第34話 同居人に勉強を教える距離は、思ったより近い
その日の夜、101号室のDKはいつもより少しだけ机らしかった。
いや、普段からテーブルはある。
あるのだが、そこに教科書とノートと赤ペンと消しゴムが並ぶと、急に“勉強する場所”の顔になる。麦茶のコップが二つ、脇へ寄せられているのも、その空気を少しだけ本気に見せていた。
「……」
「……」
向かい合わせに座って三分。
まだ何も始まっていない。
俺はシャーペンを指で転がしながら、真正面の朱音を見た。
朱音はノートを開いたまま、なぜかじっと教科書を見下ろしている。見下ろしているが、明らかに読んでいない。視線の焦点が少し甘い。つまり、こいつは今、勉強の内容より“これから人に教わる”という状況そのものに構えている。
「……で?」
俺が先に口を開いた。
「で、じゃない」
朱音がすぐ返す。
「何だ、その投げやりな始め方は」
「いや、だって」
「だって何だ」
「お前が“支援を要請する”って言ったんだろ」
「……」
「それで?」
「その言い回しを使うな」
「お前が使ったんだよ」
「今は使うな」
「面倒くさいな」
「お前が悪い」
言いながらも、朱音はノートを少しだけこちらへ寄せた。
その動作がもう、だいぶ素直だ。
「で、どこが分かんない?」
俺が聞くと、
「分からぬわけではない」
「はいはい」
「理解の精度に微差があるだけだ」
「それを普通は“分かんない”って言う」
「言わぬ」
「言うよ」
「言わぬ」
「じゃあテストで点取れるのか?」
「……」
「おい」
「……その質問は卑怯だ」
「卑怯じゃない」
「精神的にそうだ」
「そこはもう諦めろって」
朱音は不本意そうに唇を結んで、それから数学の問題集をこちらに向けた。
「ここだ」
「どれ」
「二次方程式の文章題」
「よりによって面倒なとこだな」
「何だ、その言い方は」
「いや、計算より文章の読み替えが面倒なんだよ」
「……」
「何だよ」
「それを最初に言われると、少し安心する」
「え?」
「計算力の不足ではなく、問題文の構造の話ならば」
朱音は少しだけ胸を張った。
「我の理解の方向性は、大きく誤っていない」
「いや、お前」
俺は思わず笑った。
「そこ守るんだ」
「守る」
「プライド高いな」
「当然だ」
「でもまあ、そういう考え方は嫌いじゃない」
「……」
「何だよ」
「そういうことを」
朱音は少しだけ視線を逸らした。
「勉強中に自然に言うな」
「またそれ?」
「まただ」
「もう口癖になってないか?」
「お前が原因だ」
「便利な言い訳」
「事実だ」
俺は問題集を引き寄せた。
「ここさ」
「うむ」
「まず数字に線引け」
「線?」
「条件」
「……」
「人が何人いて、何円で、何個で、とか」
「雑だな」
「最初は雑でいいんだって」
「そういうものか」
「そういうもの」
俺はシャーペンで問題文の上に印をつけた。
「で、この問題の登場人物は」
「店」
「そう」
「値段」
「そう」
「個数」
「うむ」
「ほら、もう整理できてきた」
「……」
「何だよ」
「それを最初から言え」
「いや、今言ってるだろ」
「もっと早く」
「無茶言うなよ」
朱音は少し黙ってから、小さく言った。
「お前」
「何」
「教えるときは、思ったより乱暴だな」
「どういう意味だよ」
「もっと、こう」
「こう?」
「“まず深呼吸しろ”とか、“大丈夫だ、順を追えば分かる”とか」
「何その家庭教師イメージ」
「あるだろう」
「いや、ないわけじゃないけど」
「だが、お前は」
「うん」
「いきなり問題を解体する」
「その方が早いから」
「雑だ」
「でも分かりやすいだろ?」
「……」
「何その間」
「……悔しいが、分かりやすい」
「ほら」
「だから、その勝ち誇った顔をするな」
「してないって」
「している」
「お前、ほんと顔の判定厳しいよな」
「最近、精度が上がった」
「嫌な進化だなあ」
しばらくして、朱音が自分で式を立て始めた。
最初は遅い。
だが、一度方向が見えると、こいつはそこそこ早い。途中の計算も雑ではないし、考え方そのものはちゃんとしている。ただ、最初の入口で変に構えすぎるのだろう。
「ここ、引くのか足すのか迷う」
朱音が言う。
「何で?」
「何で、とは何だ」
「いや、どこで」
「この式変形の箇所だ」
「ああ」
俺は身を乗り出してノートを覗き込んだ。
「それは」
「……」
「何だよ」
「近い」
「は?」
「顔」
「いや、教えるなら見るだろ」
「……そうだが」
「じゃあ何だよ」
「……分かっていても、近いものは近い」
「今さら?」
「今さらだ」
「お前なあ」
俺は苦笑して、ノートの端を指で示した。
「ここ、この数字を移項してるだろ」
「うむ」
「だから符号変わる」
「……あ」
「そういう顔するとき、ちゃんと一年生っぽいな」
「何だその評価は」
「いや、分かったって顔」
「それを年齢に結びつけるな」
「でも今の“あ”はだいぶ素だったぞ」
「……うるさい」
「はいはい」
ノートとノートの間の距離が近い。
俺が身を寄せると、朱音の肩がほんの少しだけこわばるのが分かる。
たぶん本人はそれを隠しているつもりだろう。
でも、最近はそういう小さい変化もわりと見えるようになってきた。
「じゃあ次」
俺が言うと、
「待て」
と朱音。
「何だよ」
「一問解けた直後に、間を与えず次へ進むな」
「え?」
「理解の余韻が必要だ」
「何だその言い方」
「必要だ」
「お前ほんと表現独特だな」
「だが正確だ」
「便利ワード」
「お前、今夜それ何回目だ」
「分かんない」
「数えろ」
「嫌だよ」
でも、その“余韻が必要”はちょっと分かる気もした。
朱音は一つずつ納得しながら進みたいのだろう。
勢いで解いていくタイプじゃない。
そのぶん、一度落ち着いて掴めると、ちゃんと自分の形にする。
「じゃあ」
俺は少しだけ椅子にもたれた。
「今の問題、自分の言葉で説明してみ」
「何?」
「理解の確認」
「……」
「何その顔」
「お前、教え方が妙に教師寄りだな」
「そうか?」
「そうだ」
「でも、人に説明できるなら分かってるってことだろ」
「……なるほど」
「ほら」
「その“ほら”が腹立つ」
朱音は不服そうな顔をしつつも、さっきの問題の流れを言葉にし始めた。
途中で少し詰まり、言い直し、また続ける。
その“言い淀みながらも自分で組み立てようとする感じ”が、何というか、いつもの強気な口調と少しだけずれていて、妙に可愛かった。
「……何だ」
突然、朱音が言う。
「何」
「今、笑った」
「笑ってない」
「笑っていた」
「ちょっとだけ」
「理由を言え」
「いや」
俺は少し言葉を選ぶ。
「頑張ってんなって」
「……」
「何だよ」
「そういうのを」
朱音は耳を少し赤くした。
「今、言うな」
「何でだよ」
「集中が乱れる」
「お前、褒めるとだめなタイプか」
「だめではない」
「じゃあ何」
「……効きすぎる」
「うわ」
「うわ、とは何だ」
「いや、そこまで言うんだなって」
「お前が聞いた」
「そうだけど」
「なら責任を取れ」
「どうやって」
「静かにしろ」
「急に無茶言うな」
そこへ、ぴんぽーん、とチャイムが鳴った。
「うわ」
「何だ」
「いや、タイミング」
「敵襲か」
「もうその言い方やめろって」
玄関を開けると、そこにはひなたが立っていた。
「こんばんは」
と、妙に楽しそうな顔で言う。
「お前、その顔、絶対何か分かってるだろ」
「え?」
「え、じゃない」
「ちょっと飲み物借りようかなと思っただけですよ」
「104にないのか」
「切らしました」
「そこは分かった」
「で?」
「で、って何だ」
「中、勉強してます?」
ひなたが、玄関の向こうをのぞき込む。
「……」
「図星ですね」
「お前ほんと顔で判断しすぎだろ」
「だって分かりやすいんですもん」
背後から朱音の声が飛ぶ。
「ひなた」
「はい」
「入るな」
「まだ入ってません」
「入ろうとしていた」
「それは少しだけ」
「少しだけでもだ」
「鬼塚さん、今日ガード固いですね」
「当然だ」
「何でです?」
「勉学中だからだ」
「うわ、理由はちゃんとしてる」
「いつもちゃんとしている」
ひなたは麦茶のボトルだけ受け取って帰るかと思ったのに、なぜかそのまま玄関の枠にもたれて、にこにこしながら言った。
「先輩たち、またすごく夫婦っぽいことしてますね」
「……」
「……」
俺と朱音の動きが、きれいに止まった。
「何でそうなる」
俺がようやく言うと、
「だって」
ひなたは悪びれもなく続ける。
「同じ机で勉強教えて、ノート覗き込んで、片方がすぐ赤くなってるんですよ」
「赤くはなっていない!」
と、朱音。
「なってますよ」
「なっていない」
「なってるって」
俺が言うと、
「お前は黙れ!」
「何でだよ」
「余計な証言を加えるな」
「いや事実だし」
「事実にするな」
「無茶だな」
ひなたが肩を揺らして笑う。
「でも、勉強教えるのって距離近いですよね」
「……」
「学校じゃできない感じあるじゃないですか」
「……」
「先輩、今ちょっとどきっとしました?」
「してない」
「してる顔です」
「お前ほんとそればっかだな」
「だって楽しいので」
朱音は完全に不機嫌そうな顔になったが、それでもひなたを追い返すところまではいかなかった。
「で」
ひなたが俺を見た。
「鬼塚さん、どうです? 先輩、教えるの上手いですか?」
「……」
朱音は少しだけ黙った。
「何だよ」
俺が聞くと、
「……雑だ」
「ひどいな」
「だが」
「だが?」
「分かりやすい」
「お」
「何その顔だ」
「いや、ちゃんと褒めるんだなって」
「褒めてはいない」
「褒めてるだろ」
「……評価だ」
「便利ワード」
「お前たちは本当にそれが好きだな」
ひなたが満足そうにうなずいた。
「なるほど」
「何がだよ」
「鬼塚さん、ちゃんと頼ってるんですね」
「……」
「それを」
朱音が低く言う。
「そういうふうにまとめるな」
「でも違わないですよね?」
「……」
「はい」
と、ひなたは自分で結論を出した。
「じゃあ僕は戻ります。邪魔すると怒られそうなので」
「最初からそのつもりなら来るな」
「飲み物必要だったのは本当です」
「そこは信じる」
「ありがとうございます」
ひなたが去ったあと、101号室のDKには少しだけ気まずい静けさが残った。
「……」
「……」
俺が問題集へ視線を戻すと、朱音がぽつりと言った。
「お前」
「何」
「教えるのが上手いかどうかは、知らぬ」
「うん」
「だが」
「うん」
「お前に教わると、理解は進む」
「……」
「何その顔」
「いや」
俺は少し笑った。
「ちゃんと頼ってんじゃん」
「……」
「お前?」
「……勉強の話だ」
「分かってるよ」
「なら、それ以上広げるな」
「はいはい」
「その返事をやめろ」
「今日は多いな、それ」
でも、その言い方には、前よりちゃんとした素直さがあった。
同居人に勉強を教える距離は、思ったより近い。
ノートを覗き込む距離。
シャーペンの先を指で示す距離。
答えを確認して、少しだけ息を抜く距離。
その全部が、学校ではたぶんできない近さだった。




