第33話 五月の教室は、恋より先にテストの話を持ってくる
五月の教室は、春の続きをやるには少しだけ現実的すぎる。
窓の外の光はもう、四月のやわらかさより一段強い。風はまだ気持ちいいのに、先生たちの口から出てくる単語だけが急にかわいくなくなる。
提出物。
範囲表。
確認テスト。
中間試験。
恋だの距離感だのを考えるには、ちょっと現実が前に出すぎる季節だ。
「はい、ここ出るからなー。ノート取れよー」
一時間目の数学の教師が、黒板の右端に式を書き足す。
教室のあちこちで、シャーペンの走る音が少しだけ強くなる。寝ていたやつが顔を上げて、諦めたみたいにノートを開く。
俺も仕方なく書き写しながら、小さく息を吐いた。
中間試験。
まだ少し先だと思っていたのに、連休が終わると急に距離が縮む。
しかも今年は、去年より少しだけ“ちゃんとしなきゃ”感が強い。二年になったせいか、先生たちも妙に「ここから大事」みたいな顔をし始めるのだ。
右隣で、依子が静かにノートを取っている。
相変わらず、字がきれいだ。
余白の取り方も、見出しの付け方も、たぶん性格がそのまま出てる。必要以上に飾らないのに、読み返しやすい。そういうノートだ。
ふと、依子がこっちを見た。
「今、ちょっと遠くなった」
小声でそう言う。
「何が」
俺も小さく返す。
「意識」
「授業中だぞ」
「だから小声」
「そういう話じゃなくて」
「だって」
依子は前を向いたまま、口元だけ少し動かした。
「中間のこと考えてたでしょ」
「……」
「当たり?」
「当たりだけど」
「やっぱり」
「顔で分かるのか」
「少し」
「その“少し”ほんと万能だな」
「便利だから」
「それ、最近みんな使いすぎなんだよ」
依子はわずかに笑った。
授業が終わる。
教室の空気が一瞬でほどける。椅子の音、伸びをする音、トイレへ立つやつ、次の授業のノートを探して鞄をあさるやつ。そういう平日のざわめきが戻ってくる。
そこへ、大友が後ろから机を小突いた。
「なあ」
「何」
「現実来たな」
「何が」
「中間」
「ああ」
「恋とかラブコメとか言ってる場合じゃないやつ」
「お前が言うと腹立つな」
「でもマジだろ」
「それはそう」
俺が認めると、大友はうなずいた。
「鬼塚さんはどうなん?」
「何が」
「勉強」
「知らん」
「知らんはずないだろ。同居人だぞ」
「そこ、だいぶ便利に使うよなお前」
「だって強カードじゃん」
「カード扱いすんな」
そのとき、依子が自然に口を挟んだ。
「鬼塚さん、一年だし、最初の中間ちょっと大変そう」
「だろうな」
俺が言うと、
「家では普通の顔してても、学校だとまだ緊張してそうだし」
「……」
「何?」
依子がこっちを見る。
「いや、お前ほんとよく見てるな」
「見てるよ」
「自信満々に言うな」
「だって、隣だし」
「そのワード、学校で使うと意味合い変わるんだよな」
「でも本当だよ」
「まあそうだけど」
大友がにやにやしている。
「なあ」
「何だよ」
「お前らさ」
「うん」
「普通に会話してるけど、周りから見たらだいぶ“そういう感じ”だからな」
「朝からうるさいな」
「朝じゃねえよ、もう二時間目後だよ」
「細かいな」
「細かくもなるだろ。だってお前、完全に白沢さんとの会話のテンポできてるし」
「……」
それを言われると、少しだけ言い返しにくい。
依子との会話は、最近たしかに変わった。
最初の頃より、間の取り方も、返し方も、互いに少しだけ慣れてきている。
それが良いことなのかどうかはともかく、変わったのは事実だ。
「そういえば」
大友が思い出したみたいに言った。
「一年って今度テスト範囲説明あるんじゃね?」
「たぶん」
「じゃあ鬼塚さん、今日ちょっと遅いかもな」
「……」
その一言に、俺は少しだけ意識がそっちへ向いた。
朱音はたしかに、平気そうな顔をする。
でも“平気そうな顔をしていること”自体が、平気じゃない証拠のときもある。
四時間目まで終わって、昼休み。
弁当箱を開く。
今日の中身は、卵焼き、ウインナー、少し濃いめの味付けのきんぴら。朱音作だ。ここ最近、弁当の安定感が完全に一段上がっている。見た目もだいぶまともになったし、味の濃さもちゃんと朝向けと昼向けで調整している感じがある。
「今日も鬼塚さん?」
と、依子。
「うん」
「すごいね」
「最近それしか言わないな」
「だって本当にすごいから」
依子は少しだけ目を細めた。
「毎日続けるの、簡単じゃないよ」
「……」
「何」
「いや」
俺は箸を持ったまま言った。
「お前、それわりと本気で言ってるんだなって」
「本気だよ」
「張り合う感じじゃなく?」
「それも少しはあるかも」
「あるんかい」
「でも、基本は本気」
「……」
「何その顔」
「いや」
俺はちょっと苦笑した。
「お前って、朱音のこと敵視してるだけじゃないんだな」
「してたら、そんなに見ないよ」
「いや、それもそれで怖いんだって」
「ひどい」
依子は笑ったが、その笑い方はやわらかかった。
「鬼塚さんって」
依子は小さく続けた。
「たぶん、家では頑張って普通にしてるけど」
「うん」
「学校ではまだ少し疲れてるよね」
「……」
「それを家で戻してる感じ」
「……」
「だから」
「だから?」
「その“家”に恒一くんがいるの、やっぱり大きいんだろうなって思う」
「……」
そういうことを、依子は今はかなり自然に言う。
遠回しにせず、でも押しつけがましくもなく、ただ事実みたいに置いていく。
そこが、この人の強さなんだろう。
放課後。
今日は本当に、大友の言った通り朱音の方が遅かった。
一年の校舎側で範囲説明だか何だかがあったらしく、一階組の帰宅タイミングがずれる。ひなたは先に帰るとメッセージだけ入れてきたし、大友は「俺はコンビニで糖分買ってから帰る」とか言って消えた。
残ったのは、俺と依子だ。
校門を出て、住宅街を歩く。
空はまだ明るい。五月の夕方は、少しだけ一日を長く見せる。
「鬼塚さん、遅いね」
依子が言う。
「そうだな」
「ちょっと疲れてるかも」
「かもな」
「迎えに行く?」
「一年校舎まで?」
「うん」
「それはだいぶやりすぎだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも」
依子は少し考えるように視線を落とした。
「鬼塚さん、たぶん“平気”って言うでしょ」
「言うな」
「でも、本当に平気とは限らない」
「……」
「そういうとき、どうするのが正解なんだろうね」
その問い方には、朱音のことだけじゃなく、自分の立ち位置も含まれている気がした。
「難しいな」
俺が言うと、
「うん」
依子は小さくうなずく。
「近すぎると嫌がるかもしれないし、離れすぎると気づけないし」
「お前、そういうのちゃんと考えてるんだ」
「考えるよ」
「……」
「何」
「いや」
俺は少し笑った。
「お前って、静かに強いよな」
「またそういうこと言う」
「本当だし」
「……」
依子が少しだけ目を細める。
「そういうの、たまにずるい」
「何で」
「こっちがちょっと嬉しくなるから」
「それは」
俺は言葉に詰まる。
「……困る」
「うん」
「分かってる」
「分かっててやるなよ」
「だって、今日はちょっとそういう日だし」
「どういう日だよ」
「連休明けで、現実が前に来てる日」
「理由になってないだろ」
「少しはなるよ」
ハイツ水戸黄門が見えてきたところで、ちょうど一階の廊下に人影が見えた。
朱音だった。
制服のまま、鞄を持って、玄関の鍵を開けようとしているところ。
こっちに気づいて、少しだけ動きが止まる。
「お」
俺が言うと、
「……」
朱音はほんの一瞬だけ無言で、それからいつもの調子を取り戻すように言った。
「遅い」
「お前もだろ」
「我は学校側の都合だ」
「こっちも普通に帰ってきただけだよ」
「そうか」
近づくと、やっぱり少しだけ疲れて見えた。
目元に力はあるけど、肩のあたりにわずかな重さが残っている感じだ。
「おかえり」
依子が言う。
「……うむ」
朱音が短く返す。
「試験範囲?」
「それだ」
「大変そう」
「面倒だ」
「うん」
依子はやわらかく笑った。
「だと思った」
「何だその言い方は」
「鬼塚さん、勉強嫌いじゃないけど、“学校側に管理される感じ”は嫌そうだし」
「……」
「当たった?」
「……否定はせぬ」
「ほら」
と、依子が少し笑う。
それを見て、俺はほんの少しだけ驚いた。
依子が言っていることは、かなり正確だった。
そして朱音も、それを前みたいに全部は否定しない。
最近のこの二人、前よりずっと“分かった上で会話している”感じがある。
「何だ」
朱音が俺を見る。
「何でもない」
「その顔は何かある」
「いや、お前ら、最近ちょっと普通に会話するようになったなって」
「……」
「別に」
と、朱音。
「鬼塚さんのこと、前より分かるからじゃない?」
依子が言う。
「……」
「うわ」
俺は思わず言った。
「それ、だいぶ言うな」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあ、いいでしょ」
「そこ押し切るの強いんだよ」
101号室へ入る。
朱音は鞄を置いて、すぐにカーディガンを脱いだ。明らかに少し疲れているが、動き自体はちゃんとしている。
「何か飲む?」
俺が聞くと、
「麦茶」
と、朱音。
「冷たい方がよい」
「珍しいな」
「頭が熱い」
「それ、試験範囲のせい?」
「それだ」
「素直だな」
「面倒だからだ」
「便利ワード多いな今日」
「お前がうるさい」
依子は、玄関のところで少し迷ってから言った。
「じゃあ、私は戻るね」
「うん」
と、俺。
「鬼塚さん」
「何だ」
「困ったら、ノート見せるよ」
「……」
「教科はたぶん、少しなら重なるし」
「……」
朱音は少しだけ視線を上げた。
「借りるとは言っていない」
「うん」
「だが」
「うん」
「選択肢としては、覚えておく」
「そっか」
依子はそれで十分みたいに笑った。
「じゃあ、また後で」
「後でって」
俺が言うと、
「隣だし」
「便利ワード」
「便利だから」
102号室のドアが閉まる。
101号室の中には、俺と朱音だけが残る。
でも、さっきまで依子がいた気配はちゃんと残っている。
麦茶をコップに注いで渡すと、朱音はそれを一口飲んでから、少しだけ息を吐いた。
「……」
「何」
俺が聞く。
「お前」
「何だよ」
「今日、隣室と何を話していた」
「直球だな」
「今さら隠しても仕方あるまい」
「まあ、そうだけど」
「で」
「中間の話」
「それだけか」
「それだけっていうか」
俺は少しだけ言葉を選ぶ。
「お前のことも少し」
「……」
「何だよ」
「またか」
「まただ」
「……」
「嫌か?」
「嫌とは言わぬ」
「そこは否定しないんだな」
「だが」
朱音は少しだけコップを見た。
「お前たちが学校の中で積み上げているものと」
「うん」
「我がこの部屋で積み上げているものが」
「うん」
「別の種類だというのは、最近少し分かる」
「……」
「何だ、その顔は」
「いや」
俺は静かに言った。
「お前、ちゃんと分かってるんだなって」
「分かる」
「それで?」
「それで、面倒だ」
「やっぱりそれか」
「だが」
「だが?」
「それぞれ違うからこそ、余計に比べにくい」
「……」
「だから」
朱音は少しだけ目を伏せた。
「単純に“家にいる方が強い”で済まぬのも、分かる」
「……」
そこまで言えるようになったのか。
俺は少しだけ驚いて、それから妙に嬉しくなった。
嬉しい、というのも変な話だが、こいつがここまで整理して言えるようになったこと自体に、何か小さな前進みたいなものを感じたのだ。
「何だ」
朱音が聞く。
「いや」
「何だ」
「お前、ほんと変わったな」
「変わってはいない」
「いや、変わったよ」
「どこがだ」
「前よりちゃんと、言うようになった」
「……」
「それ、結構すごいことだと思う」
「……」
「何その顔」
「そういうことを」
朱音は少しだけ頬を赤くした。
「平然と返すな」
「平然じゃないって」
「見える」
「じゃあ、ちゃんと嬉しいって言えばいい?」
「言うな」
「何でだよ」
「調子が狂う」
「またそれか」
「まただ」
窓の外では、五月の夕方がだんだん濃くなっていく。
学校の現実は来た。中間試験も来る。平日はまた平日として続く。
それでも、この部屋の中には、連休のあとに残ったものがちゃんとある。
五月の教室は、恋より先にテストの話を持ってくる。
でも、だからといって、日常の中にできてしまったこの距離感が消えるわけじゃない。




