第31話 ただの一人暮らしには、もう戻れない
連休が明けた最初の月曜日は、目覚ましの音がやけに現実的に聞こえる。
休日の朝にも早起きはしていた。
朱音が動く音で目が覚めることもあったし、だらだら会の余韻で妙に早く起きてしまう日もあった。だから、朝に弱くなったわけではない。
でも、休み明けの目覚ましだけは別だ。
あの音には、「ほら、また日常が始まるぞ」という、まったく親切じゃない現実確認の響きがある。
ぴぴぴ、と鳴る音を止めて、俺はしばらく布団の中で天井を見ていた。
窓の外はもう明るい。
春の朝というより、初夏に片足をかけた光だ。けれど、布団の中から出るには少しだけ勇気が要る。その微妙さがまた、連休明けらしい。
「恒一」
と、手前の部屋から声が飛んできた。
「止めただけで満足するな」
「起きてる」
「なら出てこい」
「はいはい」
このやり取りが再開したことに、少しだけ笑いそうになる。
結局、休みが終わったからといって、全部が切り替わるわけじゃない。
学校は始まる。
でも101号室の朝は、連休の前から続いている形のままだ。
引き戸を開けてDKへ出ると、朱音がちょうど味噌汁をよそっていた。
制服姿。
髪はいつもより少しだけきっちりしている。
休み明けだからか、本人もそれなりに気を張っているらしい。
「おはよう」
俺が言うと、
「遅い」
と、返ってくる。
「結局それで始めるんだな」
「何だ」
「いや、休み明けだからもう少し優しいかと」
「甘えるな」
「期待した俺が悪かった」
「その通りだ」
だが、声の調子はそこまできつくない。
むしろ少しだけ、いつも通りであることを確認するためのやり取りみたいにも聞こえる。
椅子に座る。
テーブルの上には二人分の朝食。
味噌汁、焼いた卵、昨日の残りのきんぴら。地味だがちゃんとしている。連休中より少しだけ平日仕様だ。
「学校だな」
と、俺が言うと、
「学校だ」
と、朱音。
それだけで会話が終わる。
でも、その短いやり取りの中に、面倒さと諦めと、少しだけ似た安心が混ざっている。
「お前」
朱音が味噌汁の椀を持ちながら言った。
「何だ」
「連休明けで顔が死んでいる」
「ひどいな」
「事実だ」
「便利ワード」
「だが、お前ほどではない」
「誰のことだよ」
「お前だ」
「会話が雑だな」
「朝はこういうものだ」
「その理屈も便利だな」
食事をしながら、俺は何となく窓の外を見た。
ベランダには、昨日取り込んだ洗濯物がもうない。
休日のあいだ、何度も見た光景なのに、平日の朝の窓はまた少し違って見える。
連休は終わった。
でも、その連休の中で生まれた空気までは消えていない。
それどころか、今朝の101号室にはむしろ、連休前よりちゃんと“二人分の生活”が定着している感じがあった。
「何だ」
朱音が言う。
「何が」
「また変な顔をしている」
「変な顔ばっか言うなよ」
「変だからだ」
「最近ほんとみんな顔で判断するな」
「みんな?」
「……」
「何だ」
「いや」
俺は少し肩をすくめた。
「依子とか」
「……」
その名前が出ると、朱音は一瞬だけ箸を止めた。
でも、前より露骨には反応しない。
「何だ」
今度は俺が聞く。
「別に」
「別にじゃないだろ」
「……」
「何だよ」
「休みの間、あれだけ毎日話題に出たのだ」
朱音は少しだけ視線を逸らした。
「今さら一回名を出した程度で、いちいち荒れてはおれぬ」
「荒れる前提なんだな」
「お前はそういうことばかり拾う」
「拾いやすいんだよ」
それでも、その返し方は少しだけ変わった。
前の朱音なら、もっと露骨に刺していたと思う。
今は、刺すより先に一度飲み込んでいる。そのぶん、ちゃんと“知ってる上で話している”感じがある。
学校へ向かう支度をして、二人で玄関を出る。
廊下にはすでに一階の生活音が戻っていた。
103号室のドアが開く。大友のあくび混じりの声。104号室からひなたの「おはようございます」が飛ぶ。階段の上では、たぶん理沙さんが出かける準備をしている気配。
そして102号室の扉も開く。
「おはよう」
依子が、いつも通りの落ち着いた声で言った。
「おはよう」
俺が返す。
「おはようございます」
ひなた。
「おはよー」
大友。
「……うむ」
と、朱音。
休み明けの朝に、一階の四人が同じタイミングで外へ出る。
これももう、最近ではそんなに珍しくない。
「なんか、もう完全に日常戻った感じですね」
ひなたが言う。
「だな」
俺がうなずくと、
「戻った、というより」
依子が少しだけ笑った。
「連休の続きが、平日に重なった感じかも」
「……」
その言い方は、妙にしっくりきた。
たしかにそうだ。
休みが終わったからって、全部がゼロに戻るわけじゃない。
連休中に近づいた距離や、できてしまった空気や、自然になってしまった立ち位置は、そのまま平日の朝へ持ち込まれている。
「お前、たまにすごいちゃんと言うよな」
俺が言うと、
「たまに、って何」
依子は苦笑する。
「そこは雑だな」
大友が言う。
「でも分かる」
「お前まで乗るな」
学校へ向かう道すがら、依子は昨日までと変わらず少しだけ俺の隣にいる。
朱音はその少し前を歩きながら、時々こちらを気にしている。
ひなたはその空気を見て楽しそうだし、大友は最初からずっと楽しそうだ。
この構図も、連休前ならもう少しぎこちなかった気がする。
学校へ着けば、当然ながら一日が始まる。
ホームルーム、授業、ノート、眠気。
いつもの学校だ。
でも、教室の席についても、俺の中に“帰った先”のイメージが前より明確にあることに気づく。
101号室。
手前の部屋。
DK。
帰れば何かしらの気配がある場所。
昼休み、大友が机に肘をついて言った。
「なあ」
「何」
「お前、やっぱ連休明けちょっと違うな」
「何が」
「“帰る場所ある人”感」
「依子にも言われた」
「だろ?」
「何なんだよその感想」
「いや、分かるんだって」
「だから顔か」
「顔もあるし、落ち着き方もある」
「大友くんにそこまで言われると、逆に説得力ありますね」
ひなたが言う。
「それ褒めてる?」
「たぶん半分」
「微妙だな」
隣では依子が、何も言わずに少しだけ笑っていた。
放課後、部活のない日らしく、帰りはみんなそれなりに早い。
けれど、大友とひなたは途中でコンビニに寄るらしく、先に別れた。
残ったのは俺と依子と、少し前を歩く朱音。
春の夕方。
長くなった日差し。
まだ明るい住宅街。
「今日」
依子が小さく言う。
「何」
「なんか少し、安心した」
「何が」
「休み明けでも、そんなに何か変わった感じしなかったから」
「……」
「鬼塚さんも、そんなにピリピリしてないし」
「してるときはだいぶ分かるもんな」
「うん」
依子は頷いた。
「でも、今日は違う」
「そうか」
「うん」
それから少し間を置いて、依子が続ける。
「たぶん、連休の間に、みんな少しだけ今の形に慣れたんだと思う」
「……」
その言葉を、前を歩いていた朱音も聞いていたらしい。
振り返らないまま、ぽつりと言う。
「慣れたというより」
「うん?」
と、俺。
「戻れなくなった、の方が近い」
「……」
「何だ、その言い方」
「そのままだ」
朱音は少しだけ歩調を緩めた。
「前の、完全に静かな一人暮らしとか、誰にも踏み込まれぬ距離とか、そういうものへ」
「……」
「今さら戻るのは、たぶん少し違う」
「……」
帰り道の空気が、少しだけ静かになる。
言われてみれば、その通りだった。
前の暮らしは楽だった。
でも、今の暮らしを知ってしまったあとで、あの静けさへきれいに戻れるかと言われたら、たぶん違う。
101号室の前に着く。
鍵を開ける。
「ただいま」と言えば、誰かが返す。
その当たり前に、もう慣れてしまった。
夜、風呂も終わって、部屋が少し静かになったころ。
俺は一人でDKに出て、水を飲んだ。
テーブルの上には、二人分のマグカップ。
流し台には、晩飯のあとに拭いたままの食器。
手前の部屋からは、朱音がページをめくる音。
壁の向こうからは、依子が何かを机に置くような、小さな物音。
さらに、その向こうでは大友が帰ってきたらしい足音がして、少し遅れてひなたの部屋のドアが閉まる音もする。
全部、誰かが暮らしている音だ。
前の俺なら、静かな部屋の方が落ち着くと思っていた。
でも今は、その“少しだけうるさい静けさ”の方がしっくりくる。
「……」
コップを持ったまま、しばらく立ち尽くす。
何かを大きく決めたわけじゃない。
恋愛がはっきりしたわけでもない。
でも、生活の輪郭だけは、もう変わってしまっている。
「ただの一人暮らしには、もう戻れないんだよな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
言葉にしてみると、少し驚く。
でも、否定したい感じはなかった。
むしろ、その変化をちゃんと受け入れている自分に、少しだけ安心した。
休みは終わった。
日常がまた始まった。
それでも、この部屋の中には、連休のあいだに積み重なったものがちゃんと残っている。
ただの一人暮らしには、もう戻れない。
そしてたぶん、俺はそれを少しだけ好きになり始めている。




