぁ……右がガキの頃に描いていた絵で、一番左が学生時代の絵だ。俺はあっちにいるから、好きに見てくれ」
「えっ、あ、うん、分かった……行っちゃった」
青は私が返事をし終える前に部屋をさっさと出て行ってしまった。まるでこの部屋から逃げるように……。
――青、どうしたんだろう。自分の絵を見られるのがそんなに嫌だったのかな? 私、無理を言い過ぎたかな……。まぁ、本当に嫌だったら、もう捨てたとか人にあげたとか理由を並べて断ることもできたはずだよね。せっかくだから、じっくり観させてもらおうかな。さて、まずは一番右の子どもの頃に描いていた絵から……!
「これ、本当に子どもが描いた絵なの?」
絵のことは詳しくないが、素人目で見ても子どもが描くには完成度の高い絵だった。一番手前にあった絵は風景画で、水彩絵具で描かれていた。スカイブルーやウルトラマリンブルー、レモンイエロー、淡いグリーンなど、全体的に明るく温かな印象の配色の絵だった。
その奥には家族をモデルにしたのだろうか、大人の女性や男性、女の子の肖像画が描かれていた。
――青のお母さんとお父さん、お姉さんがモデルかな? 何歳の時に描いた絵なんだろう? この女の子がお姉さんだとしたら、青は小学生位?
「嘘っ、大人並みの描写力じゃないっ。もしかして、青は天才……」
隣に立てかけられた絵はもう少し成長してから描かれた絵なのだろう。今見ていた平面のに描写された風景画とは違い、遠近法を巧みに活かし、海外の街並みが水彩絵具で描かれていた。その奥には港町や夜空を無数のランタンが昇る風景、アルプス山脈を思わせる山岳地帯の風景などの絵が立てかけられていた。
――凄い、建物の影や窓、遠くで作業している人、細部まで描かれた繊細な絵だ……。1つの絵を描くのにどれほどの時間がかかったんだろう? ここに描かれている人たちの表情は描かれていないけど、きっと皆幸せそうな笑顔をしていたんだろうな。
絵を見ているだけで、心が温まるような気がした。
――次は……ん? 布がかけられたまま? 青が布を取り忘れたのかな? それとも見られたくないから、そのままに? どうしよう、私が見てもいいのかな? う~ん、でも青は「好きに見ていい」って言ってたし、大丈夫だよね。
かけられた白い布をそっと取り払うと、そこに描かれていたのは微笑みを浮かべた少女の肖像だった。幼い頃に描いた家族の肖像画も素晴らしかったが、この少女の肖像画はさらに精密で、表現力が高く、写実性の高いものに感じた。
――制服姿の少女……モデルは高校生かな? ってことは、青の同級生? 幼馴染みとか? あぁ、もしかしたら彼女だったのかも。そっか、だから青は気恥ずかしくて布を取らなかったんだ。これはもしや、まだこの彼女に未練があったりして……。
制服姿の少女の肖像画の後には、私服姿の同じ少女の絵がいくつか並んでいた。どれも柔らかな微笑みを浮かべていて、全体的にやさしい雰囲気を感じた。恐らく、青が彼女に対して感じていた空気感そのものが絵に投影されているのだと思った。
「次は……確か、学生時代に描いた絵だっけ。えっ……これも、これも? どうして……」
一番左に置かれた絵はこれまでと大きく違った作品に見えた。これまでの絵は風景や人物画がほとんどだったが、学生時代に描かれたどの絵も抽象的すぎて、何をテーマに描かれたのかが全く分からなかった。まるで別人が描いた絵に見える。
――今まで見てきた絵はやさしくて温かい、そんな雰囲気が伝わってくる絵ばかりだった。きっと青も、この絵に描かれている人たちも幸せな時間を過ごしていたのだろうと自然に思えた。
それに比べて、学生時代の頃の絵は、正直何を描きたいのかが分からない。それに、今までの絵の配色は温かな色ばかりだった。でも、これはどの色にも黒が混じっているような、どんよりとした配色……。それに、何だろう、この違和感は……そうか、白がないんだ……。
絵は描いた人の想いやメッセージが込められているもの。だとしたら、学生時代の青はこんなにも暗く重苦しい時間を過ごしていたってこと? 一体、青に何が?
「全然違うだろ……ガキの頃に描いた絵と……」
「……! 青……」
部屋の入口を振り返ると、背中を廊下の壁にもたれかけて両腕を組み、こちらを見る青の姿があった。青の表情は酷く沈んでいる。声をかけるのも戸惑うくらいに――。




