第35話 隣の席の子は、ノートを貸すふりで距離を詰める
中間試験前の教室には、独特の静けさがある。
うるさくないわけじゃない。
むしろ人はいつも通りいるし、雑談だってある。誰かがシャーペンを落とせば振り向くし、前の席のやつは相変わらず無駄口を叩くし、大友は大友で「人生でいちばん勉強したくない季節来た」とか意味の分からないことを言っている。
でも、その全部の下に、ちゃんと“試験が近い”という空気が敷かれている。
放課後の教室もそうだ。
窓の外はまだ明るい。五月の光は夕方になっても簡単には弱らない。だけど教室の中には、残って勉強するやつ、質問をしに行くやつ、先生にプリントをもらうやつが、いつもより少し多い。
俺も今日は、その“少し多い側”だった。
席に座ったまま、数学のノートを広げる。
教科書の端には小さく付箋。問題集は開いたまま。だが、正直言えば進みはあまり良くない。
「……」
「分かんなそう」
右隣から静かな声がした。
顔を上げると、依子がこっちを見ていた。
もう放課後だから、教室の空気は昼間よりだいぶやわらかい。けれど、それでもここは学校だ。その学校の中で、依子は相変わらず穏やかで、少しだけ距離を測りながら話す。
「分かんなくはない」
俺が言うと、
「その返しのとき、だいたい分かってないよね」
と依子。
「ひどいな」
「でも当たってる」
「……まあ」
「ほら」
「その“ほら”最近ほんと好きだな」
「好きかも」
「そこは認めるんだ」
「うん」
依子は自分のノートを閉じて、少しだけこっちへ向けた。
「見る?」
「何を」
「ノート」
「……」
「数学」
「……」
「今、すごく見たい顔した」
「してない」
「してる」
「お前たちほんと顔見すぎだろ」
「だって出るんだもん」
「その“だもん”たまに出すのやめろ」
「なんで?」
「調子狂う」
「じゃあ、たまに出す」
「改善されてないな」
依子のノートは、相変わらずきれいだった。
見出し、色分け、矢印、途中式。
全部が整理されていて、“自分で理解するためのノート”というより、“あとで誰かに見せても困らないノート”みたいに見える。
「……これ、最初から人に見せる前提で作ってるだろ」
俺が言うと、
「半分くらいは」
と依子。
「やっぱりか」
「だって、自分でも見返しやすいし」
「うん」
「たまに、誰かの役にも立つし」
「……」
「何その顔」
「いや」
俺は少しだけ依子を見る。
「お前、それ、わりと強いな」
「何が?」
「“役に立つ”って形で、自然に隣にいるとこ」
「……」
依子はほんの少しだけ目を細めた。
「そう見える?」
「見える」
「じゃあ、少しは成功してるのかも」
「認めるんだ」
「認めるよ」
「お前最近、そこ隠さなくなったな」
「隠してもしょうがないし」
「怖いな」
「また怖いって言った」
「だってそうだろ」
依子は笑ったが、その笑い方は少しだけやわらかかった。
「でも」
依子は静かに続ける。
「鬼塚さんにはできない近さも、あるよ」
「……」
その言葉が、妙にまっすぐ耳に入る。
「何だよ、急に」
「急じゃないよ」
「いや、急だろ」
「だって本当だし」
「そのカード便利すぎるな」
「だって便利だから」
依子は、ノートの一ページを開いたまま指先で押さえていた。
「鬼塚さんは」
「うん」
「家の中で、生活の流れの中で自然に近い」
「……」
「それは、私にはない」
「……」
「でも」
依子は少しだけ首を傾ける。
「学校の中で、こうやって隣に座って、ノートを見せたり、分からないところを拾ったりするのは」
「……」
「たぶん、私の方が自然」
「……」
正直、それはかなり当たっていた。
朱音に勉強を教えるときは、距離が近い。
でもそれは“家の中だから成立する近さ”でもある。
一方で、依子のノートを横から見せてもらう距離は、ちゃんと学校の中の距離だ。
教室の明るさ、周りの声、机の並び。そういうものの中で自然に成立している。
種類が違う。
そして違うからこそ、比べにくい。
「なあ」
俺が言う。
「何?」
「お前、そういうの分かった上で言ってる?」
「うん」
「やっぱりか」
「だって、気づいてほしいし」
「……」
「何その顔」
「いや」
俺は少しだけため息をついた。
「最近ほんと、“気づいてほしい”をちゃんと口にするな」
「前よりは」
「前は?」
「もう少し黙ってた」
「そうだろうな」
「でも」
依子は少しだけ視線を落として、それからすぐ戻した。
「黙ってるだけだと、鬼塚さんの方が強いから」
「……」
「家の中の流れって、やっぱり大きいでしょ」
「うん」
「だから私は、学校の中でちゃんと意味を持ちたい」
「……」
「隣の席で、っていうのも、その一つ」
言葉が、静かなのに逃げ場をくれない。
俺が返事に困っていると、背後から椅子を引く音がした。
「うわー」
と、大友。
「何だよ」
「いやあ、今の会話、だいぶ“学校の白沢さん強い”って感じだったな」
「いつからいた」
「最初から」
「最悪だな」
「いやでもマジだろ」
大友は俺の机に肘をついた。
「鬼塚さんが家なら、白沢さんは学校じゃん」
「雑にまとめるな」
「でも合ってる」
依子が小さく言った。
「お前も認めるんだ」
「だって本当だし」
「またそれ」
「便利でしょ」
「開き直りがすごいな」
大友は面白そうに依子のノートを覗いた。
「うわ、やっぱきれい」
「見るなら一言言え」
「いやごめん」
「見せる前提で作ってるらしいぞ」
俺が言うと、
「え」
大友がすぐ依子を見る。
「マジ?」
「半分くらい」
「強」
「でも、それって普通じゃない?」
依子は不思議そうに言った。
「ノートって、自分が理解するためでもあるけど」
「うん」
「見返したり、誰かに見せたりすることもあるし」
「……」
「だから、きれいな方がいい」
「その理屈は正しい」
と、大友。
「正しいけど、その正しさでじわじわ距離詰めてくのが強いって話」
「詰めてるつもりはあるよ」
「認めるんかい」
「だって」
依子は少しだけ笑った。
「隣なんだし、使わないともったいないでしょ」
「その“隣”の意味が重いんだよなあ」
俺が言うと、
「そう?」
「そうだよ」
「でも、恒一くんだって、鬼塚さんには家の中でそうしてるじゃん」
「……」
「生活の流れの中で、自然に教えたり、手伝ったり」
「……」
「それと同じだよ」
「同じじゃないだろ」
「違う?」
「種類が」
俺は少し考えてから言う。
「違う」
「……」
「お」
大友がすぐ反応する。
「そこ、ちゃんと区別すんだ」
「いや、実際違うだろ」
「どう違うの?」
依子が静かに聞く。
その問い方が、ちょっとずるい。
「どう、って」
「うん」
「家の中は、もっとこう」
「こう?」
「生活そのものっていうか」
「うん」
「学校は、今ここで隣だからって感じで」
「うん」
「……」
「それで?」
「……だから、違う」
「……」
依子は少しだけ目を細めて、それから小さく笑った。
「じゃあ」
「何」
「やっぱり、私の方にしかできない近さもあるってことだね」
「……」
「お前、結論だけ取りにくるな」
「だって今、自分で言ったよ」
「言ったけど」
「じゃあ、うれしい」
「そこで素直になるのか」
「なるよ」
「怖いな」
「また言った」
「だってそうだろ」
そのとき、教室の後ろのドアからひなたが顔を出した。
「失礼します」
「お前も来るのかよ」
「先輩、ノート借りにきました」
「誰の」
「白沢さんのです」
「何でだよ」
「数学のまとめがきれいで」
「……」
ひなたは依子のノートを見て、素直に感心した顔になる。
「やっぱりすごい」
「ありがとう」
「これ、見やすいですね」
「でしょ」
と大友が勝手に答える。
「お前が言うな」
ひなたは俺の顔と依子のノートを交互に見て、それからにこっと笑った。
「なるほど」
「何が」
俺が聞くと、
「白沢さん、こういうところなんですね」
「こういうところ?」
「学校での強さ、というか」
「……」
「鬼塚さんは家の中の空気を取るじゃないですか」
「お前もその言い方するのか」
「分かりやすいので」
ひなたは悪びれずに続けた。
「白沢さんは、学校の中で“自然にいる理由”をちゃんと作るんですね」
「……」
「お前」
俺は小さく言った。
「時々ほんとに本質だけ抜くな」
「えへへ」
「褒めてないぞ」
「分かってます」
依子は、その言い方に少しだけ照れたような、でも否定しきらない顔をした。
「まあ」
依子が小さく言う。
「そういうのも、少しはあるかも」
「少しじゃないだろ」
大友がすぐ言う。
「だいぶだろ」
「だいぶかな」
「だいぶだよ」
俺も思わず言うと、依子は少しだけ嬉しそうにこっちを見た。
「じゃあ、ちゃんと届いてるんだね」
「そこを喜ぶな」
「喜ぶよ」
「何で」
「だって、やってることが見えてるなら、意味あるでしょ」
「……」
依子は静かにノートを閉じた。
「鬼塚さんにはできない近さも、ある」
もう一度、小さく言う。
「だから、そこは私の方でちゃんと取る」
教室の空気は相変わらず平日だった。
試験前のざわつき、シャーペンの音、誰かのため息、先生に呼ばれる声。
その全部の中で、依子の言葉だけが妙に近かった。
隣の席の子は、ノートを貸すふりで距離を詰める。
しかも、それを“ふり”だけで終わらせないところが、たぶんいちばん強い。




